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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
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第十一夜

 二〇××年 四月二十日


 あの夜から、ふたりは夫婦として、あの洞窟にともに住むことになりました。

 アトルはアルバにとって、アルバはアトルにとって、最初で最後の夫であり、妻でありました。

 一緒に住んでいる間に、アトルの体調は少しずつ良くなり、アルバがひとりで担っていた食料採集にも一緒に行くことができるようになりました。

 彼にとって、アルバがそばにいることはほんとうにありがたいことのようでした。

 彼女がいるから、できるだけ安全に生きていこうと思えましたし、自分のことだけをみて不安になったり、迷う時間も随分と減りました。誰かがいて、自分のことだけではなく、その誰かのことを想う時間が増えるというのは、ひとつの幸せなのかもしれません。その意味で、このときのアトルは幸福のなかにいました。

 ふたりの夫婦としての生活は、やはり食料を集めることから始まりました。

 僕の視ていた世界は、もはや断定的に夜や朝と言えない世界でしたが、朝、昼、夕、夜のような時間は順番通りではないにしてもありました。

 彼らは空が暗くなると、穴からはい出し、目を文字通り光らせながら、獲物を探しました。幸いにもこのあたりには食料が豊富なようで、小動物だけでなく、シカやイノシシなどの中型動物もたびたび発見することができました。アルバは夢中で、アトルは心苦しさを覚えながら、獲物を捕らえ、爪と牙によってその命を絶ちました。それからコツコツと洞窟に食料を運んでは溜め込み、腐らないように泥をかけました。

 こうして夫婦の生活が少しずつ進んでいく間も、アトルは何かを殺し、食べるという行為に相変わらず戸惑っているようでした。

 「一緒に食べるとよりおいしいわね、アトル」

 「うん、そうだね」

 嬉しそうに話すアルバと、違和感を押し殺そうと無理やり明るい声で話すアトル。

 アルバは当たり前のようにオオカミとして生きていて、いのちを奪っていました。それは別に批判するべきことでもなんでもなく、仕方のないことでした。そんなことを言い始めたら、だれも生きていけないのです。生きていくために最低限のいのちを狩る。それは正しい生き方のはずでした。

けれども、アトルは

 『アミトがよく口にしていた果実や植物だって、いのちはいのちだ。ぼくの違和感は公平なものではないのかもしれない。でも、そこに悲鳴や痛みや血は、ない。血をすすり、骨を砕き、肉を裂く感覚はないんだ』

 と、そんなことを考えていました。

 こころのなかに占める、小さな、ほんの小さなスペースでしたが、既にアトルはアルバと一緒に暮らし、同じものを食べるように〝なってしまっている〟ことに嫌悪感を覚えていたのです。

 それでも、アトルは、夫婦生活に波風が立たないよう、ときにはおいしいと感じながら、本来のオオカミらしい食生活を続けていました。それに、そんなことを言っていられない事情もありました。

 一緒に住むようになってしばらくして、アルバが身ごもったのです。

 「アトル、あなたのこどもがおなかの中にいるのが分かるわ」

 ある夜、アルバは夫の顔をじっと見つめながらそう告げました。

 「そうか、ありがとう、アルバ」

 アトルは今までにないくらい嬉しそうに、妻にお礼を言いました。声の調子や大きさはそれほどでもないものの、彼のこころを感じられる僕には、その喜びが直接伝わってきたのです。

 「名前、どうしようか」

 「ふふ、まだまだ生まれないわよ」

 「いいじゃないか、考えよう」

 「そうねえ」

 それから毎晩、ふたりは子どもの名前をどうしようか、これからの暮らしをどうしようか、未来の幸福な話をしながら過ごしました。羨ましくなるくらい仲睦まじいふたりで、アトルのなかの違和感などは取るに足らないもののようにも思われました。君はアルバと一緒に幸せに生きていくんだ、それを壊してはいけない、と。

 僕の願いが通じたのか、以来、アトルは余計なことを考えず、アルバと子どものためにせっせと食料を集めるようになりました。というのも、アルバが身ごもったばかりの頃は、まだ一緒に狩りができていたのですが、おなかが大きくなるにつれ、彼女はまともに動けなくなったのです。

 もうすぐ生まれるだろうというときになって、アルバは少しいらいらしたように夫にこう言いました。その口調から体調が芳しくないのかもしれないと思われました。

 「あなた、子どものために新しい巣をつくるわ。しばらく帰ってこないから」

 「ああ、わかったよ。気を付けて」

 「ええ」と住処を出ていこうとするアルバに対し、

 「なあ」と、抑えきれないようにアトル。

 「どうしたの」

 「きみがしんどいのは分かっているつもりさ。だが、もう少し朗らかになってくれよ。せっかく子どもが生まれるんじゃないか」

 「ええ、ええ、分かってるわ。それじゃあ」

 アルバは住処からやや遠いところに穴を掘り、そこでしばらくひとりで過ごすようになりました。アトルも妻のことが気になって仕方ないようでしたが、近づくと激しい喧嘩になるのは容易に想像できました。

 彼女はまっ白な被毛を泥だらけにして、ときどき住処へと帰ってきました。そして、帰ってくるなり食料をがむしゃらに食い漁ると、また自分の巣へと戻っていきました。その間、夫婦に会話はほとんどなく、冷めた雰囲気でした。

 それからも、アトルは変わらず食料を集めながら妻を待ち、アルバもときどき夫の待つ住処へ休憩と食事をしに帰ってきました。

 ただ、いつからか、アルバが全く帰ってこなくなりました。

 僕はアトル以上にこころ乱され、もしかしたら彼女はこのまま帰ってこないんじゃないかとやきもきしました。アトルもアトルで表には出しませんでしたが、内心やや苛立っているのが分かりました。何度も彼女がいるであろう巣に行こうとしていましたが、そこはオオカミの流儀なのか、絶対に近づこうとはしませんでした。

 そんな僕らの心配をよそに、ある不思議な朝、霧のような太陽の光を浴びながら、アルバはだいぶやせた姿で帰ってきました。ここしばらく続いた、刺すような冷たい雰囲気はなくなり、本来の彼女らしい穏やかさを取り戻しているかのようでした。

 「あなた、産まれたわよ」疲れてはいましたが、優しげな第一声でした。

 「ほんとうか、アルバ」

 「ええ、ほんとうよ。可愛い子どもがふたり」

 「ああ、よく頑張ったな、ありがとう」

 アトルは妻にそっと近寄り、鼻を押し付けながら労いました。

 アルバも夫のやさしさに喜びながら、ささやくようにこう返しました。

 「もうすこしだけ待っててね。いまにみんなで暮らせるようになるわ。それまではわたしが巣穴で面倒を見るから、食べものをお願いね」

 「分かった。任せてくれ」

 それからのアルバは住処に戻ってきては、食事をするだけでなく、巣穴に食料を持ち帰るようになりました。なので、余計に食料が必要となり、アトルは以前よりも必死に狩りをせねばなりませんでした。

 そうして、夫婦離れ離れの日々が続いたある日、アルバが住処に戻ってきて、アトルにこう言いました。

 「いまから一緒に巣穴に来てほしいの」

 「わかった」

 巣穴へ向かうと、薄暗い穴の中から、高く小さな鳴き声が聞こえてきました。小さな穴で、おとなのオオカミが一匹は入れるかどうかと言ったところでした。

 「ようやく会えるんだな」

 「ごめんなさい。随分と待たせたわね」

 「いいんだ」と、首を振ります。

 「すぐにでも会いたい。入っていいか」

 「ええ、もちろんよ」

 アトルが穴の中に入ると、二匹の黒い産毛の小さなオオカミがキーキーと高い調子で鳴きながら、横になっていました。オオカミと言えど、産まれてすぐの子はまるで子犬のようで、小さくて可愛らしいのでした。一匹はややからだの大きい男の子、もう一匹は小さな女の子でした。アトルは我が子の誕生を静かに喜びながら、子どもたちの小さな頭を優しく舐めてやりました。

 「まだ歩けないのか」アトルが巣穴から出てきて尋ねます。

 「もう少しかかるわね。でも、もうお乳は卒業したの」

 と、今度はアルバが穴に入っていき、子どもたちに自分が食べたものを吐き戻して与えました。のぞいてみると、子どもたちが首を伸ばして必死に食べているのが見えました。その姿もやはり愛らしく、思わず笑みがこぼれてしまいそうなほどでした。

 アトルは喜びを噛みしめるのと同時に、父として夫として、アルバと子どもたちを守らねばならないと決意しました。

 「そうだ、名前は」

 「そうねえ。前から決めていたいくつかの候補から、男の子をコルン、女の子をアイルって名付けたいの。どうかしら」

 「我らオオカミにとって大切な言葉だ。いいと思う」

 「ええ。あなたみたいに大きく、優しく育ってほしいわ」

 「アイルには、君のようにきれいに育ってほしいね」

 「ブランカさんみたいに、でしょ」アルバがからかうように言うと、

 「いや、君のようにだよ」と、まじめな調子でアトルが返します。

 「ありがとう」

 それから、ふたりは互いの頭を交差させ、抱き合うようにして愛情をかわしました。僕らに触れていたアルバの美しく柔らかい毛並みの感触を、今でも鮮明に思い出します。アトルもアルバも、肉体的にはこのときがもっとも力強く、美しかったのです。

 若き夫婦の愛、子どもたちの誕生、それらはまぎれもなく〝幸福〟なすがたでした。アトルの幸せがようやく訪れたのです。

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