第十八夜
二〇××年 十二月五日
『もし、ずっと眠り続けることが、死と同じだとしたら。このまま眠り続けることで、私は死ぬことができるのだろうか』
半分死んだように眠り続ける日々。
長い間、アトルはオオカミの形をした岩のように微動だにしませんでした。
『不思議なことだ。ほとんど何も食べなくなっても、からだは生きている』
目覚めているのか、それとも、眠りながら、夢の中でこうして言葉を吐いているのか、それすらも判然としない意識のなかで、
「私は緩やかに死にむかっているのだ」とアトルは独り言ちます。
このときの彼の頭の中には、奇妙なことを尋ね去った老婆と、今の自分と同じように、長い間眠り続けたことがあったという友アミトのことが浮かんでいました。
『私にはまだやるべきことがあるのか。そんなはずはない。もう私は自分の生の核を失ったのだ。それはもう戻ってこない。
そうだ、アミトはさやの元に行けたのだろうか。彼にもじっと動かずに眠り続ける時間が必要だった。最後に彼女の元へ帰るために。
では、私はどうなのだ。
もし、私にまだやるべきことがあるとして。
そのためにいまだに永らえているとしたら。
アミトにとって若いころの私がきっかけとなったように、私にも、何かきっかけがあるのだろうか。それを生きて待つべきなのだろうか。前兆を』
「いや」短い息のような発語。
『〝それ〟はもう訪れた。あの醜い人間だ。
かつて、孤独な私には漠然とした進む目的があった。
しばらくは家族に囲まれ、幸福のなかでそれを見ずに済んでいたが、こうして、また独りになったとき、私の、おそらく純粋な道が再び眼前に現れてくる』
アトルがゆっくりと立ち上がります。
『狼ノ山とやらに行かねばなるまい。ジャイアントの言葉が真実なら、もしかすると、皆に会えるかもしれない。いなくなってしまった皆に』
これまで見たことがないほど緩慢で頼りない動きでした。
どれほどの時が彼を縛り付けていたのか、肢は細く弱くなり、あの漆黒の毛皮にも灰色がところどころ混じるようになっていました。
『老いたな、私も』
アトルはゆっくりとかつての勘を取り戻すように外へと歩いていきます。
狼王の息子として、恵まれた体躯を持って生まれながら、いまこうして見る影もないほどに弱り切ったアトルの動きを見ているのは、僕にとってもつらいことでした。
ただ、彼は夜明けに向かって歩こうとしていました。
夜と朝、希望と絶望、すべての対しょう的なものが溶け合ってひとつになる、時の果てに向かって。
雲の切れ間から差し込む一筋の光が、洞窟の外を明るく照らしていました。
「なあ、友よ。俺は嘘を語りたくないのだ。生は希望に満ちているという言葉も、絶望に満ちているという言葉も、真実ではないのだ」
かつての友の言葉が僕らの内に響きます。
「アミト、あんたは正しいのかもしれない。だが、私も探すよ。罪深い私が生きる、私にとっての意味を」
これは再起をかけた希望への旅ではありませんでした。
一方で、死に場所を探すための絶望への旅でもありませんでした。
ただ、自らの生を運命や神や他者などから引き離して、自らの爪と牙で以て、歩き続けた一匹の〝生きた〟老狼の旅でした。
久しぶりの外は、アトルにはまぶしすぎたのかもしれません。
空の明るさ、空気の澄んだ感じ。
長い間、洞窟の中に引きこもっていたアトルにとって、ただ世界が明るいという事、ただ澄んでいるという事は、ただそれだけで、彼を責め立てているように思われたのです。
かつての堂々とした足取りはもう消え去っていました。
何か重いものを背負わされているかのように、首は常に下を向き、オオカミらしからぬ遅々とした足取りで何とか進んでいくといった有様なのです。
ただ、彼は自己を憐れむという行為を一切しませんでした。
彼はすべての選択を彼自身のものとしていましたし、襲い来る〝不幸のようなもの〟に対してさえ、そこから前兆を引き出す姿勢で以て立ち向かいました。ゆえに、彼にとって絶望的な不幸は存在しなかったといえるのかもしれません。もちろん、絶対的な幸福も。
生を幸不幸で論ずる領域を、彼は寝ている間に通り過ぎていたようです。なぜなら、彼が目覚めて以後、彼が自身を幸福である、とか、不幸である、といったことを口にすることは一切なかったからです。
ふと、アトルが重い首をあげて、はじめて前方を見すえました。
「さあ、私はどこへ行けばよいのだ」
自分がいま立っている場所から、はるか先を見つめます。
天に届くほどの高さの、雪化粧をした山々が、彼の行く手を阻むように聳え立っていました。森の中に何か巨大な茎を持った植物が生えているかのようにも見える、急な稜線を持つほっそりとした女性的な山々。
ただ、僕にはそれらが何かを守る巨人のごとく、重々しい威圧を放っているように感じられました。アトルはほんとうにこの山々をこえてゆくのだろうか。もうかつての力強さはないというのに。それが彼の試練だというのでしょうか。
僕が未来を恐れつつ、友の身を案じていると、
「ちがう。ちがうんだよ。そうじゃない。これは試練なんかじゃない。私の生だよ。ただ一匹の私の生なんだ。まるで神が与えたもののように言うんじゃない。たとえ苦しくとも行くしかないんだよ」とアトルは言いました。
みれば、雪原のなかをまるで一本のみちができていました。
少し前の吹雪のせいでしょうか。雪が吹き飛ばされて、その下の土が露わになっています。それがはるか先まで続いていて、まるで道のように見えていたのです。
『生きる過程には無数の罪が待っているだろう。ともすれば、お前自身がお前を壊そうとするだろう。それでもお前は生きねばならない。できれば、こどもの頃の遊戯のように、生きねばならない』
アトルの脳裏に父ロボの言葉が浮かびます。
「遊戯、あそび」
彼は同じ単語を繰り返しながら、その真意に迫ろうとします。
脚は勝手に動いていました。まっすぐ、道に沿って。
「遊びとは、手を抜くことでも、楽をすることでもない。遊戯の如く生きるとは、毎日、瞬間、瞬間が、どうなることなのだ?」
彼は自らの未来、罪と罰、アルバのことを順番に考えていきながら、ゆっくりとみちを歩いていきます。方向や行く先などは分かりませんし、その先に保証も栄光も称賛もありません。ただ、彼は歩いていきます。自らの罪と醜さを背負って、絶望の崖の淵に落ち込まないように進んでいきます。以前よりもわずかに楽に。
彼は開き直っているといえるでしょうか。
いえ、こうせねば進めないということなのです。
あるとき、彼は独り言ちました。
「死とは終わりだ。ただの、終わりだ。死は夜でも、夜明けでもない。そこに希望も絶望も持ち込むべきではない。希望に満ちた未来の保証も過去の罪の清算も、死はやってはくれない。だから、生きねばならない。私は生きている間にアルバやコルンやアイルに、ひとつの誠実性を見せねばならない。私の生の誠実性を」
彼の足は狼ノ山に向かって進んでいきます。
ただ、彼には道しるべが必要でした。僕にとって中上先生がそうであったように。




