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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
29/44

第十三夜‐後

 二〇××年 七月十四日

 

 「あなた、もう帰ってきてもいい頃よ」

 アルバが苛立ったような、不安な様な口調で話すのが聞こえます。

 「そうだね」アトルが低い調子で返します。

 「何かあったのかもしれない」

 「何かって」

 「ちょっと見てくるよ」

 子どもたちが発ってから、結構な時間が経っていたのでしょう。夫婦の表情、声色に以前のような余裕はありません。

 「私も行くわ」

 「だめだ」アトルが首を振ります。

 「君を危険な目には合わせられない」

 彼には何か勘づくことがあったのかもしれません。

 「行くわ。コルンとアイルが待ってるの」

 アルバの決意は固く、それを覆す事は出来ないように思われました。

 「分かった。俺のそばを絶対に離れないでくれ」

 「もちろんよ」

 こうして、ふたりは住処の近くの森へと入っていきました。できるだけ注意深く、子どもたちの痕跡を辿っていきます。足跡、匂い、声。

 森をいくらかも進まないうちに、アルバが前方に何かを発見しました。そのなにかは、足を引きずりながら、こちらへと向かってきます。アトルたちは思わず駆け出しました。彼らの目でなく、鼻がその存在の正体をはっきりと告げていました。

 「アイル、アイル!」叫ぶように呼びかける母の声。

 妻の叫びを心苦しく聞きながら、アトルは無言で走り続けます。ふたりが娘に近づくにつれ、状況がはっきりしてきました。茶褐色に染まったアイルのからだ、全身から発する血の匂い。ひどい怪我をしているようでした。

 アイルは両親の姿を認めた途端、ドサッと大きな音を立てて倒れました。

 妻よりもわずかに先についたアトルは、娘の名をようやく呼びました。

 「アイル! どうしたんだ、アイル!」

 「おとうさん、ごめんなさい。いつもより、ちょっと遠くへ行ったの」

 息も絶え絶えに、口元を赤黒く染めながら言葉を絞り出します。

 「そこで、人間に見つかって、もちろん、すぐに逃げようとした、けど、先にコルンが撃たれて、それで、コルンを助けようとしたら、あたしも」

 「分かった。もういい、帰ろう」

 「無理よ。もうだめだわ、あたし」

 そこに後ろからアルバが追いつき、娘の変わり果てた姿を見て、叫ぶように号泣しました。それはもはや言葉とは言えない悲痛な音でした。

 「お母さん、ごめんなさい」

 それがアイルの最期の言葉でした。

 「アイル、アイル!」

 しばらくの間、アルバは叫び続け、アトルは無言で俯いていました。

 「アルバ、しっかりするんだ、アルバ!」

 叫び続けるアルバに、アトルも叫ぶように話しかけます。

 「アイルを連れて帰ろう。ここは寂しいから」

 「ああ、アルバ、アルバ」

 夫の声は届いていないようでした。

 アトルは、娘の亡骸を背に乗せ、半ば無理やり妻を引っ張りながら、住処へと帰りました。それから直ぐに「コルンを探してくる」と住処から出ていきました。アルバはこの間、娘の名を呼び続けるだけでした。

 再び森に入ったアトルは、子どもたちが狩りの練習をしていた場所を通り過ぎ、森の端の方まで休むことなく駈けて行きました。アトルの頭にはただひとつのことが浮かんでいました。

 『どうしてだ。どうしてこんなことになっているんだ。俺たちは、いや俺は幸せを手にしたのではなかったのか。どうして、アイルとコルンが傷つかねばならなかったのだ。なぜ、俺ではないのだ。なぜ、人間は我らを狩ろうとするのだ?』

 運命に対する憤りと疑問が駈け続ける彼の頭を支配していました。悲しみがそれに混ざっていないわけではありませんが、主たる感情でなかったと思います。

 このとき、僕は初めて彼が遠吠えをするのを聞きました。

 それは家族に何かを知らせるというよりは、そうしなければ、嘔吐しそうになるほどの感情の奔流が、胸の底に溜まりに溜まって、自らを溺れさせてしまうように感じられたが故の行動だったかもしれません。

 コルンの匂いを辿り続け、アトルは、ついに息子の姿を発見しました。

 「ああ、コルン」

 近づかなくとも、そのわずかも動かないからだが、腹の下の血溜まりが、もはや彼が生きていないことを示していました。

 「コルンまで」

 アトルは息子のそばに座り、その冷たいからだから何かを感じようとしていました。それから、何も言わずに少しだけ呼吸を荒くしながら目を瞑り、静かに呻きました。

 そのうち、僕の頬に温かいものが伝うのを感じました。僕のそれも一緒に流れて出ていたのかもしれません。この夜が沈んだ朝に、目鼻が熱く湿っていましたから。

 『どうして』 

 それは僕とアトルの、初めてはっきりと重なり合ったこころの声でした。

 『どうして俺たちには望まないものがやってくるのだ。なあ、コルン、そうだろう。お前もアイルも何も悪くなかったはずだろう。どうしてなんだ、どうして』

 アトルの頭の中には現実への疑問がずっと浮かび続けていました。

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