第十四夜‐前
二〇××年 九月九日
肩に何か重いものが乗っているような感覚。
そう、アトルはほんとう重いものを背負っているのだと、見慣れた夜を思い出しながら僕は思い出しました。
僕の中で、ここ数日の景色は見たくないものでした。見たくないものだったので、しばらく、こころがアトルたちの世界から遠ざかっていたような気がします。見たくないものや聞きたくないもの、知りたくない事実、それらから遠ざかるにはおそらく逃げることが一番です。
ただ、地の果てまで逃げたとしても、自分自身からは決して逃げられない。
アトルの存在は、僕にそのことを突き付けていました。
それで、僕はまたアトルになったのです。
彼はその背に重い喪失をのせて、妻の元へ帰ってきていました。
「アルバ、いるのか、アルバ」洞窟の暗がりに呼びかけます。
「いるわよ」と、帰ってくるアトルを睨むように見つめるアルバ。
「コルンなのね」
「ああ」
「どうして、こうなったの。ああ、狩りになんて行かせるんじゃなかった」
「アイルは」
「ここに寝ているわ」
と、本当に寝ているかのように横たわる娘のからだをいとおしそうに見つめます。
「埋めてやろう」アトルは小さな声で言いました。
「何を言っているの」
「いつまでも地上で苦しみ続ける必要はないんだ」
「だから、何を言っているの」
「アイルとコルンを大地に返してやろうといっているんだ」
「ふたりとも私の子よ!」
アルバはこれまで見たことがないくらい恐ろしい形相で、そう叫びました。
「俺たちの子じゃないか。ふたりを葬るんだ。それが今できる唯一のことだ」
「あなたは冷静ね。いつだって」
「どういう意味だ」
「子どもたちのこんな姿を前にして、どうしてそんなことが言えるの」
「俺が辛くないとでもいうのか。俺は」
「もういいわ。あなたが正しいのかもしれない。でも」
アルバは立ち上がって、夫の前に立ちふさがります。アイルを守るように。
「私はコルンとアイルと一緒にいる。コルンを返して」
アトルは妻の迫力に気おされ、言う通りにしました。何か間違いが起こる気がしたのです。彼は息子を優しく妻の前におろしました。
「いつまでも置いておく方がかわいそうだとおもわないのか」
「あなたは黙って!」
血塗れのこどもたちを傍らにおいて、青色の瞳でこちらを睨む純白のアルバのすがたは、かつての優しい母のそれではなく、死者の魂を守り、やがて連れ去る死神のようでありました。
「今日はここを出るよ」何かを諦めたようにアトルは言いました。
「好きにすればいいわ」
「また帰ってくるから」
妻からの返事はありませんでした。アトルは恐ろしげな妻のすがたを見つめながら、住処から出ていきました。妻はやはり僕らを睨んでいました。
どこに向かうのだろうと思っていると、アトルは洞窟の外で立ち止まり、濃紺の空に浮かぶほとんど真月のような月を見ながら、こうつぶやきました。
「アミトが話してくれたさやの事を思い出す。アミトは大切なものを殺されたとき、残酷な復讐をした。それが彼の想いを表す行為だったのかもしれない。だが、俺はどうなんだ。大切に想うというのは、どういう事なんだ。そのために身を投げ出すことなのか、そのために本気で怒ることなのか、何もかもを許容することなのか。あるいはそのすべてなのか。そのどれでもないのか」
アミトは月から目を背け、首を振ります。彼はどこかへ向かって歩き始めました。
「俺は子どもたちのために復讐してやることもできないのか。そもそもだれが殺したのかもわからない。
この喪失感のすがたはなんだ。
大きなものを失ったのに、まだ何かが残っているんだ。すべてを失ったんじゃない。どうして俺は子どもたちのために、アルバのように悲しめないんだ」
『アルバがいるからじゃないのか』
僕らの声がまた重なりました。
「そう、アルバなんだ。
俺はアルバと一緒に生きていかねばならない。このまま、ふたりともが喪失と絶望の海に沈んでいくことはない。もう希望とともに生きていくことはできないにしても、常に絶望がこの身を苛むにしても、俺たちは生きていて、生きている以上は何らかの意味付けをしなきゃいけないのだから」
『そうでないと生きることが嫌になるから?』僕は思わずそう尋ねました。
「そう、嫌になってしまうから。すべてが」
『え?』思わず声を出しましたが、それだけでした。
僕の驚きに彼が反応してくれることはなかったのです。
アトルはそのまま、近くの小高い丘の上へ向かいました。
彼はそこで夜空に向かって遠吠えをしました。
アルトから徐々にソプラノへ。
彼の遠吠えはひとつの短い音楽のように空気をふるわせました。
ただ、実に暗く儚い響きでした。その高音は確かに美しかったけれども、張りつめた細い糸のように頼りなく、ほんの短い間に空気に溶けてしまいました。聴いているこちらの生きる力が失われてしまいそうな魔的な響きでした。
僕はアトルの姿を外から見ることはできませんでしたが、この時の彼のすがたは、ありふれた、一般的な狼のイメージであったと思います。
月夜に叫ぶ狼。アトルでない狼が僕の脳裏に浮かびます。
僕らはもしかすると、こうしたイメージということでしか、何も語りえないのかもしれません。こんなに身近なアトルでさえも、イメージとしてしか知ることができません。僕らは何を頼りに言葉を紡ぐのでしょう。その言葉が真実であるように何かを語ることはできるのでしょうか。嘘を言いたくないといったアミトのように、ほんとうのことを話すには何が必要なのでしょう。アトルの遠吠えは、僕にそんなことを考えさせました。
この遠吠えをアルバも聞いていただろうと思います。
彼女は何かを感じたでしょうか。それとも、もう声すらも聴きたくなかったでしょうか。
それでもアトルは彼女に向けて叫んだのでしょう。
言葉では言えないことを伝えようとしたのでしょう。
「これが現実なのか」
遠吠えを終えて、地面を見つめながらアトルは言いました。
「コルンとアイルがいなくなって、アルバも俺に対して不信感を抱いている。もし皆がいなくなってしまったら、俺には何が残るんだ」
この時点で、僕はやはり、自分との類似点を彼に見出したのです。
最悪の想像。未来に起こりうる不幸らしきものを、先に想像する。想像することで、耐性ができる。耐性ができれば、不幸の最中でも何とか生きていられる。アトルには強者らしい風格に似つかわしくない弱者の性質も宿っていたようです。
彼はアルバのいない未来を想像してしまった。
それは揺るがないひとつの心的事実でした。それはやがて現実へ侵食します。現実の事物のように、例えば流れ出る血を手で押さえて止めるように、その事実の浸食を食い止めることはできないのです。




