第十二話
暗闇の中、恵は慣れた手つきで明かりをつけた。
一瞬、目が眩む。瞼に慣れた痛みが走った。
「あれよ、優くん」と彼女が示した先、件の絵は置いてあった。
当時の様をほとんど残した机や書棚に囲まれるように、その絵は静かに座っていた。まるで、少年がここを訪れるのを待っていたかのように。
いや、事実〝彼〟は待っていた。
かろうじて一人で抱えきれる程度の大きさのカンバスの真ん中に、一匹の狼が老いさらばえた王のように鎮座している。
闇夜に映える、灰色がかった黒い毛皮。青みがかった流線形の鋭い瞳。
その爪のほとんどない足は丁寧に折りたたまれ、雪山かどこかに座っているようだった。瞳はまっすぐこちらに向けられており、何かを訴えているようにも見える。
頭上には満月が象徴的に小さく描かれていて、そこからのびる月光が彼と彼のたたずむ雪原を淡黄蘗色に染めている。光と影、月光と夜の、境目の定かでないみみょうな感じがカンバス上に見事に表現されていて、気づけば絵画世界がこちらにも広がり、同じ雪原上で彼と向かい合っている。そんな錯覚さえ覚えた。
「これを、先生が?」優はわずかな驚きを含めて尋ねた。
「ええ、そう。これが最後の、絵」
恵の声に先ほどのような明るさはない。
「先生は、どうしてこれを?」
恵は小さくかぶりを振り、
「あのひとのことがすべて分かれば良いのに。そう思うことが何回もあったわ。それは最後まで叶うことはなかったけれど。優くんにすべて伝えられたらよかったのにね。私が知っているのは、光さんが絵を描く理由のひとつが受容や肯定にあるということだけなの」
「なにを、受け入れるんです?」
優はその深い意味を知ろうと、ゆっくりと尋ねた。
「きっと、自分と自分以外のすべてよ。ともすれば敵になってしまう、自分が生きている世界を、彼は自分も含めて、できる限り受け入れようとしたと思うの。これについて言えば、優くんを自分の中に住まわせて、光さんはこの絵を描いたのね」
だから、光さんの作品には私を描いたものもあるし、彼の暗い感情をぶちまけたようなものもある、と恵はつづけた。
「受け入れるって、肯定するって何でしょう」
「それが、言葉だけでなく、実感をもって理解できれば、私も光さんに近づけるのかもしれないわね。いま、私は光さんがいない世界をすんなりとは受け入れられていない。世界や自分の破滅を願う自分がいる。ほんとうにひとってどうしようもないところがあって、自分のそういう面がよく見えてくると、嫌になるのね。一日、一日を過ごすってことが。でも、私には息子たちがいるの。だから」
優は恵の無表情に近い整った顔を見ながら、肯定も否定もしかねるように、わずかに頷きながら小さくため息をついた。
「この絵をゆっくり見たいです」
「ええ、分かってるわ。明日はどうする?」
優は少し頭をひねった後、
「もちろん学校には行きます。制服も取ってこないといけないし、だから」
7時くらいには起きないと、と恵に伝えた。
「うん、じゃあ、そのくらいには起こしてあげる」
「ありとうございます。朝には弱くて」
優は少しだけ恥ずかしそうに言った。
「そんな感じがするわ」と、恵は昔から知っているとでもいうように笑った。
優くんがシャワーを浴びている間に布団は敷いてあるから、と恵は部屋の東の方をさした。書棚の裏に隠れるように、枕と布団の一部がここからも見えた。
「何から何までありがとうございます」
「いいのよ。こちらこそありがとう。変な言い方だけど、少しだけはっきりした気がするの。優くんがここにきて、あのひとのことについて話して。それで、もうあのひとが私の世界のなかに〝からだ〟としては生きていないことが分かったわ」
その意味を奥底まで汲みとることができない自分の未熟さが腹立たしかった。
優にはうなずくこともできずに「あ」と呻くように吐き出すことしかできなかった。
『自分も誰かを失えばそれが分かるのだろうか』と恐ろしい考えさえ浮かぶ。
『何を言ってるんだ、ぼくは』
経験のためには時間と巡りあわせが必要で、必要なときに必要な経験がないことを嘆くことは意味がないのかもしれない。それでも、いま、恵の悲しみから遠いところにいる自分をみることは、ひとつの罪悪のように彼の胸にのしかかった。
「ごめんなさい」
彼は言えるのはそれだけだった。なんだか謝ってばかりいるとも思ったけれど、今言えるのはそれだけだった。
「光さんが優くんを優しいと言った理由がわかる気がするわ」
優の肩に手をかけて、恵はそう言った。
『優しいなんていわないで』
彼女は優の表情を一瞬、心配そうに見つめてから部屋を出て言った。
恩師の書斎にひとりになり、落ち着かなさそうにあたりを見回してから、優はあの絵を再び視界に入れた。
画家を尊敬している彼が絵を見るときに大切にしているのは、まさに素人目というべき第一印象だった。彼にとって第一印象で引き込まれる絵には力があるのだ。絵が写実的であろうが幻想的であろうが関係はない。その絵に何がこもっているかが大切で、そのこもっている何かを自分は察することができるとすこし調子に乗っていた。現実の人々に対してそうできると思い込んでいるように。だから、絵を歴史でもってみるという視点も欠けていて、そういう意味でも彼は素人なのだった。
いま、優が恩師の遺した絵を見たとき、かの狼は現実に存在する狼として美しいのではなかった。背景も構図も現実的ではない。では、なぜ惹かれるのか、観ようと思うのか。中上先生が描いた絵だというのを知っているからというのもあるだろう。いや、一つの大きなファクターには違いない。ただ、その事実を知らなくとも、少年はその絵に惹かれていただろう。
眼だ。狼の眼が〝黒澤優〟を見つめていたからだ。
みるものの嘘を貫くような鋭い蒼眼。彼の前では隠し事ができないとでもいうような雰囲気がその狼にはあった。
優は絵を布団の近くに運ぶことにした。
布団に座って、もっと近くで見つめようと考えたのだ。
絵は想像以上に大きく、重かった。できるだけ表面を触らないようにすると、妙な力の入り方になって運び辛い。しかも今は夜で、恵さんも子どもたちも、就寝する手前か、もう寝静まっている頃だろう。音を立ててもいけない。
ようやく、布団のそばの壁に立てかけたところで、少年は小さく息をついた。
「うん、オオカミだ。しかも、普通のオオカミよりも毛が長く、すごく年をとってる。オオカミはこんなに長生きできないはず」
と、つぶやいたところで優は自分がおかしなことを言っているのに気が付いた。
自分がこのオオカミの齢を知っているわけがないのに、すごく年をとっていると言ったのだ。その理由もわからない。
「それにからだも大きいような。ほら、周りの木々が低いのかもしれないけれど、肩の高さが明らかにおかしい。まるで外国の伝説にある人喰いオオカミだ」
と、だれかと話しているように続けた。
「きみはだれなの。どうしてぼくをみるの。ぼくと話したいの?」
仲間になることが望ましい、と書いていた、あの『狼』の記述が思い出された。
「きみとぼくは仲間になれるの」
狼は応えない。ただ黙ってこちらを射抜いてくるだけだった。
だが、それが絵であるという事実を忘れているかのように少年は話しかけつづけた。
「きみは先生の一部なんだ。こころの中の存在なんだ。だから、ひどく限定する、この絵をみることができるひとを。もし、先生がぼくのことを考えながらこの絵を描いたとしたら、ぼくはこの絵をみなきゃいけない。ふかく、ふかく、みなきゃいけない」
優は自分の瞼が重くなってくるのを感じた。
力が抜け、頭の重みに負けて、首が折れるように下がる。それを数回繰り返しているうちに、彼は布団に座ったまま眠りについた。
何かが始まる予感を胸に抱きながら。