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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
21/44

第九夜

 夜のような濃い藍色のなかに、ひとつの大きな灰色の岩が浮かんでいました。

 その岩はごつごつしているというよりは、なだらかな曲線が多いものでした。

 だれかの手が加わったような、作品のような岩。

 僕はその岩に狼のすがたを認めました。

 こちらを向いてはいるけれど、目を瞑って、眠っているような、大きな大きな臥狼のすがた。しっぽは太く長く、からだ全体を覆えるくらいでした。

 岩が徐々に大きくなっている気がしました。 

 いえ、僕が岩に近づいていたのです。歩いて? 走って?

 気づけば、目の前に狼の顔がありました。それは間違いなく岩でした。色も質感も。ただ、そのからだはほんとうのオオカミのように柔らかそうで、つい触ってみたくなりました。いえ、そう思う前にもう触れていました。

 二〇××年 四月五日


 僕らはある岩山の道を、やはり一緒に歩いていました。隣にアミトの姿が見えます。

 前方から、太陽の強い光が照らしていました。その光によって、無数の岩石とそれらの無数の凹凸、そして、小さな草花らが、地面に濃い影をつくりだしています。

 アトルは懸命に前を向こうとしていましたが、あまりの眩しさに、よく目を伏せていました。方向を見失わないように歩くので精一杯のようでした。

 一方、僕は慣れの感覚を覚えていました。

 アトルのなかにいること、景色が急に変わることに。

 それはこころの移り変わりのようでした。ひとの思想や感情、感覚が無限に変化するように、アトルの世界は変化していました。けれど、この「アトルの世界」という言葉が、僕の無理解を示していることに気づくのはもう少し後のことです。

 「ぼくは不安なんだ」アトルは言います。

 「狼ノ山のことか」とアミト。

 「どうだろう。そのことかもしれないし、そうでないかもしれない。ぼくが生きて、進んでいるということに対するどうしようもない不安があるんだ。目的地はあるけれど、ほんとうにあるのかどうかも分からない。このまま進んでいていいのかもよくわからない」

 「その不安はきっと、必要な不安だ」

 「というと?」

 「今まで生きてきた時間を振り返ったとき、ふと、ある瞬間やある一区切りの時間が、ほんとうに必要だったかどうか不安になることがある。それは俺があの森でずっと寝ていた時にもたびたび思い浮かんだことだ。俺は何をしているのか、ほんとうにきちんと生きているだろうか、とな。生きているんだな。お前にはまだわからないかもしれない。でも生きているんだ。きちんと生きているんだ」

 「アミトには生きる意味が分かっているの?」

 「俺にわかるのは俺の生きる意味だけだ。お前のおかげで今でははっきりとわかる。すべての生きものに共通の生きる意味などあるはずがない。その時点で、すべて異なる生きものを、その個性的な生を、ひとつの意味にしようとする傲慢な意志が見える」

 「君の終わりは見えているの?」

 「見えている。近くに」

 「怖くないの」

 「怖いのは、むしろ、終わりが見いだせないときさ。つまり、お前の方が怖さを覚えているはずだ。俺だって、お前に会うまでは見えなかった。こうして老いさらばえた後になってさえ、あるきっかけがないと分からないのだ」

 「死ぬのは怖いでしょ」

 「なんとも言えないな。死んだことがないのだから。すべて生きるものは、死についての正しい言葉を持ちえないはずだ」

 「あるときには口を閉じなければならないの」

 「そういうときもあるだろうさ。ただ」

 「ただ?」

 「死を遠くに追いやってもいけない。生きることはそのまま死ぬことでなければならない。俺たちが何かを無数に狩り殺した末に死ぬか、可能な限り何かを殺さないように生きた末に死ぬかは、大きな問題だ。生きるものすべてにとって」

 「生きることは目的のために進むことじゃないの」

 「たぶん、ちがう」

 「それじゃあ、何も見えなくなるよ」

 「そうだ。見えないのだ。見えなくとも進むのだ」

 「アミトの言っていることは分からないよ」

 アトルは拗ねたように言います。

 「なあ、友よ。俺は嘘を語りたくないのだ。生は希望に満ちているという言葉も、絶望に満ちているという言葉も、真実ではないのだ。それが分かるときがきっとくる」

 ふたりはしばらく黙って進みました。

 途中、アトルは何度もうなったり、ため息を吐いたり、首を振ったりしていました。そんな友の様子を見て、アミトもなんだか申し訳なさそうな表情をしていました。

 進んでいくうちに、陽の光は弱まり、徐々にふたりの前に分かれ道が現れてきました。分かれ道の左と右とでは、行き先だけでなく、空の色も異なっていました。右は昼間の明るい空と見晴らしの良い平原。左は夜の空と静かな浜辺。

 「分かれ道だ」とアミト。

 「うん、そうみたいだね」

 「俺はこのまま右へ行く。きっと俺の故郷があるからな。お前は」

 「ぼくは左に行く」

 「そうか。寂しくなるな」

 「うん、ほんとうに」

 「お前はまだ若い。迷いながら進んでいくんだ」

 「ふふ、迷ったらだめじゃないの」アトルは笑顔で言います。

 「いいや、そもそも生きることがひとつの迷路なんだ」

 「ありがとう。君もさやに会えるように」

 「ああ、きっと。あと少しなんだ」

 「さよなら、アミト」

 「ああ、さよならアトル」

 こうして、ふたりは別々の道へと進んでいきました。

 アミトは満ち足りた表情をしていましたが、アトルの胸中はやはり不安で満ちていました。アトルのこころには羨望の色がありました。

 もちろん、別れた友に対してでしょう。

 『アミトはさやに向かってまっすぐ歩いていく。

 じゃあ、ぼくは何に向かって歩いていくの。

 ぼくには時間が要る。この道が何に続いているのかを知るためには』

 アトルの小さな決意は、まだ強いものではなかったけれど、たしかにあるものでした。彼の道には暗いところも多くあったけれど、たしかに前に続いていたのです。

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