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狼の詩  作者: ゆうなぎ
少年編
3/44

第三話

 それからの二週間は本との格闘が続いた。

 なにせ、漢字が多い、文体も古い、量も多い、と三拍子そろっているのだ。

 毎日、学校から帰って、ピアノの練習をして、夕食を食べたら、机に向かって宿題を終わらせる、そして、お風呂に入ったら、寝るまで『狼』を読む。その生活が続いた。

 提出が一週間後に迫ったあたりから、オオカミの生態や逸話、歴史などを、父、慶郎にパソコンの操作を教えてもらいながら、レポートとしてまとめていった。その時点では本をすべて読み切ることはできないでいたから、読書と作成は並行して行われた。休日となると、半日はその作業にあてなければならなかった。

 課題の提出様式は、特に定まっていたわけではない。

 班を作って、模造紙にまとめても良かったし、優のようにパソコン等でレポートを作るのも、手書きでノートにまとめるのも許可されていた。これはのちに知ったことだが、パワーポイントを使って発表しても良かったらしい。

 そして、課題提出の日はやってきた。

 優は十枚ほどにまとめたレポートを授業の終わりに教卓の上に提出した。

 中上先生の判断で、これからの二回の授業中に三つの班と一人の生徒が発表することになった。さすがに全員が発表する時間はないとのことで、発表できない生徒は、放課後、先生と課題について話をすることになった。一対一で話すのを好む中上先生らしい判断だった。そして、優は発表できない側の生徒だった。

 課題の提出から、さらに二週間後、優は中上先生に呼び出された。

 おなじみの進路指導室に、だ。

 先生は少し嬉しそうに、優を目の前の席に座るように勧めた。その右手にはファイルと優の提出したレポートが握られている。

 「こうやって、向かい合って話すのは久しぶりかな」

 「はい」と、優はほんとうの笑顔で応える。

 「まあ、これは私が自由にさせたせいもあるのだけれど」

 と、先生は早速レポートの話にうつった。

 「提出された課題のなかにも、発表向きのものとそうでないものがある。ほら、高倉くん、彼はパワーポイントにまとめていたでしょ」

 うん、と無言でうなずく。

 「あれは発表向きだね。そもそもパワーポイントが発表するためのものだからね。それで、黒澤くん、君の課題は、様式、量、内容、いずれをとっても発表には向いていない」

 こういう率直な物言いは、優も好むところで、向いていないといわれたところで、特に悲しみは感じなかった。中上先生の言葉からは悪意を感じられなかったというのもある。

 「もちろん、これは褒めているんだよ。考察はあまり含まれてないけれど、感想の部分は特に読み応えがあった」

 「ありがとうございます」

 優は、はにかみながらそう言った。一見すると爽やかなその笑顔は、優が自分を守る手段のひとつとしているもので、多くの人はその笑顔をこえて距離を詰めようとしない。言葉では表せなくても、雰囲気で分かるのだ。作り笑顔ではないにしても、なんとなく泣き出しそうにも見える、この〝悲しみの笑顔〟の意味を。

 この〝笑顔の盾〟を壊して距離を詰めようとする人間は、何も考えていないか、ほんの少しの興味を持って接近してきたか、ほんとうに優のことを知ろうとしてくれているか、のどれかだろう。ただし、三番目の割合は圧倒的に低い。

 「ああ、いいんだよ。そんなに構えなくて」

 次の瞬間、優の顔から笑顔が消えた。

 「え?」

 「先生は黒澤くんの敵じゃないよ」と、中上先生は微笑する。

 彼は稀有な三番目の人間だった。しかも、愛情にあふれていた。

 「先生には分かりますか」

 「うん、見えないヴェールがあるみたいだ」

 「すみません、たぶん、癖なんです」

 この時、自分がそう言ったことを、優は生涯忘れたことはない。自分があらゆる人間から意識的にか、無意識的にか、距離をとろうとしていることを、自ら打ち明けたのはこれが最初だったからだ。

 「いや、いいんだ。そのことについて、あれこれと聞くつもりはないよ。別に悪いなんて思わなくてもいい。ただ、先生と話をしよう。できれば、こころから」

 「先生と話すときは、そのつもりではいるんです、いつも」

 「うん、分かっているとも。ありがとう」

 「先生は、いやじゃないんですか?」

 前から聞きたかったことだった。いつもなら、ぐっとこころの底に沈めて、浮かび上がってこないようにするところだったが、この時の優はそれを思わず口にしていた。

 「少しは分かるからね、君の気持ちが。全部分かるなんて、大それたことを言うつもりはない。ただ、先生にもそういうところはあるんだ」

 「そうなんですか。先生にも?」

 「うん。なぜかといえば、そうそう、君のレポートにも書かれていたね」

 中上先生は、優のレポートの最後のページを開き、一部を読みはじめた。

 『以上のように、オオカミという生きものは、その定着したイメージとは裏腹に、大変愛情深い動物なのです。彼らオオカミに限ったことではありませんが、人間以外の動物は自分を偽ることなく生きています。これを本能的と呼んで、人間の理性よりも下に見る考え方もあります。けれども、ぼくは自分を偽ることなく生きられることをうらやましく思います。生きていると、ぼくのような年でも、世界には多くの嘘があふれていることが分かります。嘘にも、他人を思いやる嘘とそうでない嘘がありますが、世の中にあふれているのは後者です。そんな世界では、逆に自分を偽らないことに力を注がねばなりません。しかし、これはこれで難しいもので、気づかないうちに自分を偽っていることもあります。でも、ぼくはできることなら、ほんとうの自分自身を生きたいと思います。そう、自分の爪と牙でたくましく生きた、愛情深いオオカミ王ロボのように』

 「と、君が言うように世界には嘘が多いからさ。先生も嫌になることはあるよ」

 「それはともかく、ここには」と、中上先生は言った。

 「ここには、君が、すべてではないけれど書かれているね」

 「はい」と、優は返した。

 「ぼくは、名前とはちがって優しくはない人間です」

 「どうして、そう思うんだい」

 「ぼくには変な癖があります。それにあまり他人に関心がありません。先生にもお分かりだと思います」

 中上先生は優をじっと見すえながら無言でうなずく。

 「周りの人と良好な関係を築くことはできるのです。もちろん、表向きの。優しいといわれることさえあります。でも、決してそうではありません。ほんとうの優しさ、愛情というのは、そのひとの幸せや成長を真に願っているものだと思います。そのためには優しいだけではなく、ときには厳しく接しなければなりません。でも、ぼくはただ自分のためだけに、当たり障りのない態度をとっているだけなのです。だから、こころから愛することに憧れがあります。ロボのように自分を犠牲にしてまで愛することがぼくにもできるのか、分かりません」

 自分がこんなにも言葉をつむいだことに優はおどろいた。

 だれにも言えないことだった。言おうとも思わなかったことだった。優は自分のみにくさを分かってはいても、口に出そうとはしなかった。愚痴のように、吐き出してしまえば楽になるものではなく、むしろ一層苦しくなる告白だったからだ。

 「ありがとう」と、先生は言った。

 「君がこんなに話してくれたことが素直にうれしい。ねえ、黒澤くん」

 「はい、なんでしょう」

 「先生は、君はそのまま悩み、迷い続けなければならないと思う。それが君だからだ。そんな君だからこそ、先生には魅力的に映る。いまは自分だけを愛し、その世界を守ることで精いっぱいかもしれない。だから、ときに人の目には冷たく、近寄りがたく映るだろう。でも、きっと、その愛情は、ほんとうに君が君となったときに、より大きなものに対する愛へと変容していくはずだ」

 「ぼくは、こんなぼくならいなくなった方が良いとさえ思います」

 「ほんとうに、初めから愛にあふれているひとなんているのかな」

 「どういうことです」

 「だれもが、自分の基準において美しい部分とそうでない部分を持っている。君の好きなロボもそうだ。彼は愛情深く、たくましい生き方をした。けれども、残虐なところも確かにあったはずだ。自分の敵に対する容赦のない攻撃はそれを分かりやすく示している。人間にはもちろん脅威だった。でも、それは彼にとって美だった。なさねばならないことだった。とらわれた妻を探して人間の領域をふらふらと入ってきたのも、たとえ死ぬと分かっていてもしなければならないことだった」

 「ええ、彼は一貫しています」

 「うん。ロボに、自分の行動についての美醜の基準があったのかは分からない。残念ながら、僕らはオオカミと話せないからだ。でも、人間がそういった自己の美醜に自覚的なのは間違いないんだ。だからこそ、醜さを知って、美へと変化させねばならない。今は醜くても、いつの日か美しくあるために進まねばならないんだ。そのためには、自分を何回も殺して、生まれ変わらなければならないと思う」

 「自分を殺す?」

 「言い方が悪かったかな。自分を塗り替えていくってことさ」

 「よりよい自分へと?」

 「そう。だから、君はそのまま悩み続けなければならない。僕が魔法使いだったら、君の苦しみや悩みを一瞬で消すことができたのかもしれない。でも、生きることに対する苦しみは、自分で背負って、自分の手で希望へと変えていかなければならない。その苦は周りの世界のせいではなく、君が君であることの証なのだから」

 「ぼくにはほんとうの自分がわからないのです」

 「先生にも分からないよ。いまはこうして教師として生きている。けれども、教師という職業は、僕そのものを示すものではないからね」

 「じゃあ、どうしたら?」優はすがるように尋ねた。

 「君も僕も生き続けるしかない。希望を信じて進むしかない」

 「何かわかりやすい答えはないのですか」

 「ないんだ。昔からたくさんの賢者が考えている問題だけど、実践面においては人それぞれとしか言えないんだ。だからね、たとえ、誰かに生き方、考え方を否定されたとしても、それが君のなかから自然に生まれたのだったら、大切にしなさい。そうしたら、君は君になっていく。君を生きていく」

 「もし、ぼくがぼくになれたら、ほんとうの愛もめばえますか?」

 「ああ、めばえるとも」

 中上先生は光のような笑顔を浮かべながらそういった。先生の笑顔は、優にはまぶしすぎた。けれど、間違いなく、ありがたいものだった。

 いつのまにか、教室は暗くなっていた。

 日はすっかり落ち、校舎からは人の気配がほとんど消えていた。

 「話しすぎたね。ごめんなさい」

 と、先生は窓から反対側の校舎をながめながら言った。

 「ありがとうございます。ぼくと話してくださって」

 「こちらこそありがとう」

 「正直、先生のお話すべてを理解できたとは思えません」

 「君に国語を教えたわけじゃないからね。先生なりにこころから話しただけだよ。何も教えてはいない。君はもう知っていた」

 「そうなのでしょうか」

 「ああ、そうとも。また、こうしてゆっくり話せたらいいね。お互いに忙しいだろうから、なかなか機会はないだろうけど」

 それは、教師から生徒への言葉というよりは、友人に対する言葉のようでもあった。

 「さあ、そろそろ帰りなさい。お母さんにはきちんと連絡をしておくから」

 「分かりました。ありがとうございます、先生」

 と、こころからの笑顔で返す。

 「うん、君の笑顔はすてきだ。大切にしなさい」

 優はこの日、中上先生と話したことを生涯忘れないように努めた。

 それで正しかった。

 人生において人との出会いは貴重である。

 そもそも、お互いに人間として生まれ、言葉を交わし合える関係にあることは奇跡のようなものなのだ。そんな当たり前のようで、誰もが忘れてしまっている真理を、優は数日後に思い出すことになる。

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