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狼の詩  作者: ゆうなぎ
狼編
16/44

第四夜

 二〇××年 二月二十八日

 

 瞼の向こうに、うっすらと何かが見えます。

 秋空の下の、すすきの原のようななにか。

 それは徐々に輪郭をはっきりさせて、目の前に現れてきます。 

 まっしろで、ふわふわとしていて、とても温かい。頬に心地よい感触がいつまでも残っていて、このまま瞼をずっと閉じていたい気持ちでした。

 『おはよう、私のかわいいアトル』

 頭の上の方から声がしました。耳の奥を満たすような優しい声。

 『母さん』アトルの声がして、まぶたが徐々に開いていきます。

 初めて見るブランカの顔がありました。ここまで美しいオオカミがいるのかと信じられないくらい、毛の一本一本に至るまで純白で、唯一、ひとみだけが灰色でした。その母にからだのすべてが包まれている。顔に、からだのほとんどすべてに白く光る温かみがある。まちがいなく、母と子のひとつの幸福のすがたでしょう。

 『アトル』

 ふと響くもう一つの声。母の高音とは違うけれど、胸のあたりにずんと響く心地よい重低音。強さとやさしさの二重奏。

 『大きくなったら、お前がみんなを守るんだ』

 『うん、父さん』

 『だが、いいか、オオカミはひとりで生きることはできない。俺のようにどんなにからだが大きく、強くとも、ひとりでは絶対に生き延びることができない』

 『どうして』

 『世界は大きく、我らはその一部に過ぎないからだ。我らは、我らよりも弱い生き物を喰らい、その弱い生き物は、さらに弱い生き物を喰らう。いのちはつながっているのだ。だから、自分がひとりだと思い込んではいけないし、世界というもの、世界に生きるものを侮ってもいけない』

 『父さん、どういうこと?』

 『アトル』再び聞こえる母の声。

 『まず、お前の世界には、私とお父さんがいます。これが一番小さな集まり。それから私たちには群があります。群は森や山のなかにいきていて、それらはたくさんのいのちを育んでいます。それぞれの生きものにそれぞれの生活があり、それらはほんとうに想像もつかないほど多様です。世界には広大な土地があって、森も平原も山も何もかもが無数にある。そのすべてにいのちが宿っています。

 生きる上で、他のものの生活を最小限破壊することは仕方のない、生きものとしての業です。我らは無用な狩りはしません。他の生活を破壊しても、世界を愛しているからです。世界がつながりであることを知っているからです』 

 『そう、それが世界。我らの周りの世界だ。しかし、世界はもうひとつある。アトル、お前自身だ。お前のこころとからだはひとつの世界だ。お前はふたつの世界を大切に生きねばならない。可能ならば、それらがひとつとなるように。

 お前の世界の外には、ほかの者の世界があるだろう。もし、その世界がお前を傷つけようとしたら、お前はそれと闘わねばならない。だが、可能ならば、彼らともひとつとなれるように。生きる過程には無数の罪が待っているだろう。ともすれば、お前自身がお前を壊そうとするだろう。それでもお前は生きねばならない。できれば、こどもの頃の遊戯のように、生きねばならない』

 『父さん、何が言いたいの』

 『強く生きろ。父さんも、母さんも、お前の世界の底にいる。底ということは、土台ということだ。お前の世界の土台が我らの愛から始まっているのならば、お前もまた、愛の中にいることができるだろう』

 『アトル、私たちはそばにはいられないけど、あなたの時間として傍にいるわ。それを忘れないようにね』

 『父さん、母さん、ぼくはどうしたらいいの。ねえ、ねえったら!』

 『我が子よ、強く生きるんだ!』

 『アトル、さようなら』

 『父さん! 母さん!』アトルは叫び続けます。


 突如、僕が知らないはずの風景が眼前に浮かびます。

 陽炎のように揺れる赤黒い空、飛び交う何発もの銃声。

 オオカミの不気味な遠吠え、馬のひづめと人間のしもべたる猟犬たちの足音。

 馬のひづめと馬上の揺れが最も身近に感じられました。馬が上下するのに合わせて、自分の心臓もバクバクと音を立てているような。落ち着かない、何かに追いかけられているような感覚が僕を襲いました。

 「あれがロボだ! 殺してしまえ!」

 次に大きな声が僕を驚かせました。しかも、その声は自分から出ていたのです。

 気づけば、僕の視界はあるハンターの視界と共有されていました。

 遠い向こうに、ロボのものと思われるオオカミの群が走っていくのが見えます。僕ともう一人のハンター、そしてウルフハウンドたちも必死に追いかけていますが、なかなか追いつくことができません。

 彼らはいちど追いかけるのをやめることにしました。

 「あいつら、俺たちを馬鹿にしてやがる。猟犬たちが追いつかない」

 もうひとりのハンターが、後ろから声を掛けてきます。

 英語の感じでなんとなくアメリカ人と分かりました。

 振り返ると、ブラウンのテンガロンハットに、そこからちらりと覗く金髪、首元につけた赤いスカーフ、さらに馬に乗っていて、装備としてロープやライフルを持っている。僕はいつの時代に迷い込んだんだという驚くくらい、典型的なカウボーイの姿がそこにはありました。

 「ああ。タナリー、そもそも、あいつらの縄張りに近づきすぎたんだ。こんな岩だらけの場所じゃ、見晴らしも悪い。あいつらの思うつぼだ」

 赤スカーフの男はタナリーというらしいのでした。

 「だが、あのロボにはどんなに巧妙な罠も策も通じない。悪魔なんだよ。そうだろ、アーネスト。だから、もう正面切って戦いに来たんじゃないか」

 「そうだ、いったいあいつらに何体の牛や羊が殺されたか」

 「今日こそ、ロボとブランカを殺し、毛皮を売りさばいてやる」

 「ああ、あれだけ上等なものなら高く売れるだろうよ」

 ふたりは馬にふたたび鞭打って、刺激を与え、もっと速く走るように命令しました。

 オオカミたちはどこかハンターを馬鹿にしていて、しばらく追いかけてこないと見るや、少し先でこちらが追いつくのを待っていたのです。おそらく、現実にあったように、ロボの群はハンター相手に連戦連勝していたのでしょう。それが、特にロボの知性を曇らせていたのかもしれません。

 追いかけっこが始まりましたが、やはり群との距離は全く縮まりません。

 業を煮やしたタナリーは群に向かいライフルを乱射しました。僕、つまりアーネストも続きます。もちろん、適当に撃っているのですから、群のだれにもあたるはずがありません。オオカミの群の大分後ろや、だいぶ先を銃弾が落ちていくのがわかります。

 彼らは銃弾が続く限り、撃ち続けました。

 そして、僕にとって、ひとつの悲劇が起こりました。

 無数の弾のうちのひとつが、不幸にもブランカの後足を撃ちぬいたのです。

 「あなた!」ブランカが地面に倒れこみ、その純白の毛皮が土で汚れます。

 「ブランカ! 今助けるぞ」

 いまは聞こえるはずのないオオカミたちの声が聴こえます。

 ロボが群の先頭から方向転換して、ブランカの元へ向かおうとします。群のほかの茶色や黄色いオオカミたちは我関せずといった様子で走り去っていきました。ジャイアントもあの中にいたことでしょう。

 「あなた、早く逃げて!」

 「そんなことができるか!」

 「私はいいから、早く!」ブランカは必死に叫びました。

 その間にも僕らはブランカに迫っているのです。

 僕はこの後の展開が予想できてしまい、思わず、目を閉じようとしました。しかし、閉じることができません。アーネストが見ているものがそのまま映り込んでくるのです。

 

 気づけば、晴天が広がっていました。

 ロボはどこかへいなくなっていました。いえ、おそらく、皆を安全なところへ避難させた後、愛する妻を助けに来るに違いありません。

 目の前の、囚われのブランカが灰色の瞳でこちらを見ていました。

 おびえる様子はありません。屈服する様子もありません。狼王ロボの妻にふさわしい、誇り高く美しいオオカミでした。

 ついさっき銃弾で撃ちぬかれた細い足が痛々しく、目立ちます。

 ですが、その足から流れる血液は次第に赤から茶色、それから黒へと色を濃くしていき、質感も変化させながら、最後に獣をとらえる牙のような罠になりました。

 やがて、四方からその首に縄がかけられ、ブランカの口から鮮血が飛び出します。

 しかし、ブランカはそのまま倒れることなく、からだを透明にして、ロープから抜け出すと、どこかへ去っていきました。

 が、タナリーたちには別のものが見えていたようで、

 「さあ、ブランカは終わりだ。もうすぐロボがやってくるだろう。ロボも殺せば、この平原は平和になるだろう」

 「ああ、そのためにも、少しかわいそうだが、ブランカの死体にはもう少し役に立ってもらうとしよう」

 アーネストはブランカの死体の足を切りとり(この時の僕の無力感と言ったらありません)、ロボに対して、最後の罠を仕掛けようとしていました。

 そのとき、この平原中に、非常に大きな、悲しげな遠吠えが響き渡りました。

 ロボの声でした。

 彼が妻の死を悲しんでいるだろうことは容易に想像できました。ぼくはこれほど悲しみに満ちた音を聞いたことがありません。僕の好きな音楽に、悲しみや死を描いたものはたくさんあります。ロボの遠吠えは、そのどれよりも、暗く、深く、刺々しく、耳を刺すような痛々しさに満ちていました。

 僕はブランカを失った後のロボのことを知っています。

 いつもならば絶対にかからないような罠にかかって、人間にとらわれてしまうのです。妻を探すことを諦めきれずに、不用意に人間の領域へと近づいてきたばかりに。


 あたりが急に真っ暗になり、何も見えなくなりました。

 いつの間にか、ロボと思われる大きな狼が目の前にいました。

 真っ黒の毛皮に、鋭い蒼い瞳。太いナイフのような爪と牙。

 ロボは暗闇にほとんど同化していましたが、その毛並みや瞳などの輝きが、彼の存在を暗闇とはわずかに異ならしめていました。

 彼はブランカの血でできた真っ黒な罠に四本の足を囚われていました。

 抵抗もせずにじっと座って、やはりこちらを見ています。

 僕も彼を見つめていましたが、徐々にロボの顔が大きくなっているような気がしました。ロボが近づいてくる? いえ、そうではなく、ロボの首が体から離れ、僕の方にやってきているのでした。逃げようとしましたが、動くことができません。

 『これはお前の罪だ』

 ロボの首は口を人のように動かし、目の前でそう言いました。

 僕はそのとき、だれだったのでしょうか。ひとりの人間、それともロボの息子のアトルだったのでしょうか。どちらがこの呪いの言葉を受けたのでしょうか。

 あるいはどちらとも?

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