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狼の詩  作者: ゆうなぎ
少年編
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第十一話

 この悪い夢はいつか終わるんだろうか。

 闇が深まった通りを、心臓を落ち着かなく鼓動させつつ歩きながら、優はそんなことを考えた。いつの間にか、住宅街にいた。

 『そうだ、誰かの家を訪ねて、帰り道を聞こう。このまま朝まで歩き続けるなんてとても考えられないんだから』 と、周囲の家々を見渡す。

 全体的に暗くてよく見えなかったが、一軒だけ、まるで彼を呼んでいるように、少し明るめの外灯をつけていた。

 『もう、あそこしかない』

 優は足を引きずりながらも早足でその家に近づいていき、インターホンを見つけてそれを押そうとした。そのとき、表札の文字が目に入った。

 『中上』

 もしかして、と思った。

 ただ、それほど珍しい名字でもないわけで、いくらでもいるといえばいる。 もし、ほんとうに先生の家だったら。ぼくはどうすればいいんだ。 そう逡巡している間に、気づけば迷子の旅人はインターホンを押していた。

 「はい」 数秒後に声が聞こえた。落ち着いた女性の声だ。

 「あ、あの」

 まるで慣れない言語を操るように、一単語ずつつまりながら言葉にしていった。

 「じつは、道に、その、まよってしまいまして」

 「あら」と、先程の「はい」よりはいくらか温かみのある声。相手の声が少年のそれだと分かったからかもしれない。

 「少し待っていてくださいね」

 そう聞こえたかと思うと、玄関扉が開かれ、中から背の高い女性が出てきた。

 若くはなかったが、短めにそろえた黒髪と、年相応の美しさを持ったひとだった。それに、どこかでみたような顔だった。が、疲れもあってか思い出そうともしなかった。

 彼女は少年の姿を視界にみとめると、やや駆け寄ってきて「どうしたの?」と優しく尋ねてくれた。女性の態度に安堵すると、

 「ここが何処だか分からないんです」と、弱気な、涙ぐんだ声が出てきた。

 自分がこんな情けない声を出すのかと驚いたくらいだ。

 「ええ、とりあえずお入りなさい。あなた、体中よごれているし、傷だらけよ?」

 「すみません、ありがとうございます」

 女性に連れられ、優は「中上さん」の家に入っていった。

 玄関で靴を脱ぐと、すぐ右手のリビングに連れて行かれた。入るとすぐに見えた、食事用のテーブル、そこにあった四つの椅子のひとつに座るよう優しく促された。

 何もかもが整理された家だった。白色のソファ、薄型のテレビ、ベージュの絨毯、などの配置に生活の秩序が感じられた。ただ、息苦しい秩序ではなかった。女性がまとっている優しい雰囲気が、そのまま家の中にも満ちていて、過ごしやすそうな空間になっている。

 「大丈夫?」

 「はい」

 「あなた、お名前は?」

 「黒澤、優といいます。あの、ありがとうございます」

 「わたしね、ふたりの息子がいるの。あなたと同じくらいの。いまは二階で過ごしているけどね。ね、どうしたの。手当をしてもいいかしら」

 「ええ」優は多くを語らず、女性の言うに任せた。内気な性格も災いして、ほとんど恩人の顔も見ることができないでいた。

 「すみません、突然おじゃましてしまって」と、横目で女性を見ながら言う。

 「いいのよ、家出とかではないんでしょ。あなたのお家は?」

 優が住所を告げると、

 「電車で三駅くらいあるわね。もう遅いし、今から帰るのは厳しいわ。とりあえず、今日は泊まっていきなさい。明日、駅まで送ってあげるわ」

 「そこまでしていただくわけには」

 「そうしましょう。こんな傷だらけで疲れているのに、無理はいけないわ。そうと決まれば、お風呂に入ってらっしゃい。そのままじゃとても見ていられない。服も洗濯したいし、パジャマも貸すわ」

 女性の声には有無を言わさぬ何かがあった。単に優が押しに弱いだけかもしれない。ともかく、情けない旅人は中上家で一晩休ませてもらうことになったのだった。

 「その前にお家に連絡しないとね。電話番号は分かる?」

 「あ、はい」

 女性は電話番号をメモすると、黒澤家に電話をかけた。

 「…ええ、そうなんです。ですから、本日はお預かりさせてもらって、明日、そちらまでお送りしようかと。いえ、優くんも疲れてますし、今から来ていただくのも大変でしょう。はい、はい…では、お電話変わりますね」

 「はい、お父さんよ」

 「優、大丈夫か」どこか懐かしい父の声だった。

 「もうすぐ警察を呼ぶところだったんだ」

 「ごめん、心配かけて。道に迷っただけだよ」

 「とにかく無事でよかった。明日、ちゃんと帰ってきなさい」

 「それなんだけど、学校、どうしよう」

 「明日くらい、いいんじゃないか。まあ、お世話になる人は優しそうな人だな。今日はお任せするから、きちんとお礼を言いなさい。分かったね」

 「うん、分かってる」

 「お母さんには上手く言っておくから。おやすみ」

 「ありがとう、おやすみなさい」

 電話が切れると、優はお礼とともに電話を女性に返した。

 このとき、ふたりの視線が初めてまともに交差した。それでお互いが、お互いの顔に既視感を覚えたのだった。

 先に口を開いたのは恵だった。

 「優くんって名前、そう、何処かで聞いたと思ったの。もしかして、あの日、光さんのために言葉をくれた、あの男の子はあなたなの?」

 「じゃあ、ここはやっぱり先生の家で、あなたは先生の」

 「妻の、恵よ」

 「そう、どこかで見たことがあると思ったんです。それに、ずっとお会いしたかった。上手くは言えませんが、会わなければならないと思っていたんです」

 「じゃあ、今晩はたくさんお話できるわね。でも、とりあえず、お風呂に入ってきなさい。いいわね?」

 と、恵に半ば無理やり脱衣場に連れて行かれ、服を脱いで洗濯機に入れるように促された。それからはひとり、勝手の分からない浴室であれこれ迷いながら、からだの傷と汚れを洗い流した。

 『急ごう。きっと恵さんも僕を待ってる』

 だが、この夜のことを思うと、少し怖い気がした。

 自分が何を伝えたいのか、何を伝えればいいのか、まったく見当もつかない。とにかく、余計なことを言って、恵さんの傷を抉るようなことはしたくなかった。

 『中上先生がいなくなってからのぼくは、いつも何かを求めていたような気がする。何かを求めるのは、自分の中に大きな穴が空いているからなのかもしれない。でも、たぶん、ぼくなんかとは比べものにならないくらい、恵さんは深い喪失感を味わっているはずなんだ。その気持ちに、ぼくは深いところまで共感することができない。だって恵さんの悲しみは恵さんのもので、ぼくはどこまでいっても、ふたりにとって他人なんだから』

 シャワーを終えてリビングに戻ると、恵はひとりテーブルについてコーヒーか何かをすすっていた。明かりが暗くなっていた。暖色系の小さな明かりがテーブルの上にだけ灯っている。

 「おかえりなさい」恵は親しみを込めて言った。

 「あ、はい、ただいま」

 「すっきりした?」

 「ええ、ありがとうございます」

 「とりあえず、座りましょうか」

 「そうですね」

 優はそう答えて、恵の向かいの席に座った。目の前にはグラスに入った白っぽい飲み物があった。おそらくスポーツドリンクか何かだろう。

 「お風呂の前後は水分を摂らなきゃだめなのよ」

 「そうなんですか」と、頭を下げて一口すする。

 「そういえば、優くん、何も食べてないでしょ。何か作るわ」

 「え、でも、悪いですよ」

 「ふふ、子どもは遠慮しなくていいのよ」

 小さく笑って、恵はキッチンへ向かう。

 しばらく落ち着かなさそうに、ドリンクをすすっていると、親子丼と味噌汁が運ばれてきた。ごく普通のものだった。家庭的で、飾り気のない。

 優にはそれがひどく懐かしく感じられた。家からたった三駅ほどの田舎で迷子になっただけなのに、遠い異国の地に来たような疲労感と孤独感があったのだ。我ながら大げさだと優はこころの中で笑った。

 「ありがとうございます、食べていいですか」

 「もちろんよ。夕食の残りでごめんなさいね」

 「いえ、うれしいです、とても」

 お礼を言うと、優は夢中で親子丼をかきこんだ。

 おなかがすいていた。それもあるが、やはり嬉しかったのだ。

 それはぬくもりだった。人のやさしさだった。それを感じて、こころの底から純粋に嬉しくなる。

 『まだまだぼくは子どもなんだ』

 どんなに自分が孤独だと胸を張っていても、結局のところ、こういうぬくもりは大切でかけがえのないものなのだ、と優は考えた。

 親子丼がほとんどなくなってしまったのを見て、恵は声をかけた。

 「おいしかった?」

 「ええ、とっても。本当においしいかったです」

 最後の一粒まで平らげて、優は笑顔でそう言った。

 「おなか、空いてたのね」

 「そうみたいです、なんだかすみません」

 「いいのよ、息子が増えたみたいだわ。パジャマも似合ってる」

 「あ、そうですか」照れくさい言葉だった。

 「優くん、あのときは」

 と、突然、恵の声の調子がやや暗く変わったのを、優の耳は聞き逃さなかった。

 「あのときはありがとうね。光さんのためにこころのこもった言葉をくれて」

 この話だ、と優は身構え、恵の顔を上目遣いで見る。恵もまっすぐこちらを見ていた。

 もしかすると、話す必要のないことなのかもしれない。さっきまで、お互いにそう感じていただろう。少なくとも積極的に話そうとしていい話題ではなかった。けれども、話さずに済ませて良いものでもなかった。この貴重な出会いに敬意を示すならば。

 「あの、何といえばいいのか分からないんですけど、ぼくにとって、ほんとうに残念なことでした。お礼なんて、とても」

 彼はこれ以上なく丁寧に言葉を紡いだ。こころから嘘をなくすように。

 しばらくして、

 「そうね、ごめんなさい」と恵。

 「いえ、謝らないでください。恵さんの気持ちをすべて察することはできませんが、でも、ぼくも近い気持ちだと思っています」

 「ええ、ありがとう。今日、優くんに会えたのは、たぶん、あの人のおかげね。この気持ち、つらい、とか、悲しい、という言葉ではなんだか違うの。ひとつだけはっきりしているのは失ってしまったということだけ」

 「ぼくもそうなんです。ぼくの中から何かがなくなって、何かが欲しいと毎日感じて。それで何かを探して、ぼくは旅に出たんです。まさか、恵さんとお会いできるとは思いませんでした」

 「ほんとうにそうね。あのひと、良い先生だった?」

 「先生は、ぼくにとって、ほかの先生とはちがっていました。どう違うのかと言われてもうまくは言えないんですけど。あまりに時間がなくて、たくさん話すことはできませんでしたが、大切なことを先生とは話すことができたんです。相手が先生だったからだと思います」

 優は一瞬だけ口をつぐみ、ふたたび口を開いた。

 「だから、先生がいなくなって、ほんとうに寂しく思っています」

 「そう、ほんとうに酷いひとよ、私を置いていっちゃうなんて。これからなのよ、私も息子たちも」

 そうつぶやく恵の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。それでも、涙を零さないように、なんども瞳をぬぐって、ティッシュで鼻のあたりを抑えて。優の前だからなのか、彼女が泣き崩れることはなかった。

 「恵さん、ごめんなさい」

 「どうして優くんが謝るのよ。優くんに会えてよかったわ」

 「ぼくもです。恵さんに会えてよかった。あの、聞いていいですか」

 「ええ、なんでも聞いて」

 「先生ってどんな人なんですか、恵さんから見て」

 「優しいひとよ、多分、世界一やさしい。それに、彼はいつも彼なの」

 「いつも?」首をかしげる優。

 「ふふ、そうねえ、どんなときも、自分の世界が崩れないひとなの。ほら、どうしても、社会っていうのかしら、そういう中で生きていると、自分を偽ったり、騙したりすることってあるでしょ。あのひとはそれを絶対しないの。できないのかもしれないけど。光さんの中には、光さんだけの家があって、そこにいつもいるから、自分を見失わない」

 「たしかに先生からは嘘のにおいがしません」

 「嘘のにおい、ね。面白いこと言うのね、優くんは」

 「恵さんからもしません」優は無表情で冗談を言った。

 優のこういう話しぶりは、彼が誤解されるパターンのひとつで、しまった、と思ったが、

 「あら、ありがとうね」恵は冗談だと分かったようで、すこしおどけて返してくれた。

 笑顔が見えたが、涙痕の残る頬は痛々しい。

 優は言ったことを後悔した。長続きのしない後悔。

 「でも、私たちからすれば寂しいものよ。その家の中に入ることはできない。光さんのせいじゃなくて、光さんにしか入れないの」

 「先生の穏やかさって、そこから来ているのでしょうか」

 「そうかもしれない。でも、それは時に激しさや怖さにもつながるの」

 「どういうことです」

 「若いころは激しい部分が多かったの。自分の世界に対するこだわりみたいなのが強くて。怒るとものすごく怖かったわ。ひどい喧嘩になると、手が出てくるの。もちろん加減はしてたわよ。私も若いときは激しいところがあったから、対抗して彼を叩いたり、蹴ったり、ね」

 恵はごまかすように苦笑いをしながら言った。

 「あの先生が。それに恵さんも、ですか」

 優は、自分から遠いことのように、ふたりの若いころの歴史を受け取った。

 「ふふ、そうよ。でも、年とともに、彼の努力もあって、彼の世界は静かになっていった。もちろん、その頃から優しかったわよ。酷いひとだとも思ったけどね。まあ、今となってはそれもお互い様。私ってわがままで、彼を振り回してたもの。ひどい喧嘩だって、長い間に数回しかなかったわ。数回でもおかしいのかもしれないけど。離れるべきだと思うことも何度もあったわ」

 「ぼくにもそういう面があるかもしれません。自分がとても冷たく思える時があるから」

 「こころは、もしかしたらそういう風にできているものなのかもしれないわ。あの人からの受け売りだけど、人には無数のこころがあるんだって」

 「むすうの、ですか」

 「ええ。仏のように慈悲に満ちたこころ、罪人のような冷たい刃物のようなこころ、感情的で子どもっぽいこころ、どこまでも理性的で大人びたこころ。数え切れないほどのこころが合わさって〝もや〟のようになって、それがこころになるんだって、あの人はよく言ってたわ。若いころからね。いまだによく分かってはいないけれど」

 「でも、たぶん、中上先生にとって、激しい自分というのは醜かったと思うんです。醜い自分を見るのはつらいです。中上先生には激しい面があった。でも、世界一優しいって恵さんは言いました。先生はどんな風に醜い自分と向き合って生きていたんでしょう」

 恵はうん、とうなずいて、一口飲みものをすすった。

 「あの人はいつも後悔してたわ。後悔して、激しい自分をなんとかしようといろいろ考えて、やっと乗り越えたと思ったら、また繰り返すの。私と大喧嘩するのね。そのたび、何度も謝ってきて、反省して、少しずつ穏やかになっていったの。

 自分がどんなに最低なやつか、罪深いか、分かってるつもりだ。こんな僕のそばにいてくれてありがとう。って言葉、何回聴いたかしら。

 今だから言えるけど、彼もつらかったと思うわ。だって、普段は本当にやさしいもの。自分の悪いところだってよくわかってる人よ。でも、どうしても感情が抑えきれないところがあったのね」

 「時間が必要だったってことですよね、先生にも」

 「ええ、時間って大事ね。待つって大事。別れなくてよかったと私は思ってるの。私たち、若いころは何度も別れてはくっついて、を繰り返してたから。おかしいでしょ」

 優には少し遠い話だった。

 優は誰かをこころから好きになったことがない。これからの先、自分が誰かを好きになって、付き合って、そして結婚までするなんて、そういう話は信じられるものではなかった。ただ、素直に先生がうらやましく思えた。

 『もし、近い将来、中上先生にとっての恵さんのように、ぼくがぬくもりを手に入れることができたなら、それをきちんと手放さないでいられるだろうか。先生が恵さんにしたことが良いことだとは思えない。でも、若いころの先生にはそうせざるを得ない感情があった。恵さんのようにそれを受け止めてくれる人がいた。

 ぼくには分からないことが多い。知らないことが多い。人間っていうのが分かっていない。それを知るには進むしかなくて、自分にロボのような愛を宿すにも、やっぱり進むしかない。それが辛いのに、進むことを強いるような自分がいる。それも不思議なんだ』

 優にとって、中上光という人間が初めから、自分の知る〝中上先生〟ではなかったことは、彼を少なからず驚かせ、どこか安堵させもした。つまり、人間が一貫したものではないということが、彼を安堵させたのだった。

 それは、自分も同じく時間の中に在るということに対する安堵だったのかもしれない。進み、変わるという選択肢があるということが、希望なのかもしれない、と。

 『でも、それが絶望かもしれないんだ、醜い自分が醜いままかもしれないから』

 美しさと醜さということに、この頃の彼は執着していたのかもしれない。

 「優くん、大丈夫?」

 しばらく黙り込んでいたらしい。

 「あ、はい」と、顔をあげると、恵の心配そうな顔が見えた。

 「ねえ、優くんの知ってる〝中上先生〟は、私の知ってる光さんと変わらないわ。光さんはいつも光さんで、やっぱり世界一やさしいの。私や子どものことを考えて、人生を変えてくれた」

 「中上先生という人が、ぼくを変えてくれたんです。ぼくにとって、周りの世界というのは遠いものだったんです。ぼくはそこにいるけれど、ぼくがいなくても回っていく。正直に言えば、面白くなかったんです。みんな、なんとなく同じことをしていて、しかも、おなじであることをみんなに強いているような感じがして。子どもっぽいけど、そういうのはぼくにとっては見たくないもので。

 でも、先生がぼくと世界を近づけてくれた気がするんです。ぼくはぼくでいいのかもしれないと少しだけ思うことができて、もちろん、自分に対する失望や不安はたくさんあって今にも飲み込まれそうだけど、もし、先生がいてくれたら、そういうことをたくさん話して、ぼくはぼくというものを前に進めることができたかもしれないと思うんです。先生ともっと話せていたら、ぼくはもっといろんなことを知って、先生のように優しくなれていたかもしれない。うまくは言えないけれど、ぼくは先生という人に惹かれていたんだと思います。だから、ほんとうに残念なんです」

 恵はゆっくりと無言で頷いた。

 「優くんのこと、光さんいつも話してたわ。彼は、僕の若いころに似てる。でも、僕よりもひとりで、僕よりも優しいって」

 「そんなこと、ありません」

 「わからないわよね。自分のことが一番」

 「そうかもしれません」

 「あの人も、自分ではどうにもならない自分を受け入れようとした。自分自身とくっつけようとした。だから、光さんの優しさは、単純なものじゃないわ。彼の優しさは優しさだけでは成り立ってなかった」

 「ぼくは何が欲しいんでしょう。どうして恵さんに会いたかったんでしょう。ぼくは自分の感情にいちいち理由を求めないとだめなのかもしれない」

 「光さんは戦ったの。普段の自分が見ようとしない自分と。優くんがいま求めているものも、優くんのすべてを見ないと現れないかもしれない」

 「ぼくのすべて?」

 「ええ」と、恵さんは小さく笑った。

 「おかしいわね、私。なんだか懐かしいの、君を見てると」

 「ええっと、夫婦って似るものなんですか」

 「急になによ。どういうこと?」

 「恵さんも先生みたいなことを言うから」

 「そりゃあ、ずっと一緒にいたら影響されるわよ。ねえ、優くん。優くんのためになるかは分からないけど、光さんはしたいことがあったの。若いころ、私との生活のために諦めてくれたこと」

 「それって」

 「絵よ。光さんは時々絵を描くの。絵の良し悪しなんて分からないけど、私は好きな絵。一番最近に描いた絵があって、それが優くんに関係してる」

 優は中上先生と最後に話した放課後のことを思い出した。

 狼のレポートについて話した、あの幸福な放課後。

 「あの夜、狼の絵を描くと言ったの」

 「ぼくと話した日のことですか」

 「きっとそう。明日も仕事なのに、夕御飯を食べたら部屋にこもっちゃって。それが数日続いたと思ったら、光さんはいなくなってたの」

 「その絵、見せてもらってもいいですか」

 優が考える前に言葉を発すると、恵は「うん」と頷き、

 「もちろんよ」と少し驚いたように言った。

 「今日、優くんが泊まる部屋は光さんの部屋の隣の部屋にしようと思ってて。そこに絵も置いてあるから」

 「ありがとうございます。ごめんなさい、案内してもらってもいいですか」

 「分かったわ、ついてきて」

 ふたりは立ち上がり、恵が明かりを消して、一緒にリビングを出た。

 細い廊下を挟んで、向こう側に小さな部屋がある。そこは書斎であり、中上先生はここを仕事部屋として使っていたという。

 「光さんがいなくなってから、一度だけ見たの」

 そう言って、恵はドアノブを静かに回し、扉を開けた。

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