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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
20/44

第八夜

 二〇××年 四月一日


 暗闇のなか、足もとから乾いた音がします。

 カサッ、カサッと、アトルの足が地面に下りる音。

 森を抜けたのか、急に視界が明るくなります。

 彼らのゆく道には無数の落ち葉がありました。もう明るい季節の森の中ではないようでした。僕は良い意味で言葉を失いました。山吹色をしたきれいな銀杏の葉たち。それらが絨毯のように敷き詰められていたからです。

 ふと、彼女らはきっと落ちるその時まで、美しくあろうとしたのだろう、だから、落ち葉となっても美しいのだ。と、そんなことを考えました。

 秋の山道。目の前の光景はそう映ります。

 季節。時間。移り変わり。

 ここにも、僕がよく知っている時間の流れがあります。

 けれども、一体、時間とは何なのでしょう。

 僕らの未来と、過去と、次々と過去になっていく現在は、僕らにとっていかなる存在なのでしょう。いったいなんのために、僕らはそれぞれに異なる時間感覚を持っているのでしょう。一秒や一分ではない、個別の時間を。

 「なあ、俺たちもそれなりに長いこと歩いているな」とアミト。

 「そうだね。でもどれくらいだろうね」とアトル。

 「分からないさ、でも長いだろう」

 「いつの間にか、という感じもするね」

 「そうだな」

 「ねえ、アミトはぼくよりも長く生きてるでしょ」

 「そうだろうな。俺はオールド、年寄りさ。それでも、ある意味では誰よりも若いかも知れない」

お前も、ある意味では誰よりも若いし、逆に年寄りかも知れないと彼は続けます。

 どういうこと、とアトルは尋ねるだろうと思いました。

 でも、彼はこう言いました。

 「それは君の昔に答えがあるの?」と。

 「いや、昔を大切にしているいまにあるのさ」

 「ねえ、くわしく、聞いてもいいかな」

 「ああ、そろそろ話しておきたいところだったんだ」

 アトルは友の心に踏み入ろうとしていました。そっと、薄氷の上を渡るように。

 それは僕にはできない事でした。そう思うに足るひとがいないという悲しい事実のためか、あるいは単なる無関心のためか、よくは分かりませんが。

 「俺の爪と牙がまだ雷のように鋭く、足が風よりも速かった頃」

 アミトは落ち葉を軽く蹴飛ばしながら、昔のはなしを始めました。

 「昔、俺の住処はある山の中にあった。その山奥に人のつくった神社というものがあったんだ。小屋みたいなもんだったが」

 「じんじゃ?」

 「神さまがいるところさ」とアミトは優しく言います。

 「凍えるような冬の夜だった。俺は神社の近くに穴を掘り、そこで寒さをしのいでいた。そこに一組の母娘が、吹雪をやっとのことかき分けながらやってきた。どうして人間がこんな夜中に、こんな吹雪の日に、こんな山奥を歩いてるんだ、とそのときは不思議に思ったが、まあ俺は自分の胃袋を満たせる良い機会だと考えたわけだ。

 だが、母親のほうが、娘を庇いつつ、片手で拝みながらこう言うんだな。

 ああ、いずこの神とは存じませぬが、どうか一晩、ここで寒さをしのがせてくださいまし、と。

 それから、ふたりは神社に入って、からだを休めたはずだった。

 俺も鬼じゃない。その夜はそっとしておいたよ。

 人間と狼が同じ獲物を狩り、共に生きていた時代もあったんだ。俺だってよほど腹が減ってなければ人など狙わないさ」

 「人間は変わってしまったの」と、かつての長の言葉を思い出しながら、アトルは尋ねます。ぼくは人間をよく知らないんだ、と。

 「そうだろうな。小さくなっていく森を見ていたら分かる。

 もう久しく人間など見ていないけどな、多分、なんでも自分たちが決められる、支配できると思い込んでいるんだろうな。自分たちの生活が上手く行きさえすればそれで良くなっているんだ。

 昔は違った。俺たちオオカミだけじゃない、キツネやクマだって人間の世界で神さまとして扱われていたんだ。俺たちは上手くいってた。互いに敬意があった。そりゃあ、多少の食う、食われるは自然の摂理だよ。しかたないことさ。

 でも、いまは違う。人は狡賢くなり、傲慢になった。共に生きる優しい世界は消え去り、邪魔なものや異なるものは排除する恐ろしい世界になった。それは自分たちの首を絞める致命的な傲慢だ。いまにも人間そのものを破壊するだろう」

 僕はアミトの言葉を聞いて胸が痛くなりました。

 多分、僕らが普通だと思っている生き方が、世界そのものを虐げているのだ、と思いはしましたが、だからといって、一体どうすれば良いのか、その答えはいまも見つかっていません。普通を疑わねばならぬことだけはわかりましたが。

 「そう、母娘の話だったな。

 翌朝のことだ。俺は様子が気になって神社に近づいていった。

 すると、娘の泣き声が聞こえるんだな。どうしたものかと扉の隙間から覗いて見ると、母親が娘を抱いたまま動かないんだ。こんな寒さのなか、毛皮もない人間がろくに暖もない場所で一晩過ごすってのが、そもそも無茶な話だったのさ」

 ふたりはひらけた黄金色の山道を通り過ぎて、広大なすすきの原にたどり着こうとしていました。雪の原とはまた趣の異なる、わずかに茶色がかった優しい白が大地を染め上げています。そのすすきの原の遥かむこうに、深い蒼色の山々が無数に連なっているのが見えました。あのどれかに、ふたりの目指す場所があるかと思うと、気が遠くなる思いがしました。

 それでも、ふたりは歩みを止めませんでした。

 特にアトルは、存在すら不確かな場所を目指して歩いていたのですから、まったく頭が下がる思いでした。何が彼をそうさせていたのか、全く見当もつきませんでした。

 「次はあの山に向かうか」

 「そうだね」

 「さて、話を戻そうか。俺が覗いたとき、娘は泣き止んでこっちを見たんだな。彼女は恐れる様子もなく俺を呼んだ。あ、山犬さん、と。娘はこっちに来て扉を開けてくれたものだから、俺は入っていったよ。

 彼女を食べる気はなかった。いざというときには、人里に下りて、家畜でもなんでも狙えばよかったのだ。事実、そうしていた。時々だがな。

 お母さんが動かないの、わたし、これからどうしたら。娘は言った。

 俺の言葉は人には通じないから、行動で示すしかなかった。

 俺は小さな彼女のそばに行き、頭をなでられてやった。犬のようにな。娘は嬉しそうだった。娘は、わたし、さやっていうの。あなたは? と嬉しそうに話した。俺は話さないから、彼女は俺を〝ぎん〟と呼んだ。単純だが好きな響きだった。

 俺はなんのきまぐれか、その神社で彼女と一緒にいることにした。

 母親は俺が穴を掘り、近くに埋めてやった。さやがそうしたいと言ったからな」

 さやという少女のことを語るアミトは、静かで達観しているような彼のイメージとは異なっていました。まるで、恋をする少年のような、晴れやかで、どこか恥ずかしそうな表情をしていました。アトルも嬉しそうに耳を傾けていました。

 「さやはいい娘だった。色白で、きれいな黒髪をしていて、おまけに、いまも耳に残っているくらい、優しい声をしていた。

 俺のことを恐れず、俺そのものを受け入れてくれているようだった。

 俺たちはあらゆる点で違っていたが、それは互いをより強く結びつけるための大切な違いだった。〝ちがう〟というのは当たり前のことなんだ。みんなあらゆる点であらゆるものとちがっている。それを攻撃の理由にしてはならないんだ、決して。攻撃の果てには攻撃しかなく、最後には殺すか殺されるかしかないからだ」

 アトルはその言葉にはっとさせられたようでした。

 なぜかといえば、まさに自分が普通のオオカミとはちがうからでした。存在を理由に群から追放された彼にとって、それはたいせつな言葉のひとつとなりました。アミトは、ふたりが別れてからもアトルにとって大きい存在であり続けます。彼はいわば最初の扉ともいうべき狼だったのです。

 「それからどうしたの?」アトルは先が気になって仕方ないようでした。

 「神社で暮らすことになったわけだが、一番の問題は食料だった。俺は山からかき集めればいいが、さやはそうは言っていられない。だから、俺はふもとの村に下りて、食料を奪うことにしたんだ。人が口にできるものをな」

 「大丈夫だったの?」人里に下りたことのないアトルは不安そうに尋ねます。

 「大丈夫だったともいえるが、そうでないともいえる。

 それからも、俺たちは食料を必死に集め、寒い夜はお互いに寄り添いながら、やっと冬を越したんだ。

 幸せだったよ。まさか自分がこんなことを幸せと感じるなんて思わなかった。ずっとひとりだった。ずっとひとりで、ほとんどの者を敵だと思って生きてきた。そんな俺にも大切なものっていうのができた。いつか別れるにしても、大切にしたいと思ったんだ」

 だが、終わりは案外早く訪れた。アミトは暗い表情で吐き出します。

 「食料を奪い続けたツケが回ってきたんだ。俺が襲っていた村の奴らが、俺を退治しに来たんだ。武器をもって、何人かの男がやってきた」

 「よく生き延びたものだね」アトルが感心したように言います。

 「いや、俺には守るものがあった。さやも俺が殺されるのを嫌がって、一緒に逃げてくれたんだ。こんなに幸せなことはなかったよ。

 俺はさやを安全な所に置くと、人間を決して殺さないと約束して、彼らに向かっていった。俺は自分が思うよりも素早く、勇気があった。何回も何回も、彼らを殺すことなく追い払った。だから、人間どもは最後の手段に出たんだ。遠くから俺を殺そうとしたわけさ。ある日を境に、腕の良い猟師が俺を狙い始めた。

 そして、あの夜がやって来たんだ。

 月明かりがまぶしい、奇妙なほど明るい夜だった。

 俺はその日もさやと一緒にひっそりと生きていた。そう、寝床を探しながら一緒に歩いていたんだ。もう少し暖かくなったら、別の場所に行こうと考えていたところだった。寂しいが、その地で別れるだろうとも思っていた。だが、そうはならなかった。別れは一瞬だった。

 一発、大きな銃声が聞こえた。俺はすぐに弾の方向に身構えたが、銃弾は俺には当たらず、近くにいたさやの胸を貫いた。

 俺は吠えた。さやと大きな声で呼んだ。

 さやは、ぎん、痛いよ、と言った。

 それから涙を流しながら、お前は賢いからわかるね、わたしが死んだら、お母さんのところに埋めてね、と俺に頼んだ。そして最後に、お願いだから人間を恨まないで、もうだれも殺さないで、どうか元気に生きてね、と言い残し、動かなくなった。

 頭が空っぽになって、胸がきつく締まるような思いがしたよ。

 すぐに強い胸の痛みが俺を襲った。

 それからは考える前にからだが動いた。さやとの約束はすでに忘れていた。

 狙いはあいつだ。奴がどこにいるかはにおいと方向で分かっていた。俺は全力で駆け、そいつに追いつくと、容赦なく首元を狙って跳びつき、殺した。

 やつをどれだけ残酷に殺しても、胸の痛みはおさまらなかった。

 それどころか吐きそうになるくらい胸は鼓動し、頭は幻のように揺れた。

 それほどに俺はひとの子であるさやを強く慕っていたのだ。そんな自分がいることをそのとき初めて知った。

 俺はさやの言葉通り、神社の近くに彼女を連れていき、母の隣に埋めた。

 それから巣を捨てて、山頂に向かった。

 そこで、さや、さや、と吠え続けた。この身が石に変わってしまうのではないかと思うくらい、俺はずっと山頂にいて、ずっとさやを呼び続けた。

 ずっと叫んでいなければ、この身が持たないほどだった」

 アトルと僕は言葉を失っていました。

 何も言えませんでした。一言も浮かびませんでした。

 誰かの死について、喪失について、この世に適切な言葉は存在するのでしょうか。

 きっと存在しないでしょう。

 今思えば、何も言えないという状態こそが精一杯の共感のような気がします。アトルは友の隣にいて、こころをできるだけ近くにとどめておこうとしていました。

 アミトはそんな友の様子を肯定的にとらえて頷くと、話をつづけました。

 「こころに刻まれた痛みはわずかも癒えなかった。時も解決してはくれなかった。俺はさやが眠る地を去る決意をした。絶望はいつも隣にあったが、さやの言葉を胸に生きねばならなかった。

 それはひとつの使命だった。

 いくら時間が経とうとも、彼女の息吹は耳に、彼女の優しさはこころに、彼女の温かみはからだに残っていた。

 叫び続けるうちに、彼女の時間は、いつしか俺の時間とひとつになっていた」

 『あい』と、アトルは意識せずに言葉を浮かべました。

 『これがきっと愛のひとつのすがたなんだ』

 「俺ができるだけ他の者の痛みを避けるように生き始めたのはそれからのことだ。

できるだけ動かず、できるだけ奪わず、できるだけ静かに生きる。それが俺の生のすがたになった。そして、あの森のなかでお前と出会ったんだ」

 「じゃあ、きみが行きたい場所っていうのは」

 ようやく口に出しても良い言葉が見つかったかのように、アトルは言いました。

 「そう、さやのところだ。さやがいるところに俺も行く。俺のいのちが尽きる前に。最期にさやのところへ行くために俺は生きながらえていたんだ。いまお前に話をして、ようやくだがそうできると思えたんだ」

 アトルは何も言わずにうなずき、まっすぐ前を見すえました。

 山々のすがたは徐々に大きくなっていました。

 頬に当たるすすきの感触が心地良く、ここで少し休憩したい気もしました。

 ふと、アトルは振り返ります。

 もう見知った雪景色はそこにありません。

 『ずいぶんと遠くへ来てしまった。アルバは元気だろうか。アミトとさや。ぼくにとってのさやはアルバなのだろうか。いや、少なくとも今はそうじゃない。ぼくらが深く交わるときがいつかくるんだろうか』

 アトルは立ち止まり、空を見上げます。故郷の空のことが思い出されました。

 「どうした」とアミト。

 「ううん、なんでもない。ねえ、アミト」

 「なんだ」

 「ありがとう。話してくれて」

 「こちらこそ聞いてくれて感謝する。お前のことは忘れない」

 「急にどうしたの」

 「いや、なんでもない」アミトは少し寂しそうに笑いました。

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