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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
32/44

第十五夜 

 湖に深く沈んでいって

 奥底に夜が見える

 夜は彼の色

 彼は夜、だから僕もやはり夜なのだと


 では、夜とは?

 それは昼ではないということ

 朝でも、夕でもないということ

 夜は朝を呼び寄せる 

 終わらない夜は、ない 

 終わらない夜は

 二〇××年 十一月八日

 

 僕らはどこに向かっているのでしょう。

 明りのない闇のなか、雪がほのかに白く浮かび上がらせる道を、僕らは当てもなくさまよい続けました。

 『アルバ』

 妻の名を彼は頭の中で呼び続けます。その白い息のなかに、想いだけが溶け。

 もう、どれくらい前のことなのか。

 少し前のことのようにも、随分と昔のことのようにも感じられます。

 混乱と憤怒を纏った自らの爪で愛する妻を傷つけ、遠ざけた、あの夜。

 『こうして何度も思い出したところで、何になるというのか』

 刻みつけられた記憶は容易には薄れません。

 あの破滅的な夜を思い出す度、純粋な憤怒と混乱が再び首をもたげ、全身が汗に濡れるほど熱くなります。その果てに、必ずひとつの事実に突き当たるのです。つまり、あの時の怒りは正当性も整合性もない、ただの怒りであって、それ以外のものではないと。あの夜からいくらか冷静になって、この事実だけははっきりとしたようです。

 しかし、やがて熱が過ぎ去り、汗も乾くと、恋しさと寂しさと後悔が襲いかかってきます。妻のぬくもり、家族と過ごした楽しい日々、それらがすべて思い出されては灰色の空の中に掻き消えて、存在の内から、からだが震えるほどの冷たさが沁みだしてくるのです。 

 加えて、いまこの世界には吹雪が吹き荒れています。

 アトルは内からの冷たさと外からの冷たさの両方に苛まれ、歩くのもやっとといったところでした。

 『どうしてあんなことをしてしまったんだ。

 いや、事実を拾っていけば理由はいくらでもある。問題はそこじゃない。問題は、俺がそういう風に生まれついているということだ。いままでは隠されていたのだ。良い夫、良い父。隠されていただけで、最初から俺はこうだったのだ。子どもたちの死にさほど動揺しなかったのも!』

 この事実を自らによって突き付けられたとき、彼は居ても立ってもいられなくなって、自らの左前足に勢いよく牙を立てました。

 まるで獲物を絶命させるときのような鋭いあぎと。

 できた傷口からは血が流れ、しばらくは痛みで歩くこともままならなくなりました。この痛みは僕の左腕にも走り、その痛みによって、存在自体の罪を責められたような気さえしました。

 けれども、彼のこころは次第に無感動なものになっていきました。

 何が自分を喜ばせ、何を美しく思い、何のために生きているのか。何を悲しみ、何を嫌い、何のために死に突き進むのか。そのすべてが分からなくなり、それらは存在の苦悩として、僕らの奥に錘のように沈んでいきました。

 ただ歩き、ただ他者を喰らい、ただ呼吸をしている日々の中で、アルバの存在だけはこころに棲み続け、ときに彼に愛の言葉をささやいたり、ときに彼を苛烈に責め立てたりしました。

 彼女との思い出のすべては美しく、それだけで生きていけるような気がしました。

 しかし、それらの幸福を打ち砕いた自己のすがたをみると、どうしようもなく虚しくなり、その度に、まるで生に刺激を与えるかのように自身を爪や牙によって傷つけるのでした。アトルのように生来、からだが丈夫でなければ、彼は繰り返される自分の行為によって自らを破壊していたことでしょう。

 それで僕も消えていたことでしょう。

 あるとき、どうしようもなく、衝動的にアルバに会いたいという思いが彼の内から湧き出てきました。

 「アルバに謝ろう。それでどうにかなるわけでもないが」

 アトルは、来た道を戻り、彼女に会いに行こうと決めました。

 子どもたちもきちんと葬って、その先は分からないけれど、とにかくそうしよう、と。

 いま歩いている、ここがどこなのか、彼も僕も分かってはいませんでした。

 いえ、そもそも、この世界自体がどこと言える類のものではないのです。僕らは他のあらゆる存在が、自分の存在の外側を塗りつぶしてくれることによって、その存在を浮かび上がらせているに過ぎません。だから、僕らは誰かと出会い、話すことによって、はじめて僕らの外側に場所を得られるのです。

 いまのアトルは、その外側にあるべき場所を失っていました。ほんとうに独りでした。

 あるのは、アトルの内にだけある僕らふたりのこころだけであり、それはとても場所と呼べるものではありませんでした。けれども、そのふたつのこころだけが、純粋に僕らを僕とアトルにしていて、おそらく、僕らの存在にとってそれ以上に大切なものなどありはしなかったのです。

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