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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
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第廿二夜 

 二〇××年 一月十九日

 

 雪原を抜け、山に入った途端、アトルは鼻を何度も鳴らし、数回唸りながら嫌悪感を露わにしました。僕は彼と同じ景色を見ながらその理由を考えていましたが、長い時間は必要ありませんでした。

 「人間のにおいがする」とアトルが口にしたのです。

 少なくとも目に見える範囲に人間の姿は見られませんでした。

 アトルも臨戦態勢に入っているわけではなく、警戒しながら、山のなかを進んでいるだけのようです。

 ここはおそらく、彼のよく知っている自然の山ではなかったと思います。多くの樹が切り倒され、道も整備してあり、ところどころに椅子や落下防止の柵が設置してありました。それらが意味するのは、ここを登る人間がいるということでした。

 アトルにはよく分からないものだらけでしたが、警戒心の強い彼は、それらにできるだけ近づかず、とても人間の力ではたどり着けないような山奥に慎重に進んでいきました。不思議なことに彼は山から離れようとはしなかったのです。

 山奥に近づくにつれ、悪路や崖が多くなり、要害のごとくアトルを阻もうとするのでしたが、彼は生まれ持った頑丈な巨躯によってそれらを簡単に乗り越えていくのでした。そうして山の奥へ奥へと進んでいき、ついにアトルは山の最深部へとたどり着きました。

 天然の木々のトンネルを抜けると、そこには神秘的な空間が広がっていました。

 正面に、天にまで届くように思われるほど巨大な苔むした古木が一本、柱のようにそびえており、その樹を円形に囲むように、ほかの同じように巨大な木々がそれぞれ大小の枝を絡ませつつ、天と四方に丈夫な枝の壁を築きながら立っていて、皆でひとつの部屋のようなものを作り上げているのです。

 天井は太陽光で明るく染まった若草色の葉で閉ざされていましたが、葉と葉の隙間からわずかに光が漏れ出していて、この空間を同じ若草色に染め上げているのでした。

 そこにはきっと誰もいないだろうと、僕らは思っていました。

 アトルは正面の古木の下にできていた大きな洞を見つけると、ここが自分の寝床だとでもいうように、ゆっくりと近づいていこうとしました。しかし、洞のなかを覗くと、そこには左の翼にけがをした小さな桃色の鳩が、息も絶え絶えに横たわっていたのです。

 翼には何か小さいものがえぐったような傷跡があり、そこからは血がわずかに流れ出ていました。けれども、彼にとってはおそらく〝わずかな出血〟ではなかったことでしょう。

 鳩は洞を覗く狼の大きな顔に気づくと、怯えながら目だけをこちらに向け、

 「あなたはぼくをたべるの?」と弱々しく問いました。

 対するアトルは鳩に対する疑問で頭がいっぱいで、しばらく黙っていたのですが、はっと我に返ると、

 「いや、私はもう肉を口にしないのだ。それに君を攻撃する理由もない」と言いました。

 「そう、それならもう少しだけそっとしておいてくれますか。もうすぐ、ぼくは死んでしまうと思うので」

 「そうか、ではそっとしておこう」

 と、アトルは洞の中に入っていき、そのからだで鳩を包むように座りこみました。そして、鳩の傷のにおいを嗅いだ後、脇の部分の体毛で傷口を軽く押さえるのでした。

 「私は必ず狙いをつけた寝床で寝る主義なんだ。狭いだろうが我慢してくれ」

 「ううん、とても、温かいです」

 そういって、鳩はゆっくりまぶたを閉じました。

 それからもアトルはじっと鳩のそばを離れず、その小さなからだを温め続けました。彼にとっては誰かの温かみというのは久しぶりのことで、こういう状況だというのになぜか笑みがこぼれてくるのでした。

 短い時間で出血は止まりましたが、鳩はなかなか目を覚ましません。それでも、アトルはじっとその場に座って、鳩の回復を待つのでした。彼が孤独の中で学んだことのひとつが待つことでした。

 はたして、鳩は目を覚ましました。

 アトルは彼の瞼が開かれたのを見て、

 「だいじょうぶか」と声をかけました。

 鳩は目を開けたときに狼にからだを包まれていることに少なからず驚いたようですが、アトルのおかげで永らえたことに気づくと、

 「ええ、ありがとう」とお礼を言いました。

 「動けるのか」

 そう問われた鳩はまず足に力を入れ、とりあえずは立ち上がれることを確認しました。それから翼に力を入れようとしましたが、右の翼だけしか動きませんでした。

 「見てのとおりです」鳩は残念そうに言います。

 「左は誰にやられたんだ」

 「人間です。ぼくに狙いをつけた人間の手から何かが飛んできて、僕は空から落ちたんです。幸いかすった程度でしたけど、それでもこの様です」

 「人間は飛んでいるってだけでそいつを狙うものだ」

 そうつぶやくアトルの言葉が胸に刺さります。

 「君はずっとここにいるのか」

 「ルーです。ぼくの名はルー。できれば帰りたいです、もともといた場所に。ここから遠くはないのですが、会いたい人がいます」

 「人?」アトルは怪訝そうに尋ねます。

 「ええ、こんな目にあってなんですが、ある女の子に。言葉は通じませんが、いつも遊んでくれる子がいるんです」

 「そうか、変な奴だね、君は」とアトル。

 「私はアトルという。旅の果てにここにたどり着いた。ここからどこへ向かうのかも分からない愚か者だが、君が元気になったら、君の故郷へ連れて行ってあげよう」

 ルーはその言葉に小さく目を開き、首をわずかに傾げながら笑いました。

 「あなたも変なオオカミですね。あなたのようなやさしいオオカミを僕はほかに知りません。でも、ありがとうございます」

 「いや、私は薄情者だよ」アトルは冷たい笑みを浮かべます。

 そして、僕の友はルーの言葉を反芻して、こうつぶやきました。

 『私たちは皆、時の流れのなかで、だれかに向かうのかもしれない。そばにいる誰か、遠くにいる誰か、もう消えてしまった誰か、いまだ生まれていない誰か。彼がどんなに孤独であっても、彼がどんなに目を閉じていても、私たちは誰かに向かっている。では、私は誰に向かっているのだ?』

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