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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
23/44

第十夜‐中

 二〇××年 四月十一日

 

 「アトル、アトル!」

 最初に感じたのは、太陽の光のような温かさ。それから、懐かしい故郷の冬空のにおい。

 「ああ、懐かしいなあ」

 目を瞑ってそれらに浸っていると、声が聞こえます。

 「アトル」

 母さんだ。子どものように嬉しそうにつぶやくアトルの声。

 目をうっすらと開けると、まっしろな温かみが僕らを包んでいます。

 彼の昔の記憶が思い出されました。ロボとブランカとアトルの幸福な思い出。あの時と似たような感じでしたが、どこか違うような気もしました。 

 彼を呼ぶ声がずっとやまないのです。

 それに、思い出の中のブランカの声は、もっと遠くで、聴きなれた音楽を思い出すように響いていたのに、いま聞こえる声は、なんだか鬼気迫っているような、そういう声色なのです。

 「アトル、アトルったら!」

 「母さん?」

 「ちょっと、わたし、ブランカさんじゃないわよ」

 その言葉を聞いたアトルの頭のなかが、何かを急に思い出したかのように鮮明になって、それから、全身から汗が噴き出してからだがカッと熱くなりました。

 その瞬間、目が大きく見開かれて、

 「アルバ?」とアトルはほとんど反射のように口にしました。

 「アトル、私よ、アルバよ」

 上を向くと、懐かしい思い出よりも美しいアルバの顔がありました。

 「ああ、アルバ、久しぶり。母さんかと思ったよ」

 「あら、わたしってそんなにブランカさんに似てるの」

 「似てる。よく似てる。でも、ぼくは母さんの面影じゃなくて、ちゃんと君を見てるよ」

 「知ってるわよ。それにしても、どうしたの、こんなところで」

 「それはこっちの台詞だよ。きみったら群から抜けてきたんだね」

 「ええ、そうよ。あなたの匂いを辿ってね。ねえ、動ける? しばらく休めるところに行きましょうよ」

 「うん。なんとか歩けるよ」

 立ち上がろうとすると、アルバはからだでそれを支えてくれました。

 ありがとう。アトルが言うと、いいのよ。とアルバがやさしく返します。

 ふたりは浜辺をゆっくりと寄り添って歩きながら、どこか休める場所を探しました。ふたりの呼吸音と波の音が同じくらいに聞こえます。

 ふしぎなことに、あれほど不安に満ちていたアトルのこころは、彼女との再会によって落ち着きを取り戻していました。

 このときの彼の心のなんと満ち足りたことでしょう。

 見えるものすべてが優しく色づき、意識されるいくつかの呼吸も、聞こえてくるさまざまな音も、彼がこの世界に生きていることを肯定してくれているように感じました。なにも恐れることはなく、すべては光の中にある気がしました。

 しかし、このとき、彼の生の不安は見えなくなっただけで、消えてはいないことを、僕はよく知っていました。生の意味を一度でも問うてしまったものは、その不安から逃れることはできないのです。

 では、不安の向こう側は?

 それは答えることのできない問なのかもしれません。

 アトルとアルバは、群にいたころに住んでいたのと同じような洞窟を、浜辺が途切れているところで見つけました。

 「ここで休みましょう」

 「そうだね」

 ふたりはそのまま洞窟へ入っていき、からだを預けあうようにゆっくりとすわりました。月明かりが入ってきて、中の様子がよく見えます。刺々しい岩のない、丸みを帯びた洞窟でした。

 見晴らしも良く、外の様子もよくわかりました。ただ、あたりには恐ろしいくらい誰もいませんでした。

 世界にふたりきりで生きている。

 そういう錯覚を覚えてしまうくらいに。

 けれども、アトルにとって、そのふたりきりの片割れがアルバであることは、この上ない喜びでした。アトルはたいせつなアルバのぬくもりを感じながらゆっくりと目を閉じました。隣でアルバの寝息が聞こえました。安心したような、何かに満足したような、そういう音色。

 「アトル」

 アルバの呼び声が、アトルの耳の近くに、遠くに響きました。洞窟の壁に反響して、僕らを包み込むように。

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