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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
38/44

第廿夜‐中 

 二〇××年 十二月二〇日

 

 あの梟と過ごした幾夜かは、アトルの生のうち、もっとも安らかな時間だったといってよいでしょう。巨大樹の下で、彼は落ちてくる木の実や果実を口にしながら、のんびりと過ごしました。

 「美味しいでしょうな」

 梟はこうして、たびたびアトルに話しかけるのです。

 「そうだな」 

 「しかし、オオカミも果実を口にするのですな」

 「もともとオオカミは何でも食べるのさ。肉が多いというだけで」

 「しかしあなたは果実しか口にしていないではありませんか」

 「もういいんだ。別れは辛いからな」

 この老いた梟は間というものを弁えていて、尋ねるべき時に尋ねるべきことをアトルに尋ねるのでした。

 「ふむ。失礼、辛いことがおありでしたか」

 「いや、私が辛いという言い方はしてはならないのだ。辛いのは私ではない」

 「わたくしにも少しはわかりますとも。長く生きるということは、それだけ多くを失うということでもありますから」

 「そうか、そうだな。あんたはどれくらいの時間を生きているか知らないが、つらいことはあったんだろうな」

 アトルは食事をやめて、枝の上にいる梟の方へ顔を向けます。

 「そうですな。辛いというと、わたくしも自分を憐れむようで嫌なのですが、それでもどうしようもなく寂しくなったり、悲しくなったりはするものです」

 「それは仕方のないことか」

 「でしょうな」

 こうした他愛ない会話を幾夜か続けたのち、ある夜、アトルはついに家族のことについて話をし始めたのです。それを誰かに話すことは、少なくとも僕には勇気のいることでした。アトルでさえも、すぐには話し始めませんでしたから。

 「私には家族がいたんだ」

 ある日、人間によって息子と娘を同時に失ったこと。

 それで妻がおかしくなってしまったこと。

 妻の変わりぶりに堪えられず、傷つけてしまったこと。

 しばらくは何もできず眠っていたこと。

 いま、こうしてひとりで旅をしていること。

 アトルは落ち着いて、順番に話をしました。事実だけを淡々と。

 「そうでしたか」話を聞いた梟はゆっくりと頷きます。

 「私には生きる価値はないのだと何度も考えた。だが、今もこうして生き永らえている。あるとき、奇妙な人間が私にこう言ったのだ。その爪にも牙にも、大きなからだにもまだ何らかの意味はあると。私はそうあってほしいと願っているのかもしれない。確信は持てずにいる。こうして歩き続けているが、いつ崖底に落ちてしまうかも分からない」

 「わたくしも友人たるあなたの言葉に賛同したいところなのですが」

 梟は首を縦にゆっくりと回転させながら言います。

 「私には同情も憐みもいらない。どうか話してくれ」

 「では。そも、われわれには意味などないのです。われわれはよく自分に意味を持たせたがります。他のものにとっての自分の意味を持たせたがります。しかし、実際のところ意味はありません。あるのは意味付けだけなのです。

 あるものが生まれ落ちたとき、その生に、例えば神さまのようなものから意味が与えられるとは到底思えません。また、われわれが自身に意味を見出すとき、他のものが介入しないことはほとんどありません。何かのために生きている。その何かが他のものでないことは珍しいのです」

 「それは当然といえば当然の話ではないか。私たちは関わりのなかでしか意味を見出せない。あなたの言うように生まれ持った意味がないとしたら」

 「そうでしょうか」梟は首を縦にひねります。

 「関わりのなかでの存在の意味というのは確かにあります。子にとっての父、夫にとっての妻といったように。でなければ、多くのものは生きる望みを絶たれることでしょう。しかし、意味付けをするにしても、それだけでは不十分なのです」

 「どう不十分なのだろうか」アトルも首をかしげます。

 「われわれが他のものにとっての意味を自身に見出すとき、大抵はすでに用意された席に座ることで為されるのです。

 食べられる者と食べる者。

 教わるものと教えるもの。

 傷を負ったものと傷を癒すものといったように。

 それはきっと用意されていたものです。誕生以前からわれわれの外部にあったものです。それらを否定はできませんが、しかし、そこに座ることで、われわれの意味がすべて達成されると考える方が不自然ではありませんか」

 アトルは何も言わず、じっとうつむいて地面を見ています。

 「われわれの目には、他のものが映りがちです。しかし、その目を持つわれわれ自身にこそ目を向けねばなりません。己にとっての己の意味を持たねばなりません。繰り返すように、われわれ自体はそもそも意味の持たない偶然の産物です。しかし、意味付けはせねばなりますまい。ただ、他のものからしてもらう意味付けを疑わねばならないのです」

 「では、あの人間の言うことも間違いということになるのか」

 「いえ、それすらもあなたが決めねばならないということですな。その人間はあなたを認めたのでしょう。それを真に受けるかどうかはあなた次第なのです」

 「すると、すべてが頼りなく、消えてしまいそうな感覚になるな」

 「その頼りなさが、本来の我々のすがただと思うのですな」

 「私の狼としてのからだ、あなたの梟としてのすがた、そのすがたのうちに不安と頼りなさが常にあると」

 「ええ」

 「私は、私がよく分からない」

 「それはわれわれが生きているからです。生きている間に何もかもが変わっていくからです。時間とともにすべてが移ろうからです。我らはあたかも川のようで、しかし川というには、あまりに小さい」

 「やはり我らは頼りない生き物で、どうしようもないということなのか」

 「ふむ。あなたは立派な狼ですよ。少なくも私にとって、あなたに会えたことはここ何十年の間で最も良いことです。しかし」

 「それはあなたにとっての私の評価、ということか」

 「ええ。あなたのお話に出てくる罪という言葉。罪と言えば、おそらく罪を持ちえないものなどこの世におりますまい。もちろん、あなたの言っていることは、あなたの個別的な罪なのであって、それ故にあなたを苦しめているんでしょう。あなたはあなたを罰し続けるでしょう。ただ、その果てに自らの意味を見つけなければなりません。あなたにとってのあなたの罪の重さは、私がどう慰めようが、どう非難しようが変わりません」

 「罰が与えられるならそうしてほしいものだが」

 「仮に罰を与えられても、あなたはやはり今まで通りでしょう」

 「ああ」アトルは頷きます。

 「正直に言えば、罰など怖くないのだ。ただ、私は罪を負ってまでも積極的に進まなければならないという、その意味が分からない」

 『そう、醜い自分を知ってまで、生きなければならないとしたら、それは何のため?』

 僕の頭の中で、遠い昔のかつての恩師との会話が思い出されました。

 「まさか、この醜さによって何かが良いように変わるというのか」

 「おっしゃる通りなんですな。かくいう私も随分と醜いのです。嘘や傲慢、そういうものとは友人のごとく付き合ってまいりました。今では随分と静かになりましたが。

 開かれた目を持つには、どうしても、明瞭さから離れなければなりません。

 すべてに疑いをさしはさまねばなりません。あなたのように己の存在に疑いを持つことも含め、それは必要なことなのです。それによって生まれることもありましょう」

 「醜さ、弱さにも意味付けをしなければならないのか」

 「さて。意味にも多くのすがたがあります。意味にたどり着くまでの道も無数にありましょう」と、梟は再び首を縦にねじります。

 「しかし、いまの私のなかには後悔と寂しさと罪悪感しかないのだ」

 「果たしてそうですかな。そうやって迷い、苦しみ、あなた自身も傷ついて、いろいろと思いを巡らせている、そのこと自体がすでに意味なのですよ。どうしようもなく意味なのです。それが良い意味だろうが悪い意味だろうが、意味なのです」

 「揺らぎから逃れたいというのはただの甘えか」

 「甘えというより、本来われわれは揺らいでいるのですな。その揺らぎを世界の水面で止めることはできます。他にも波を発する無数のものが相殺してくれましょう。

 問題はわれわれが世界の水面の下にもいるということなのです。

 世界の水面の下にいる見えない我らの揺らぎは、だれにも止められず、しかもその揺らぎこそがわれらの自然なすがたにもっとも近いのです」

 「揺らぎに気づかなければ、それはそれで幸福だったのか」

 「そうかもしれません。

 しかし、それはある意味揺らぎがないという絶望でしょう。あなたは現に揺らいでいる。あなたの揺らぎは生来のものだ。過去のどの時点であっても、あなたが揺らいでいないときなど一瞬もないでしょう」

 『そう、幸せの陰に隠れて見えなくなっていただけで』

 「梟さん、あなたの名前を教えてくれ」

 「私はクウともうします」

 梟は落ち葉のようにアトルの目の前に下りてきてそう言いました。

 「そうか。教えてくれてありがとう」

 「あなたにとっての小さな意味にでもなれたら、それが一番です。わたくしの、わたくしのための考えが、あなたに響いたなら」

 アトルは微笑を浮かべ頷きました。

 そして、自らの罪や苦悩、後悔、寂しさをこころの身近なところにひそかに置きなおしました。それから、再びアルバのことを考えたのです。

 『罪を償うことはできない。罪は決して消えない。

 時は戻らない。時は止まらない。

 このこころを刺す鋭く重い針が、貫きはしないまでも、深く食い込んていて、私に痛みを与え続けている。針を抜こうと思えば抜けるだろうが、それをしては、私の存在のうちの重要な意味が消えてしまう。 

 己の心臓に針を刺し続ける覚悟があるかどうか。

 それが方向違いにはなるが、ある種の誠実さということになるだろう。

 この行為がアルバに報いることになるかは分からない。自己満足なのかもしれない。それでもやらないよりは』

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