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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
17/44

第五夜

 二〇××年 三月四日


 僕がアトルのからだに再び戻ってきた(この表現が正しいのかはわかりませんが)ときには、彼は深い谷を見おろす、崖の上にいました。彼は首だけを出して、谷をのぞき込んでいたのです。谷の間には川が流れていて、やや長い木の枝か何かがゆっくりと流されているのが見えます。

 彼はゆっくりと前に進んでいきました。

 一歩、また一歩、崖へと近づいていきます。

 あと少しで落ちてしまうほどに乗り出した時に、アトルの足が見えました。

 もう子どものそれではありませんでした。足の先に鋭い黒っぽい爪が生え、足も太くなっていました。そういえば、肩の高さも増したような気がします。

 「もうすぐ群ともお別れだ。アルバとも」

 声も少し低くなっていました。

 少年が変声期を迎えて、あの高くて澄んだ声が出なくなるように、アトルの声も少しだけ濁り、僕にとって好ましい響きへと変化していました。

 「そうだ、最後にアルバに会いに行こう」

 「もう、いるわよ」

 「えっ」と振り返り、自分がやってきた方を見ると、やはり成長したアルバがいました。

 彼女はブランカの生まれ変わりと言っても良いほど、純白で、一点の穢れもない美しいオオカミに成長していました。異なる点があるとすれば、ブランカよりも耳の形がやや鋭角的なこと、瞳がアトルと同じく青いこと。それくらいでした。

 「アトルったら、私に全然気づかないんだから」

 「アルバ、いつからいたのさ」

 「あなたが森に入ってからよ、なんだか、思いつめた顔してたから」

 「アルバには何でもお見通しだね」

 「谷に身を投げようとしてるのかと思ったわよ」

 「そんなことしないさ」

 「ジャイアントに会いに行くの?」

 「そうだね、そうした方がいい。なんだかんだ言ってお世話になったからね」

 「ねえ覚えてる? 私たちが小さな喧嘩をした日」

 「ああ、君も群から離れるって言った日のことだよね」

 「そうよ」

 「あの日以来、ジャイアントたちも狩りの仕方を教えてくれたっけ」

 「ええ。ねえ、あの日の気持ち、少しも変わってないわ」

 「うん。僕だって、君がいてくれたらどんなにいいことかと思うよ。でも、どこへ行くかもわからないし、危険だと思うから」

 「そうね。その話はやめましょう。あなたに食い下がっても喧嘩になるだけよ」

 アルバは小さく少女のように笑います。

 「そうだね。ごめん」 

 アトルも口を少しだけ開けて笑いました。

 「君は僕の味方でいてくれる。群のみんながあの日以来、どことなく冷たくなっても君は変わらなかった。ひどいことを言ったのに」

 「私だって、小さいころ群に連れてこられて以来、ブランカさんには娘のように可愛がってもらって、あなたとはまるで兄妹みたい育って。そんなあなたに冷たくできるわけないでしょ」

 まあ、私の方が少しお姉さんだけどね。

 と、今度は少女というよりは成熟した女性のように笑いました。

 「さあ、行きましょうよ。ジャイアントのところへ」

 ふたりは縄張りへ続く森に入り、葉のない木々の間をゆっくりと歩いていきながら、ともにいられる最後の時間を無言で過ごしました。

 雪の上をアルバが跳ねると、アトルも跳ね、アルバが軽く走ると、アトルも後から追いかけました。ときに止まって、また跳ねて、すこしゆっくり歩いたかと思うと走り出す。粉雪が舞って、ふたりの動きを彩ります。

 そんなふたりの動きが、どこか、ふたつの五線譜の上を流れていく音符たちのように見えて、微笑ましく、うらやましく思いました。それは生命の春のすがたでした。最も美しいすがたでした。

 縄張りに戻ると、ジャイアントをはじめとする群の皆が揃っていました。

 アトルは以前よりも堂々とした足取りで、長の元へ向かうと、こう言いました。

 「ジャイアント、今日、群を出ます」

 「そうか」

 ジャイアントは以前よりも老いた様に見えました。

 毛つやがなくなり、線も少し細くなったようでした。それでも、あの口からはみ出すほどの大きな牙だけは今も健在で、彼において、もはや牙だけが全盛期の凶暴さを示しているというのが、ややアンバランスで奇妙な感じでした。

 「大きくなったな」

 「そうかな」

 「短い間に、もう私よりも大きくなったようだ。長と、あのロボとそう変わらない」

 「からだだけだよ。ぼくは父さんほど強くない」

 「アトル、お前は私を恨んでいよう。我らは、あの日、ブランカを助けず、いまお前をこうして群から追放しようとしている」

 アトルはしばらく何も言わず、その蒼い瞳で長をじっと見つめました。

 「正直、自分の気持ちがわからないよ。母さんが捕まった日、ぼくは小さかったし、何が起こったのか、よく分からなかった。ただ、悲しかったことはよく覚えているよ。ジャイアントや、そこにいるシルベン、ブラウンが母さんを見捨てたというのは事実で、それを許せない自分も確かにいる」

 「我らは銃が怖かったのだ。臆病だと言われるだろうが、あの日の長のように銃に向かって引き返すことなどできなかった」

 アトルはシルベンとブラウンの方を見ました。

 シルベンは白銀色、ブラウンは薄茶色のオオカミで、いずれも標準的な大きさでした。彼らは何も言わず、うつむいています。アトルは再び長の方を向き、

 「ぼくを追放するのも同じ理由なんだよね」と尋ねました。

 ジャイアントは少しうろたえたように無言でうなずきます。

 「ジャイアント、考え直してよ」後ろからアルバの声が聞こえます。

 それを「アルバ」と諫めたのは、アトル自身でした。

 「ぼくは群に守られて育った。それもひとつの事実なんだ。ジャイアントたちはどんな理由であれ、守り育ててくれた。狩りの仕方を教えてくれた。それにぼくは感謝している。ぼくは大きくなった。もう群に頼らず生きていける」

 『怒りと悲しみは消えない。失ったものは戻らない。不信用の種を抱えたまま、これ以上必要とされない場所にいる必要はない』

 「ひとつ」とジャイアント。

 「罪滅ぼしというわけではないが、話をしておこう。山のはなしだ。このあたりのオオカミたちに伝わる昔話にこういうものがある」

 僕もアトルもアルバも耳を澄ませます。

 「むかしの伝説だ。私の爺さんから聞いた話だ。ここよりはるか遠い地に、家畜ではなく、人間を大勢喰らい、人々から恐れられた狼がいたという。

 月を喰らえるほど大きかったことから、名をツキカミといい、驚いたことに雌の狼だったが、その純白の毛皮のほとんどは常に人間の血で赤く染まっており、特に顔の中心部は元が白い狼と分からないほど、血がこびりついていた。

 その容貌を人々は恐れ「アカツキ」と呼んだ。

 だから、「紅い月が出た」と聞けば、人々は家に閉じこもり、数日は出なかったという。

 その牙も爪も、ヒトが使う剣に引けを取らないほど鋭く、山ひとつを飛び越えるほどの跳躍力と、馬を軽く追い越す俊敏性を持っていた。

 われら狼は銃を恐れる。

 だが、彼女には効かなかった。人間が銃を使って追い払おうとしても、その分厚い毛皮が銃弾を跳ね返してしまい、まったく効き目がなかったのだ。力も強かったから、人間のなかに彼女を追い払えるものはなく、毎日毎日、好きなように人を襲っては喰らい、時に気まぐれで家畜を襲ったという。ただ、狙うのは大人の男がほとんどで、女や子どもには興味を示さなかった。実に、我らの救世主ともいえる狼ではないか。ロボも彼女にはかなわないだろう」

 アトルは何も言いませんでした。

 「このときの彼女は天涯孤独であり、夫も子も持たなかった。が、度を越して長命だった。普通のオオカミの十倍は生き、それに合わせて、彼女の白い体毛も地面につくほど長く伸びていたという。ゆえに、狼というよりは何か別の生きものと言っても良かった。人間は彼女を天災として扱っていた。雷や吹雪のように。

 あるとき、そこらの人間の男を喰らいつくしたツキカミは別の場所へ移動しようと考えた。すると、目の前に一羽の美しい瑠璃色のアジサシが現れて、彼女にこう言ったという。

 人間はおいしいかい。

 ツキカミはその存在の不思議さに首をかしげたが、素直に人間ほどうまいものはない、と答えた。

 でも、ここらの人間は喰らいつくしたんだろう、とアジサシが問うと、そうだと答えた。

 ヒトよりもおいしいものを教えようか。アジサシは楽しそうに言う。

 そんなものがあるのか。ツキカミはやはり素直に話に食いついた。

 ついておいで。そしたら、一口でもう他に何もいらなくなるほどのものをあげよう。

 アジサシが言うと、ツキカミは、わかった、とその地を後にしたという。

 彼女たちは海を渡り、山をいくつも越えて、この我らが住まう地へとやってきた。

 途中、ツキカミはアジサシの言葉を疑い、喰ってやろうと考えたが、どんなに機をうかがっても、寸分の隙すら無かった。

 アジサシはそんなツキカミの様子を知ってか否か、なにごともないように案内を続けた。その末にふたりはひとつの山にたどり着いた。

 のちに〝狼ノ山〟と呼ばれる山だった。ここから遥か北にあるという、我らの間では神の山といわれる山だ」

 「神の山?」アトルは問いました。

 「ああ、伝説上の山だ。私も目にしたことはない。ただ、伝説の中にそういう山があるというだけだ」

 ジャイアントは話を続けます。

 「ここに本当にあるのか、とツキカミは問うた。

 山頂にあるんだ、とアジサシは自信たっぷりに答えた。

 山頂など一瞬だ、とツキカミは言った。

 ふたりはすぐに山頂にたどり着いた。

 山頂にはみたところ何もなかった。雪と岩があるばかりだった。

 はかったな、とツキカミは怒った。

 そんなわけないだろう、とアジサシはやはり余裕を崩さずに言った。

 よくみると、山頂の端の方に、非常に大きな草が王冠のように生えていて、その真ん中にリンゴのような赤い実をつけていた。その果実はリンゴよりはるかに大きく、はるかにみずみずしく、冬の最中だというのに、常に表面が潤っていたという。

 こんなもの、とツキカミが言うと、

 まあ、食べてみてよ、とアジサシは勧めた。

 素直なツキカミはそれ以上疑わず、その実を口にした。

 それはこの世のものとは思えないほど甘く、その果肉と豊富な果汁は人間などの肉とは比べ物にならないほどの噛み応えがあったという。ツキカミは果汁を口から血のように滴らせながら、ゆっくり味わった。数分後にようやくそれを飲み込んだツキカミは、なんだこれは、と問うた。

 アジサシはそれには答えず、おいしいでしょとだけ言った。

 それから、きみに幸せがあるように、とだけ言い残し、彼は遥か空の彼方へ飛び去ったという。

 残されたツキカミに不思議なことが起こった。

 なんと身ごもったのだ。

 彼女のおなかはすぐに大きくなり、その日じゅうに二匹の小さなオオカミを出産した。オスとメスが一匹ずつ。ツキカミはもともと住んでいた場所の言葉を使い、クロとシロと名付けた。ちょうどお前たちとおなじ色の毛皮をしていたらしい。

 彼らは大きくなると、山を下りて結婚し、われらの祖先となったという。そして、ヒトや家畜の肉しか受け付けなかったツキカミとは違い、様々なものを口にしながら生きたという。

 一方、ツキカミは果実を口にして以来、永遠の満足感を得ていたため、山を下りることなく、静かに暮らし、そして死んだ。死んだ彼女のからだは岩になり、山と同化したという。狼岩として今も残っているそうだ。

 以来、すべての死んだオオカミの魂はその岩に集い、新たなオオカミに宿るとされている。もしかしたら、お前の両親の魂もそこに集まっているかもしれない。まあ、伝説を信じるならな」

 「ありがとう」とアトルは静かに言いました。

 少しだけ、胸のあたりが弾んでいるような、そういう気がしました。

 「夢がある話だね。父さんと母さんにまた会えるかもしれない。でも、ぼくはそんなに子どもじゃない。いくら恋しくても、それがあり得ない話だというのは分かるよ」

 「そうだな。そうかもしれない。だが、伝説というものが残るのにはそれなりの理由があるのだ」

 「どういうこと」

 「伝説に及ばなくてもそれに近いものがあるということだ。でなければ、だれが口にしようか」

 確かに、とアトルは心の中で頷きました。しかし、伝説に近いものとは。ツキカミのような狼がいたというのか、それとも狼ノ山や狼岩のようなものがほんとうにあるというのか。それをジャイアントに尋ねるのは意味がないことで、だから、アトルはそれを口には出しませんでした。

 「アトル。お前が群を離れるときに、私がこの話をしたことはひとつの前兆だと思うがいい」

 「前兆? 何に対しての」

 「それはお前にしかわからない」

 「わかった。今までありがとう」

 アトルは群の皆に背を向け、洞穴の出口に向かって歩いていきました。

 「アトル」後ろからアルバの声が聞こえました。

 「アルバ、いままでありがとう」アトルは振り向きもせずに言いました。

 『そんな声で僕を呼ばないでおくれ。ぼくは不幸な狼じゃないんだ。不幸を不幸と感じられるほど、群という小さな世界を愛していないんだ。いや、愛せなかったんだ、こころからは』

 それから、それ以上の会話を避けるように、風のように洞穴を出ていきました。

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