第十九夜
二〇××年 十二月八日
道に沿って真っすぐと歩いていくうちに、僕らは小さな森へとたどり着きました。大きなきのこ笠のように、地面にこんもりと乗っかっています。木々は青々としていて、こんな冬景色の中にある森だとはとても信じられないくらいでした。その森には小さな入り口があって、まるで僕らを誘っているような気がしました。もっとも、彼が歩む道は一本道だったので、こうして道の上にあるものは避けようにも避けられないのでしたが。
アトルは特に何も考えず、森のなかへと歩みを進めます。
実り多く、生きものの気配の多い森でした。
草木や木の実、それに少し湿った土のにおい。鳥や小動物、虫たちの鳴き声。
しかし、そんな森の協奏曲のなかを、機械的な重低音が遠くで響いているのに気づきました。それは森の中心に近づくにつれて、どんどん大きくなり、森の音を次々にかき消してしまいます。不協和音というにはあまりに露骨で、まさに騒音と言った方が正しいのでした。
「何の音だ」
優れた耳ゆえに不快感は甚だしいのでしょう。アトルは早くここから去りたいと言ったように独り言ちます。
それからいくらかも歩かないうち、森の中心に、小さな小屋と、それに接続された小屋と同じくらいの大きさの機械が建っているのが見えました。
小屋はどこにでもあるような木製の小さなものでしたが、その隣の機械と言ったら、僕ですらも見たことがないような歪なもので、まるで巨大な生きものの心臓のように見えるところもあれば、まさに機械と言ったような硬質で角々しいところもありました。それは常に小刻みに震え、洗濯機の脱水音を十倍増しにして、刃物同士が擦れ合う音を足したような不快な音を発し続けていました。
アトルにはもはやそれが何なのか想像もできなかったと思います。
機械というのも、彼は見たことがないはずでしたから。それなのに、警戒心の強いはずの彼が、そこに居続け、小屋の様子をうかがおうとしていたのは、僕という理由があったからでしょう。僕が〝それ〟の存在の意味の一部を想像できていて、彼にとっても、すでに機械は全く未知のものではなくなっていたからでしょう。
さて、小屋にはまぶしい暖色系の明かりがともっていて、小屋の外からでも、中にいる者たちの様子を影絵のようにうかがい知ることができました。
見れば、中にいるのは人間の家族で、どうやら食事をしているようなのでした。
まるで見計らったように機械の音が小さくなります。
「ねえ、お父さん、このお肉はおいしいね」
少年の声が聞こえます。
「そうだろう」答えたのは、どうやら父親のようです。
「これは何のお肉なの」
「それはね、牛のお肉だよ。そのとなりのは豚だ」
「牛ってなあに、豚って?」
「それはね、おいしいお肉さ」
「それじゃあ分からないよ。牛や豚って何なの」
「ごめんな、父さんも見たことがないんだ。牛や豚っていう名前は知っているんだがね」
「ふうん。それよりももっと食べたいな」
「ああ、どんどん食べて大きくなるんだ」
と、父親が立ち上がって、何かを操作しているのが見えました。
すると、再び機械が作動して、例の不快な音を発し始めました。アトルは機械の方に目を向けました。その機械の心臓のように見える部分へ、ベルトコンベアーに乗った牛や豚が次々と運ばれていきます。
「人間の家畜どもじゃないか。あの中に入っていくのか」
アトルはさほど興味もなさそうに再び小屋に目を向けましたが、数秒も立たないうちにふたたび機械に目を向けることになりました。機械が発した轟音によってです。牛や豚がその機械に入った途端、血飛沫とともに、その肉を切り刻む音と牛や豚の悲鳴が聞こえたのです。
「何が起こってるんだ」
『殺されているんだ』耐えかねて、僕はアトルに言います。
「殺されている?何のために」
『食べるためだよ』
「たべるため?」
アトルにとっての食べると僕らにとっての食べるは決定的に違うのです。彼が疑問を持つのも分からない話ではありません。
機械と小屋は太い透明な管のようなものでつながれていて、機械の中に入っていった動物たちはみるみるうちに、人間が食べやすいような形の肉塊に変わっていました。それらは小屋に次々と運ばれていき、そこにいる父子の胃袋へと入っていくのでした。
「父さん、おいしいね」
「ああ、本当においしいな」
「ねえ、このお肉はどこからやってくるの」
「さあな、父さんはこのレバーを下げれば肉がやってくることしか知らないんだ」
「ふうん」
「そんなことは気にしなくていいんだよ。レバーを下げれば肉がやってくる。それでいいじゃないか。それで幸せじゃないか」
「お肉はなくならないの」
「なくなるわけがないじゃないか、みんなお肉が大好きなんだから」
機械音は再び収まり、それと同時に小屋の明かりは消え、父子の会話もなくなりました。同時に森の協奏曲が空気の間を流れていきます。
『俺たちが何かを無数に狩り殺した末に死ぬか、可能な限り何かを殺さないように生きた末に死ぬかは、大きな問題だ』
「アミト。あんたがこれを知っていたはずはないな。小屋の人間は絶望しているよ。絶望していると気づかずに絶望している。この状況が常識となっている彼らは最も深い絶望の中にいる」
自分の頭を強く殴られたような気がしました。彼らの血が、痛みが、声が脳にフラッシュバックします。彼らの死は遠い世界、まるで嘘のように、そこにありました。けれども、やはり現実でした。
「食べるために殺すことから遠ざかる。食べるということが遠くなる。生きものに対して無感情になる。食べることがただの習慣になる。それで、何もかもが遠くなる。歩くこと、呼吸すること、話すこと、眠ることから人間的に遠ざかる。しまいに人間ということから遠くなる。
私も小さな頃を思い出したよ。狩るということは、何かと何かを別れさせることで、それでも、私たちは何かを喰らわざるを得ないということを。だから、私はできるだけ肉は喰らわない、そうしていたはずだ。
それを忘れていた。仕方のないことだったが。
思い出さねばならない。失うことが何かを気づかせることがある。
そうすることで、私の醜さはわずかも減ることはないが」
そう、それを優しさと勘違いしてはなりませんでした。自らの決意を善いものとするのをやめねばなりませんでした。ただ、そうするから、そうせねばなりませんでした。理由を己以外に求めるのをやめねばなりませんでした。
アトルは真っ暗になった小屋の様子をうかがいながら、通り過ぎていきます。何かが出てくるような気がしたのです。けれども、既に小屋のなかからは生きものの気配は消えていました。血や肉のにおいさえ。
僕らは森を出ていきました。
遠くに、またあの不快な音が響きはじめたのを、友の鋭敏な耳は捉えていました。彼の耳を通して、僕はその音をより内側に感じたのです。




