第一話
少年篇
この物語を愛すべき友人Yに捧ぐ
一日の授業がすべておわり、放課後になると、学校からは誰もいなくなって、静けさがあたりを包みこむ。ときどき、鳥か獣か、なにかが鳴いているような声はするけれど、それ以外はなにも聞こえない。昼間、学校中に満ちていたあの活気が、喧騒が、まったくのまぼろしのように思える。
『これがずっと続けば良いのに』
そう願いながら、優は、夕日で真っ赤に染まった渡り廊下を下駄箱とは反対方向に向かって歩いていた。もう友だちのほとんどは家に帰るなり、つれだって遊びに行ったりしている頃だろう。けれども、優はそうしなかった。やることがあったのだ。
今日の三時間目の授業は国語で、担当教員はあの中上先生だった。
優にとって、中上先生は普通の先生とはちがっていた。なにがちがうのって聞かれても、すぐには答えられないような〝ちがい〟。外見は平凡そのものだと言って良いし、授業が飛びぬけて巧いわけでもない。ただ、中上先生はいつも笑っていた。
ゲラゲラと声をあげて笑っているわけでも、無理やり明るく振るまおうとして、作り笑顔をしているわけでもないのだが、彼の内から発せられる柔らかなカーテンのような明るさが、その顔に絶えず優しいほほえみを添えていた。その笑顔だって、見る人によっては〝普通の笑顔〟に見えるにちがいない。でも、優には、その笑顔は別なものに見えていた。そして、そのちがいこそ、上手くは言えないが、中上先生を中上先生たらしめているように、優には思われた。
その中上先生が、今日、自分たちに二週間後を期限とする課題を出した。
課題の内容は「自分の好きな動物や気になる動物について、生態などを調べ、まとめて提出する」というものだった。課題の最後の方に感想があるのが望ましいのだという。
優は課題を出した先生の意図をはかりかねた。
が、担任でもある中上先生から学級委員長を任せられている自分が、クラスに必ず一人はいる不真面目な生徒のように手を抜くなど考えられなかった。
とにかく、図書館に行かねばならなかった。
図書館に行き、ある動物についての本を借りねばならなかった。
優は渡り廊下から図書館がある棟へと入り、入り口からT字型に伸びている廊下を左に曲がった。ここから長い廊下をまっすぐ進めば、図書館が見えてくる。
最近は、どの家庭にもテレビやパソコンがあるし、優のような若い世代であっても、スマートフォンなるものを持っている子がいる。あの、平べったくて四角いアレだ。持っていない優にはよく分からないのだが、あの小さな四角形の物体は「小さいパソコン」とでも言うべきもので、画面に何回か触れるだけで、知りたい情報を手に入れることができるらしい。
「それがあったら便利なのかな」優は独りきりの廊下でつぶやく。
スマートフォンがあれば、インターネット上から、すぐさまたくさんの情報を手に入れることができるだろう。それらをまとめれば、二週間と言わず、今日中に課題が終わってしまうかもしれない。優の家にはパソコンがあるから、それに頼ってもよかったのだ。
けれども、優は本を借りることを選んだ。
別に、なにか特別な信念があったわけじゃない。
授業が終わる直前、チャイムにかき消されながらも、先生がこう言ったのを優は確かに聞いたのだった。
「できれば本を使いなさい。だれが書いたのかわかる本を」
優は中上先生が嫌いではなかった。
自分が学級委員長になるときの話を思い出すと、やっぱり中上先生はほかの先生とはちがう接し方をしてくる先生だと感じる。
いまから半年ほど前の話になる。優が二年生に進級したときのことだ。どこの学校であっても、どこの学級であっても同じことだが、年度初めには必ず学級内の役職を決める時間が設けられる。
学級委員長、副委員長、書記、会計、生活係、などなど。
そのなかでも圧倒的に人気がないのが学級委員長だ。
案の定、優のクラスでも、黒板に書かれた〝学級委員長〟の文字の下は、その時間が終わるころになっても空白だった。クラス中の皆が自分以外の誰かをきょろきょろと見ては、『だれか手を上げて』と目で訴えかけ続けている。
優はずっと机と黒板を交互に見ていた。
自分が立候補すれば、このいやな時間もすぐに終わるのかもしれない。でも、注目されるのはあまり良い気分ではないのだ。確かに、委員長に立候補した自分に感心したような表情をする子もいるが、彼らの大部分は〝まじめな奴〟という冷やかしを、仕草や視線にこめて、委員長へと投げつけてくる。
優にはその経験があり、だからこそ気乗りしないのだった。他人の善意にも悪意にも人一倍敏感だったからこそ、感じる気持ち悪さだった。
多くの先生はここで、真面目そうな子を適当に名指しで呼び、「○○君、やってみないか」という。こんなことに時間をとっていられないから、誰でもいい、犠牲になってほしい(言葉は違うが)と、そう言うのだ。それで、指名された子が頼まれごとを断りにくい性格をしていれば、そこで委員長は決まり、その子以外がほっと胸をなでおろすのである。
中上先生はその時間の終わりにこう言った。
「うん、無理やり決めるのは良くないね。しかし、決めないわけにもいかない。どうだろう、先生にちょっと提案がある。ひとりひとり先生と話そう。委員長、副委員長が決まるまで、代わりは先生がやるから」
聞いたところによると、中上先生は放課後、クラスの皆をひとりひとり呼び出して五分くらい面談をしたそうだ。その目的は明らかだったが、でも、それだけではないことを、優は直接面談をして知ることになった。
面談は学校の二階、優の学級と同じフロアにある進路指導室で行われた。
ここは一日中ほとんど使われることがないので、中上先生はよく利用するのだという。
「やあ、たしか、黒澤くんだったね」と、先生は手招きしながら言った。
「はい」とだけ言って、優は机をはさんで先生と向かい合って座った。
「委員長を決めるだけなのに、面倒なことをしていると思うかい」
「いいえ」優は首を振って答えた。
「でも、目的は委員長を決めるだけですか」
「うん、君はするどいね。いやね、新学期でしょ。先生もみんなのことをよく知らないし、いい機会だから少し話して、みんなの為人を知っておきたくてね。でないと、なんだか気持ち悪くて。押し付けるだけじゃ意味ないでしょ」
「それは、ぼくもそう思います」優は素直にうなずいた。
「あの時間、ほら、役職を決める時間だけど、君だけは下を向いていたね。みんな、誰かに押し付けようときょろきょろしていたのに、君はそうしなかった。先生の誤解じゃなければ、君は自分が立候補しようとしていたんじゃないのかい?」
「…その通りです」優は小さな驚きをこめて言った。
「どうして」
「先生もおっしゃったように、なんだか気持ち悪くて。あの時間が」
「早く終わらせたいと思った?」
「はい。でも、結局、立候補はしていません。嫌なんです、みんなに注目されるのが。というよりは、委員長というものに対する皆の視線が」
「いままでいやな経験をしてきたんだね」
優は無言でうなずいた。
「でも、君は立候補しようとした。葛藤していたのかな。きっと、君は人の思惑や視線に敏感なんだろう。先生もそんな君に委員長という役職を押し付けたくはない。でも、委員長に対する考え方をちょっと変えてほしいんだ」
「と、言いますと」
「委員長は、確かに学級のリーダーだけど、先生の補佐役でもある。僕はね、変な言い方だが、君ともう少し仲良くなりたい。もちろんね、先生と生徒という立場は前提としてあるわけだけど、授業の準備とか学級経営を通して、君ともう少し話したいんだ」
「でも、それが自分に変な視線を集めることにはなりませんか」
「いや、ひいきをするわけじゃない。ただ、普通の子と比べると先生と話す機会は増えると思うんだ。表面的な関係に変わりはないよ。君が嫌じゃなければ、先生を助けてくれないか。副委員長には君を助けてくれる子になってもらおうと思うし、君を襲う変な視線からもさりげなく守るようにはするから」
「先生ってなんだか変ですね」優は小さく笑った。
「よく言われるよ。でも、押し付けるよりは公平だ。お願い、だからね。無理にとは言わない。でも、決めないわけにもいかない。なかなか難しいんだ」
と言って、先生は黒々とした少し長めの髪を右手で掻いた。
「少し時間をください。前向きに考えてみます」
「ありがとう」
その二日後、優は正式に学級委員長になった。
いろいろと面倒なこともあるだろうが、中上先生なら支えてみたいとも思った。先生は悪意や嘘とほとんど無縁なような気がするし、何より自分をしっかり見て、理解してくれようとしていた。それが素直にうれしかった。いままで、そんな人に出会ったことがなかったのだ。
一月後には、学年四クラスの学級委員長、副委員長が集まって、学年の委員長と副委員長を決めることになったが、優は自分から委員長に立候補した。中上先生が学年主任をしていることが一番の理由だった。学年委員長といっても、行事ごとに仕事があるくらいなので、普段は学級委員長としての仕事をこなさなければならない。
先生のお願いが『迷惑じゃない』といえば嘘になる。委員長をするにあたって、困難や面倒ごとはそれなりにあったからだ。それでも予想の範疇には収まっていた。
例えば、翌月の席替えのためのくじの作成、次の授業で先生が使うプリントの印刷の手伝い、資料の運搬、そのほかにもいろいろと雑務はあり、これらのせいで優の休み時間はクラスの皆の半分くらいにはなっただろう。
クラスで何かを決めるときには必ず前に立たねばならないし、行事などでは「委員長だから」と何かと役を押し付けられることも多い。合唱コンクールでの指揮者なんかはその好例だ。一部の同級生にはからかわれるし、委員長というだけで敵視してくる子もいる。優の年頃ではよくある話だろう。
それでも、優は文句を言わず、それらをこなしていった。よくよく考えるまでもなく文句を言うほどのことではなかったし、中上先生に信頼できるパートナーとして扱われるのは悪い気分ではなかったからだ。
中上先生は言うべきでないことを言わない点で信頼が置けた。
先生は、優が仕事をこなしても「助かったよ、ありがとう」としか言わないが、それが優には心地よかった。「君はできる奴だな」とか「君がいなかったら本当に困るよ」みたいな、半分が砂糖菓子でできている言葉を、中上先生は決して口にしないのだ。
優は、先生から心からのねぎらいの言葉をかけられる度に、どこか救われたような感じを受け、素直に『やって良かった』と思うのだった。
ただ、先生のすべてを信頼しようとは思えなかったし、できなかった。所詮は教師と生徒の関係であり、親友と呼び合える関係では決してなかったからだ。それが残念なようにも、安堵できるようにも、優には思えた。
そんな、他人の感情に敏感であることを自覚している優が、もう一つ自覚していることがある。自分でも嫌になる、ある〝癖〟のことだ。
他人の顔色や言葉から感情を読みとり(あるいは感じとり)、波風の立たないような対応をする癖。これは他人に対し常に良い顔をする行為のことではない。
相手の善意に対しても、悪意に対しても、こころのどこかでそれを冷静に受けとめて、適切に対応する。善意に対しては、ある程度の感謝はするが、それ以上相手との距離を縮めようはしなかったし、悪意に対しても、それが増すことのないように、言葉や行為によって歯止めをかけた。
そうすれば、自分はこころから喜んだり悲しんだりできない代わりに、余計なこころの揺れを感じずに済む。だから、優はいつも周囲と良好な関係を(表面的には)保つことができていた。それで良かった。それ以上は望みえなかった。もちろん原因は優にもあったし、嘘にまみれている周囲にもあった。
優が子どものころ、こんなことがあった。
母親と妹と三人で病院に行ったときのことだ。
医師についていた女性の看護士が、おそらく場を和ませようと、優たち兄妹に「お父さんとお母さん、どっちが好き?」と尋ねたことがあった。こんなとき、間違っても「お父さん」と答えてはならないことを、幼い優はきちんと分かっていた。なぜなら、すぐ隣には母がいて、ふたりを試すような鋭い目つきでこっちを見ていたからだ。
お父さん、と答えたい気持ちはあった。事実、優が十歳をこえるくらいまで、母親は勉強や生活の面でしつけが厳しく、反対に、温和な父は、そういうことをうるさく言ってこなかったのだ。
妹は「お父さん」と言ってしまった。
優は「どっちも好き」と答えた。
すると、優が予想した通りのことが帰り道でおこった。母親が妹を叱りつけたのだ。
「咲、どうしてあんなこと言ったの!」
「だって、だって!」
優よりもさらに幼かった咲はそれ以上何も言えず、母親の怒声に、しばらく、大きな泣声とわめき声で応えていた。そんな彼女をかわいそうだとは思いながらも、どこかばかにしたような目で見てしまったのを、優はいまでもよく憶えている。そして、そんな優を両親は「育てるのに困らなかった」と褒めることが多かった。ほんとうは妹の方がこころのままに親に向き合っているのに。
その後も、素直な咲と怒りっぽいところがある母親は何かと対立している。
優は咲に対し『もっと考えて話せば良いのに』と思う反面、どこかうらやましさを感じるのだった。
『ぼくにはあんなに怒ったりできる相手がいない』
自分がどうしてこんな癖を持つようになったか、それはわからない。
気が付いたときには、そういう風に他人に対して透明なバリアを張るようになっていたのだった。
『もしかしたら、生まれつきそうなのかもしれない。だとすれば、ぼくのこころはきっとまっ黒なんだろう』
それでも、どうしようもないのだった。親に対してさえそうなのだから。
中上先生だって〝他人〟のひとりには違いない。けれども、
『ぼくが人から距離を置く癖を持っていることを分かった上で、中上先生は優しく微笑んでくれている』
優にはそんな気がするのだった。
だから、別にまじめだとかそういうのではなく、優は課題に真剣に取り組もうと決めたのだった。いま優は、図書委員以外は誰もいない図書館で本を探している。
『できるだけ、そう、まじめそうな本がいい』
まじめそうな本というのは、優にとって情報量の多い、なるだけ詳細に書かれた本のことを指す。学校の図書館も、ほかの図書館と同じように歴史、科学、生物などの分野の本が分類されて並べられている。優は生物の棚のところに行き、ある動物の本を探していた。
オオカミ。
世界中のおとぎ話や童話のなかで悪役として描かれることの多い、あのオオカミだ。するどく尖った爪や牙を持ち、残忍で、狡猾で、人間でさえも食い殺してしまう恐ろしい生きもの。それが一般的な印象だろう。
ところが、優はオオカミに対して悪い印象を抱いたことがない。小学校低学年のころに読んだ、ある本のおかげだった。
本の名を『シートン動物記』という。
なかでも、オオカミ王ロボについての物語を、優は好んで読んでいた。ロボというのは、一九世紀の末、アメリカのコランポー平原に君臨していた、強大な老オオカミのことだ。当時、家畜を次々と襲うオオカミの小集団があり、ロボはそのリーダーであった。人間たちはロボとその一味を捕らえようと骨を折ったが、ロボはその悪魔的な知性で、罠や追撃をことごとくかわし、至るところで家畜をむさぼり続けたのだ。
そんなロボも、本の最後では、妻ブランカへの愛情から知性が曇り、シートンによって捕らえられてしまう。捕らえられた後も、ロボは誇りを保ち続け、妻を殺した人間たちにこころを許すことは決してなかった。そして、与えられた食事にも手を付けぬままに死んでしまうのである。
優はロボが好きだった。これだけははっきりと言えた。
もちろん、人間からすれば恐ろしい存在でしかなかっただろう。が、ロボの持つ強さが優にはうらやましかった。生まれ持った強靭な肉体、研ぎすまされた知性、そして、妻に対する深い愛情。自分の持つものだけに頼って、平原をたくましく生き抜いたロボは、テレビで見る戦隊ヒーローやアイドルなんかよりはるかに格好良かった。
優のヒーローは一匹のハイイロオオカミだった。
『どうしてロボはあんなにも気高いのだろう』
そう思って、オオカミをテーマとして選んだ。
優の周りの大人は、動物よりも人間のほうが知性に優れているとか、そんなことをよく口にする。
だが、人間の下に見られがちな動物たちのほうが、実は、己のままに気高く生きられているのではないかと、優はロボの物語を読むたびに感じる。少なくとも、優の周りにそんな人間はいない。太陽に向かって伸びていく向日葵のように、光に向かう強さを内に持っている人間はほんとうに少ないのだ。
だから皆、自分そのものではなく、自分にくっついているものを誇示しようとする。
それは決して自分ではないのに。
「なにを読んだらいいんだろう」
生物と科学の棚の間を歩きながら、優は小さな声でつぶやいた。
書架を右上から左下まで順番にながめていると、一番右下に、水色の古ぼけた本が控えめにたたずんでいるのが見えた。気になって近づいていくと、本の背表紙には『狼』と書かれていた。ほかにも文字は書かれていたが〝オオカミ〟に頭を支配されていた優のひとみには映らなかった。
「あっ」と、優は小さく叫んだ。
そして、図書室の静かな空気を壊してしまわないよう、こころのなかで『見つけた!』と大きく喜んだ。
それから、その本を慎重に書架から抜くと、早足で図書室にある一番小さな机の方へ向かい、そこにあった四つの椅子のうちの一つに静かに腰かけたのだった。
さっそく持ってきた本を開くと、
「うわっ」と、優の口からうめき声がもれ出た。
なんて小さな文字なんだろう。
本を読むのが好きな優であっても読みにくさを感じるほど、その本の文字は小さく、おまけに二段組みになっていた。文字も教科書の三分の一ほどには小さく、ページのほとんどをアリのように埋めつくしている。しかも、優にとっての難読漢字も多く、一ページを繰るにも時間がかかりそうな気がした。
『ほかの本に変えようか。でも、まじめそうな本だし』
とりあえず読んでみようと、優は決意した。
よく分からなかったら、そのときにまた考えれば良い。
最初の数ページには、イヌとオオカミの写真がいくつか並んでいた。それからすぐに、まえがきにたどり着く。
『私は、生きものを研究するには、その生きている状態をそのまま観察するのが本当だと思う。』
うん、と優はなんの根拠もなく納得した。文章はこう続く。
『それには、何んといっても、いっしょにくらすのが第一である。また、いっしょにくらすといっても、彼らをわれわれの生活に順応させるのではなく、むしろ、こちらから彼らの方に接近し、その仲間になるのが望ましい』
『仲間だって!』
優はこの部分を読んで、ただ驚いた。
あの、ロボみたいなオオカミと仲間になることができるの? 本当に?
そんなことを考える人が書いた本なら、多少難しくても読んでみたいと思った。
『先生が本にこだわっていたのは、きちんと書かれた本には、こうやって、書いた人の人格が映しだされるからなのかな。もしそうなら、読書は文字を読むだけじゃなくて、人と話すことでもあるのかな』
人付き合いが苦手というわけではないが、人付き合いをしていても、どこか常に孤独を感じている優はそんなことを考えるのだった。
放課後といっても、図書館が開いている時間には限りがある。
結局、難しい漢字や言葉たちに行く手をはばまれ、その日はあまり読み進めることができなかった。
こうなったら家に帰って読むしかない。
優は本を閉じ、それを図書委員の女の子のところへと持っていって貸出の手続きをした。本を受け取るときに、優は軽く頭を下げながら「ありがとう」と小声で言った。女の子は「はい」とだけ言った。それから、かばんに本をしまい、急ぎ足で図書室から出ようとしたとき、女の子が自分のことをどことなく冷たい目で見ていたのに優は気が付いた。
けれど、何もしなかった。
『もっと愛想よくすればよかったのかもしれない』と、思うだけだった。
でも、きっと世の中にはこんな冷めた人間関係の方が多いだろう。
優は友だちといっしょに学校から帰ったことがほとんどない。
友だちはいる。仲も悪くない。でも、それだけだった。
朝、学校に来て、夕方、学校から帰る。その間だけつづく友人関係はたくさんあった。けれども、学校を出てから日暮れまで遊ぶ友だちはいなかった。親友だとか、竹馬の友だとか、そんな言葉にはまったく縁がなかった。それで良かった。親友と呼べるほどの友だちがいないことを気に病むほど、友だちというものを重要視していたわけではなかったからだ。それでも、同志はほしいと願っていた。馴れ合いではなく、共に自分を高めていけるような同志がほしかった。
あれこれ考え、うつむきながら、優はいつの間にか広大な田園のなかを通る幅の広い通学路を歩いていた。そんな優の横顔を、熱く、まぶしい夕日の光が「こっちを見ろ」とでも言うように強く照りつけてくる。
優は左手を目の前にかざしながら、夕日の方を見た。
そこには、色濃い赤に染まった田園風景がどこまでも広がっていた。
どこまでも、どこまでも広がる真っ赤な大地。終わりなどない気がした。
ただ、美しかった。
光の具合、優しい風の吹き方、水と土の匂い、それに赤と緑が混ざり合った大地の色。優は立ち止まって、自分が立っている大地を見すえ、その瞬間の空気を呼吸した。
自然は無条件に好きになれた。どの部分が好きだとかはいちいち言えるけれども、結局は自然全体が好きなのだった。自然の美は、そのままこころに入りこんでくる美しさだった。だからこそ、それをそのまま絵に写そうとする、写すことのできる、画家と呼ばれる人たちは、ロボに次いで好きだった。画家の名前などは分からないが、画家という存在に優は惹かれた。できることなら自分がなってみたいとも思った。
でも、できなかった。どんなにやっても、うまく描けないのだ。
できないことは無数にある。生きていると、たくさんの〝できないこと〟を突きつけられる。それは苦しいことだった。自分のできること、なすべきことが分からない限り、それは続くのだ。
「どうしたらいいんだろう。ロボのように生きるには」
夕日から目をそらし、ふたたび道路に視線を移す。
道路の端、田んぼのすぐそばに細い水路があった。優は近づいていき、しゃがんで、水の流れをながめた。水の流れを見ていると、すべての苦しみが流されていくように感じる。川や海を見ていてもそうだ。水というものは、その色、音、手ざわり、温度、すべてが優にとってはふしぎで優しいものだった。
優はそばに生えていたヨモギの葉を二枚ちぎり、一枚は右手の指でもみ、一枚はそのまま水路に浮かべた。そして、ヨモギの葉の独特の香りを楽しみながら、水路を流れる小さな深緑色のふねを早足で追った。途中で、同じように生えていたにらの葉を一枚ちぎり、ヨモギと同じところに浮かべて競争させたりもした。
葉を夢中で追いかけるうち、ついに水路にも終わりがきて、住宅地へと続く、きれいに舗装された無機質な道路が、代わりに広がりはじめた。優の家はここから東に進んだところに伸びている大通りに面した、とあるアパートの一室だ。
「帰ろう。お母さんとの約束もあるし」
この広大な田園のなかで、優はしばらくひとりだった。
けれども、住宅地に入ったところで、その孤独は壊されてしまった。前方から、戯れあいながら向かってくる同年代くらいの少年の集団があったのだ。かれらとは別に面識があるわけではないので、優は無言ですれ違ったが、彼らを見て奇妙な感じを覚えた。
自分は多くの時間をひとりで過ごしている。
彼らはなぜ、友だちといつも一緒にいなくてはならないのだろう、と。
もちろん、羨ましいがゆえの僻みではないし、寂しいわけでもない。事実、優自身、彼らのような子たちとなじめないわけではないのだ。仲よくしようと思えばできるし、学校では、休み時間に遊んだりもする。
ただ、それがどこまで自分の本心と一致しているかを考えると、どうしても違和感を覚えざるをえない。少なくとも、必死になるほど、優は友だちを求めてはいないし、友だちを作ることにも興味がなかった。
それでも、学校ではほとんど無事に過ごすことができている。
学校という箱の中には、必ずと言ってよいほど〝いじめ〟という名の悪魔が現れる。優はこんな感じだから、その悪魔とは全くではないけれど無縁でいられている。でも、いじめられていたり、なんとなく白い目で見られる子がいるのは事実で、優は、彼らと彼らを傷つけるものに対して、委員長らしい正義感を振りかざすことはせず、できるだけ見ないようにして、距離をとっていた。もちろん、あまりに教室が騒がしくなる場合はその限りではなかったが。
思うのは、どうしてそんなにも他人を攻撃することに必死になれるのかということだけで、ほとんど無関心といってもよかった。
それらのすべてが見たくないものだった。
見たくないものにわざわざ変な興味を示して関わるのには耐えられなかったし、面白がるなんて、なおさらありえない話だった。そんなことをするくらいなら、はじめから見ない方がよかった。ゆえに仮に自分がいじめられたらどうするだろうか、という問いも出てこなかった。
自分のことを見つめずに、他人の欠点や短所ばかりを映すひとみ。
それは決して美しい瞳ではない、と思う。
優はほんとうの自分を映すひとみがほしかった。
見るべきものを見るひとみがほしかった。
それがあれば、きっと、他の人がどうだとか、あの人にはあんな欠点があるだとか、そんなことを考えの中心にせずに済むのだ。
「中上先生やロボはどんなひとみを持っているんだろう」
優はそんなことを考えながら、家に帰って行った。