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狼の詩  作者: ゆうなぎ
少年編
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第十話

 そして、ついに両親との約束である冬休みの最終日を迎えた。

 明日からは学校に行かなければならない。

 あの寂しい場所に戻らなくてはいけない。そう考えると気が重くなった。

 『このまま帰ってこられなければいいのに』

 優はそう願ったが、それが叶わないことも知っていた。いや、そんなことを望んではならないのだ。もし、このまま自分が失踪でもしたら、家族だけではなく、多くの人に迷惑がかかる。思う以上に大変なことになるだろう。

 こう考えるのは自分が〝いい子〟だから? ううん。

 『ちがうんだ。そうすることが、ちゃんとぼくの求めていることに近づくんなら、ぼくは迷わずそうするだろう。どこへでも消えてやるんだ。でも、そうじゃない。それは〝フリ〟なんだ。変わってるフリ、悪ぶっているフリなんだ』

 ただの自分勝手と自分の望みは明確に線引きされねばならない。

 『ぼくのものさしはたぶんずれがない。こうやって自分をはかるときには』

 旅の初日以来、彼は往復千円前後で行くことのできる駅を利用していた。

 しかし、最終日ともなると手持ちがさびしかった。自分のお小遣いはとうに使い果たしている。父にもらった一万円もいくつかの小銭に変わっていた。その額、五百円。これでは遠くには行けやしない。仕方がないので、二五〇円以内で行くことのできる、もっとも遠い駅に行くことに決めた。当然、ふたつ、みっつ先の駅までしか行けないわけだが、これではほとんど近所のようなもので、旅という感じは薄い。

 『どこだっていいさ。何も見つかりやしないんだから』

 短い乗車時間ののち、電車を降りると、眼前に一面の褪せた田園風景が現れた。

 収穫期も終わり、刈り取られた稲が等間隔で並んでいる。土壌に水気はなく、そこら中がひび割れていて、見るからにつまらない土地である。

 優は見慣れた景色に嘆息した。

 こんなものだ。知っていた。知ってはいたが、ここまで何もないとは思わなかった。

 優は目の前の味気ない景色に対して理不尽に苛立った。

 降りた先は小さな無人駅だった。駅員もおらず、小さな部屋のようなところに券売機だけがぽつんと置いてある。券売機も構ってほしいのか、時折、ブーンという重低音を鳴らしてなにかを訴えている。

 そんな妄想をしつつ、優は「きみも大変だね」とつぶやいた。こうして、彼が人でないものに対して話しかけるのは珍しいことではない。そして、話しかけた後に自分をばかばかしく思うのだ。それでも〝したい〟ことではあったのだが。

 見晴らしだけは良いこの駅からあたりを見回すと、やや遠くに、真っ赤な鳥居とそれに押し込められているように向こうに広がる、小さな山が見えた。こんな辺鄙な場所では、鳥居ですら目立つものになってしまうのが悲しい。

 ここでこうしていても仕方がないので、彼は鳥居へ歩いていくことにした。

 そして、改めて、自分のこころの入口に、ここでは何も見つからないだろうという予防線を一本張る。何もなかった時の失望を少しでもやわらげるために。

 遠くに見えた鳥居は案外と近くにあり、歩いて十分ほどでたどり着いた。

 真っ赤な、さほど大きくはない木製の鳥居。塗り直しがされているのだろう、古い感じは受けなかったが、恐らく、最近建ったものでもなかった。色は鮮明であっても、所々にひびがあり、一部塗料も剥がれていた。

 優は頭を下げ、失礼しますと言いながら、鳥居の中、山の中へと入っていった。

 眼前に傾斜の緩い山道が螺旋状にぐるぐると上まで続いているのが見えた。

 普通ならば、整備されてある山道に沿って登っていくものだが、このときの優は自分の装備が整っていることに慢心して、山道でない、ろくに整備のされていない、険しい天然の細道を登ることに決めた。

 その方が何か見つかるかもしれない、そう感じたのだ。

 いつも家の中で過ごしている優には、もちろん、運動部に所属している同級生に勝るほどの体力があるわけではない。が、器用なところもある彼は運動ができないわけでもなかった。勉強もスポーツも、やろうと思えばそれなりにはできるのだ。ただ、何もかも天才的にできるわけでは、もちろんない。悪く言えば、器用貧乏であった。

 とはいえ、この程度のやや険しい山道くらいはすいすい登ってしまう優である。

 道具を使う必要もない、一般人が難なく登れる程度の山。優のように山道から外れるとやや難度は上がるが、それでも大したことはない。

 少し間違えば転落しそうな細道や木々の枝が無数の手のように行く手を阻む難所をいくつか乗り越えて、優は山頂に迫った。天然道は険しい分、整備された山道よりも早く山頂に着くようであった。

 登り始めて三十分もしないうちに、彼は山頂にたどり着いた。

 登ってみれば、標高も低く、身構える必要もない山だったが、彼の胸にはわずかな満足感があった。頂上には、木製のベンチがふたつ置いてあり、小さな旅人はそのうちのひとつに座って、お茶を飲み、母が焼いてくれた自家製のパンをかじった。

 清々しい気分だった。

 このときは珍しく、いつもの雑多な思考から離れて、爽やかな生の喜びに浸ることができた。息をしている、食べている、感じている。生きているということの分かりやすい実感だった。

 しかしながら、空腹も満たされ、呼吸も整うと、それらの実感も満足感も消え去り、あの不安と焦燥が首をもたげ始めた。風が急に冷たくなった気がした。

 『結局、ぼくは旅の中で何も見つけていない』

 急に、こんなところにいつまでも居られないという思いが彼の中で強くなった。たまらなくなって、彼は下山を決意した。何かから逃げるように、足を速めて下りていく。

 だが、下山こそ注意せねばならないということを彼は忘れていた。

 足場は登りと同様良いものとは言えず、ゴロゴロとした石とそこら中に落ちている木の枝が、彼の足をとって体勢を崩そうとする。

 『早く別の場所へ行こう。早く、早く』

 天然の斜面と平らな登山道を交互に乗り越えながら、徐々にふもとに近づいていく。だが、その焦りがついに優に不幸を招いた。斜面を滑るように下りている途中で、左足をくじいてしまったのだった。完全に体勢を崩した優はそのまま斜面に倒れ、石や枝にからだを傷つけられながら下へ下へと転がっていった。不幸中の幸いともいえたのは、ふもとが間近に迫っていたこと、そして、偶然にも彼の手が一本の木の幹に引っ掛かり、数メートルの落下で済んだことだった。

 そこで何とか立ち上がったが、なんだか泣きそうな、情けない気分になった。

 さあ旅だ、何かを見つけて帰るんだと意気込みながらこんなところへやってきて、さあ何かを見つけられればそれで良かったが、現実には何も見つからず、それで焦って下りてきたために転んで、けがをして、泣きそうになって。

 自分はなんて馬鹿なんだろうと思った。

 「なんで、どうして?」

 うるんだ、ふるえた声でそうぼやく。何に対する言葉なのかもはっきりしない。

 全身が痛い。特に左足と、木にぶつけた右腕が。

 「痛いよ、痛いよ」

 左足を引きずりながら、今度はゆっくりと斜面を下りていく。

 これほど情けないことはなかった。この、足をくじいて、斜面を数メートル転がった事故と受けた痛みによって、この少年は自分が何をしにここへ来たのかという大切な目的さえ忘れかけていたのだった。

 少年は自分がここまで弱いとは思わなかった。

 自分はひとりでいても平気な強い人間だと思っていた。

 でも、そうではなかったのだ。こんな山の中、独りでいることが彼を弱くした。情けなくした。この程度でこうなるのだと、自分が恥ずかしなった。もし、こんなところで誰かに会えるという幸運に恵まれるとしたら、彼は恥も外聞もなくその人を頼っただろう。

 「こんなことを考えたのが馬鹿だったんだ。早く、早く帰らなきゃ」

 しかし、困ったことに道が分からない。

 ふもとは近かったが、登ってきた方向とはちがう方から降りてきていたのだ。

 「ああ、どうしよう」

 心臓がどきどきする。気持ちだけが焦って前に行こうとする。

 気持ちについていかない左足を引きずりながら、今度は慎重にゆっくりと降りていく。

 間もなく、視線の先に、山を囲んでいる青いフェンスと、それ越しに道路とそこを走っている車とが見えた。

 「良かった。とにかく山からは出られたんだ」

 少年は天にも昇るような気持ちでそうつぶやいた。

 あまりの嬉しさに足をくじいたことも忘れて、走り出しそうだった。

 通りに出たはいいが、ここがどこかは相変わらず分からない。かといって、道を尋ねられる人も歩いてはいない。目立つような建物もないようだ。これが田舎だった。優はこの人けのなさが好きだったのだが、今はそうも言っていられない。入口にあった鳥居もここにはない。

 『反対側に下りてきたのかもしれない』

 急に焦燥感が募り、何も考えずに下りてきたことが悔やまれた。

 『歩くしかない。人に会えば、あとはさっきの駅までの道を聞けばいいんだから』

 そう考えて、優は勇気を奮い立たせた。

 だが、やはり人には出会わなかった。

 さっきまでは走っていた車も今では一台も通らない。

 彼は、いままで自分がどれほど温かい孤独の中にいたのかを思い知った。家族の中にいるということは、たとえ孤独であっても、どうにもならない事態になったときに、まだ頼る人がいることなのだ。それに思い当たったとき、家族の存在をありがたいと思う気持ちが湧きあがるとともに、ふたたび彼は自分が情けなくなった。孤独を苦痛ともとらえ始めている自分が。

 『ロボがこんな気持ちになるだろうか。渡り鳥がこんな気持ちに? なるわけがないじゃないか!』

 そうして、自身に対して、怒りに似た感情を覚えながら足を引きずって歩いているうちに、辺りは少しずつ濃い紫色に染まっていった。

 明日から学校が始まるというのに、こんなところで道に迷っている。

 朝から感じていた、何かを見つけられるだろうかという焦りは、もはや、明日までに家に帰ることができるだろうかという焦りに完全に変わっていた。

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