第廿夜‐前
どこまでも白く、無機質な作りもののように感じられる月と。
真黒な、星のない、黒いカーテンのような空。
僕らのそらは移り変わります。絶えず、生きている限り。
アトルの瞳は、じっと月に向けられていました。
僕はある絵のことを思い出していました。
有名な絵ではありません。かつて僕の身近にいてくれた恩師が描いてくれた、あれから僕の人生にたびたび現れた狼の、おそらくアトルの、絵。
いえ、今思えば、あれは僕なのかもしれません。
先生が知っていたのは、アトルではなく、この僕なのですから。
二〇××年 十二月十五日
月光というには明るすぎるその光は、あたりの雪原を、そこにいのちの息吹がないと感じられるほどに白く染め上げていました。見渡す限り何もない雪原を、アトルは道に沿って歩いていきます。
歩き続けるうちに、一本の細く歪なかたちの影が、遠くに見え始めていました。
アトルはこの無機質な雪原の上に刺激が現れたことに興味をひかれながら、少しずつ速度を上げて、その影に近づいていきます。
やがて、一本の巨大な樹がアトルの左前に、ぬっと影のように現れました。
蔦が縦横無尽に絡みついた、怪物のような形の樹。
その樹に生えている無数の葉は空の一部を閉ざすように生い茂っています。
「こんばんは」
樹が話したのかと思うほどタイミングが合っていたので、アトルは驚いてからだを強張らせましたが、言葉を発したのは樹ではありませんでした。
「こんばんは」再び声がします。
見上げると、まるでハンガーのようにうねりながら伸びている一本の太い枝に、まっ白な梟が、浮遊しているように佇んでいます。その梟は明らかに普通の梟よりも巨大で、おまけに随分と歳をとっていました。目や嘴や翼などがすべて垂れ下がっているように見えます。
「こんばんは。黒くて灰色の狼さん。いや、申し訳ない、私くらいの歳になると目が悪くなりましてね、あなたの色すらもまともに分からないという有様でして。ところで、どこに行かれるのですかな」
初対面で親しげに話しかけてきたこの梟に対し、アトルは明らかに警戒していました。もともと気を許した相手にしかこころを開かない彼のことです。当然といえば当然の反応でした。
「あんたはだれだ」
「ここに長いこと住んでいる梟ですよ。誰かがここを通るなんて珍しくて、つい声をかけてしまったというわけですな」
「狼ノ山という場所を知っているか」
「さて、どうでしょうか。あるかもしれませんし、ないかもしれません」
「そうか、では失礼する」と、アトルが樹を通り過ぎようとすると、
「まあまあ、お待ちなさいな」と梟。
「そこになにか用なのですか。私も何か助けられるかもしれません」
アトルはうつむいて何も答えません。
「どうやら、話しにくい事情がおありのようだ。それに長旅をしていると見えます。どうです、ここでしばらく休んでいかれては。この樹の下は安全ですぞ。食べものもたくさんある。わたくしの知っていることならなんでもお教えしましょう」
「何が目的だ」顔をあげ、梟を鋭くにらみつけます。
「しいて言えば、あなたをお助けすることです。それに知識のあるものは何かと語りたがるものですよ」
梟は微笑を湛えながら言いました。
ふん、とアトルは鼻で笑いました。
ただ、それは嘲笑ではなく、梟の言葉に嘘がないことを見抜いたうえでの微笑というべきものでした。
「分かった。しばらく世話になろう」
「そうですか、ではこちらへ。この樹は大きい故、いくらでも休む場所はありますとも」




