第十夜‐前
二〇××年 四月十日
深い紺色の景色の中に波の音が聞こえます。
寄せては返す、遠いようで近い、夢のような音。
足に、細かい砂を踏み進んでいる感覚が伝わってきます。いつもならリズミカルに歩むアトルが、なんだか歩きにくそうにしています。踏み固められる雪とは違い、足が沈んでいくからでしょうか。ここは浜辺なのか。ならば、そこに海があるはずだと僕は思いました。
けれども、海があるはずの空間はただの暗闇でした。海のように見える暗闇でした。
彼は暗い中をほとんどうつむき加減で歩いていました。
『さびしい』とこころのなかで独り言ちます。
僕も同じ気持ちでした。
こんな暗いなかをひとりで歩いていたら、だれしもそう思うのかもしれません。
ただ、アトルと一緒にいることが分かっている僕と、僕といっしょにいることを知らないアトルとでは、その寂しさにも違いはあったと思います。
『アルバに会いたいなあ』
やはり、故郷においてきた純白の彼女が思い出されます。
『群に戻れば会えるのかな。いや、もう追放されたんだ。今更戻れないし、もう群の場所さえも分からない』
アトルは首を振ります。
『いや、ちがう。ぼくは群に戻りたいわけじゃないんだ。群を出ることになったのは仕方のないことさ。むしろ良かったことなのかもしれない』
記憶のなかで、つい先ほど別れたアミトとの短い日々が思い出されます。
アミトとの出会いは、彼を前に進ませると同時に、決して消えない不安をその胸に残しました。
『良いことも悪いことも、もう過ぎたことだ』
彼は前を向き、これからのことを考え始めました。
狼ノ山を目指すという気持ちは変わらないようでした。
いいえ、むしろ、今はその目標がないと、もうどうすれば良いのか分からなくなってしまうといった様でした。
だから、ひたすら北へ。それが唯一の道でした。
アトルは四肢に力を込めて歩み始めました。
けれども、その歩みはすぐに止まってしまうことになります。
突然、彼の足から力が抜け、その場に頽れてしまったのです。
次は僕が不安になりました。これから僕はどうなるんだろう。
次第に閉じられていく瞼と、迫りくる暗闇。
瞼が完全に閉じられる直前、遠くに聞こえたなつかしい声。




