あいが欲しい/空亡
「あいが欲しい」
そう呟いた私の左肩を、彼の逞しい左腕が抱いた。
包み込むような温かさに私は若干の寂しさを感じながら、並んだ彼の肩に体重を預ける。
「良いよ。君になら何でもあげるよ」
強くて、優しくて、包容力があって、生きていく力も人一倍持っている彼。
「命懸けで私にあいをくれる?」
「もちろんだよ。君の為ならなんだって出来る」
私のする意地の悪い質問にも、眩しい笑顔で応えてくれる。
素晴らしい人。
誰にでも自慢したい、そんな私の婚約者。
だけど、大学の同級生達は彼の職業を聞くと、皆が口を揃えて「不安じゃない?」と聞いてくる。
不安がないと言えば嘘になる。
警察官というのは、一般人とは比べ物にならないくらい精神も肉体も強い。
でも……どんな人だって不意を突かれたら、何が起こるかなんて分からない。
「昔の事を思い出したわ」
「…………あの時の事かい?」
夕焼けの綺麗な公園。
小さなベンチに腰掛けた私達は色々な話をする。
その中でも、二人が意識して避けていた話題がある。それが“あの時”の話だ。
あれは一昨年の事だった。
ある日。
何の前触れもなく。
私の家族が惨殺されたのだ。
包丁で滅多刺しにされた死体が横たわる惨劇の現場で、一人呆然と佇む私の所へ彼が駆けつけたのが二人の馴れ初め。それ以降、彼は私の傍に居てくれた。
このベンチでする他愛のない会話も、リハビリの一環なのである。
事件から二年が経過し、住む場所が変わった今でも……私の心に完全な平穏は訪れない。
それもそのはず、だって事件は未だ解決を迎えていないのだから。
犯人は……今も生き続けているのだから。
容疑者として挙がった人物はいた。
事件当時、私をストーキングしてた不審な男だ。気味の悪い手紙や、気味が悪い電話があったのも一度や二度ではない。もちろん警察の人達が捜査してくれたけど、証拠不十分という事で逮捕はされなかった。
「大丈夫。住む場所も変わったし、もう二年も何も起こってないんだ。それに何があっても僕が君を守るから。安心して良いよ」
「…………ありがとう」
不安な顔をする私の気持ちを察したのか、彼が優しい言葉を掛けてくれる。
彼ならきっと――――私はそんな思いを巡らせながら、口元を綻ばせた。
そんな二人の会話から一ヶ月が経過したある日のこと。
夕刻に仕事を終え、彼と同棲するマンションに帰宅した直後。
私の瞳に明らかな異変が飛び込んできた。
「……なに…………これ?」
玄関に飾ってあった絵画も、靴箱の上にあった花瓶も、初めて見た人には原型が想像出来ないぐらい無茶苦茶に壊されている。その事で頭が真っ白になった私は、不用心にもリビングにまで足を運んでしまう。
「……酷い」
リビングの惨状は玄関の比ではない。
テレビは画面に大きなヒビを晒し、食器は皿なのかコップなのか? 見分けも付かないほどに粉々になっている。椅子は横倒しになり、テーブルに置いてあった物は全て床へとばら撒かれていた。まるでこの部屋にだけ大地震でも来たかのようだ。
「で……電話しないと……!」
そこで初めて私は肩に掛けていたバッグに手を伸ばし、携帯電話を取り出した。
震える指で操作する画面に浮かび上がったのは、もちろん彼の携帯電話の番号だ。
「お願い!」
私の切迫した願いは届いたらしく、電話の向こうからは「何か用事かい?」といった何も知らない彼の声が聞こえて来る。安堵したのも束の間、私は早口で現在の状況を伝えた。
「今帰宅したところなんだけど、部屋が荒らされているの! お願い帰って来て!」
「何だって!? 誰がそんなこと……いや! それよりも君は今ソコにいるのかい!? 急いでその場を離れるんだ! 犯人がまだ近くにいるかも知れない!!」
「……え?」
何故そんな簡単な事に気が付かなかったのだろう?
私は背後より伝わる何かの気配を感じ取り、ゆっくりとした動きで後ろを振り返った。
「やぁ。こんばんは。どうして僕から逃げたの?」
そこに居たのは無精髭を生やし、血走った目をした若い男。
全く見覚えがない人だけど、その声には覚えがある。間違いなく、二年前私に執拗なストーキングをしてきていた、あの男の声だ。
「い、いや……!!」
後退りした私の右手から、携帯電話がスルリと落ちて床で跳ねた。
男はそれを見て、血走った目を更に充血させる。
「あいつに電話を掛けたんだな!! ゆ、許さないぞ!!」
「きゃあ!?」
私は男に髪を捕まれ、床へと勢いを付けて引き倒された。
「ほ、本当だったら……二年前のあの後に、僕が君に声を掛けて、僕が君の隣に並んでいたハズなのに!! このテレビだって! このカーテンだって! この食器だって! 全部僕の物になっていたハズなのに!!」
支離滅裂な事を叫びながら、男は床に倒れた私に目もくれず暴れ狂う。
頭がオカシイとしか思えない。私は這うように男から離れ、玄関を目指す。
「まってまって。逃がさないよ? 君は僕の物なんだから」
だが男は多少の冷静さを持っていたらしい。
変な体勢からグルリと顔をこちらへ向け、醜悪な笑みを浮かべながら私の正面へと回り込む。これでは玄関には近付けない。
「こ、来ないで……」
消え入りそうな声を喉奥から絞り出し、尻餅をついた状態で私はズリズリと後退る。そんな私の様子を、男はさも愉快そうに笑っていた。
「……あっ」
そんな時、私の右手に何かが触れる。
それは先程携帯電話を抜き出した仕事用のバッグだ。
「そ、そうだ!」
私は思い出した。
バッグの中に、まだ“携帯”している物が残っていたことを。
「んん~? 何をやってるのぉ? 僕にも見せてぇ?」
「いいわ! 良く見なさい!!」
気持ち悪い顔を近付けて来る男の顔へと向けて、私は力いっぱい“ソレ”を噴射した。
「があああぁぁ!!!???」
大きく開いた目に護身用催涙スプレーの噴射を浴びた男は、獣のような雄叫びを上げて両手で顔を覆う。私はその隙に立ち上がり、別の部屋へと飛び込んだ。そこは、この家で唯一鍵が掛けられる私の部屋だ。
「はぁ……はぁ……」
部屋に鍵を掛けた後で、私は窓から外を見る。
「……ダメね」
マンションの五階にあるこの一室。
窓から逃げる可能性も考えて見たけど、暗くなって来たこの時間帯に窓から身を乗り出すなど、自殺行為に他ならない。私は窓からの逃亡を諦め、クローゼットへと身を隠した。
程無くして、大きな音と共に私の部屋の扉が壊れる。
そこから体を覗かせたのはあの男。ギラギラとした瞳を動かしながら、部屋の中を見渡している。
「ここかい?」
男はベッドの下や机の下など、人が隠れられそうな所を順に巡っていく。
クローゼットの隙間からその様子を覗いていた私は、男が右手に持っていた物に少なくない衝撃を受けた。
『拳銃だ』
私は両手で口を押さえながら、男が立ち去る事を切実に願った。
しかし、世の中はそれほど甘くはなかったみたい。
「ここだね?」
気味が悪い声と共に、男は私の方を見る。
そしてゆっくりとクローゼットに近付き、その扉に手を掛ける。
私は口を押さえていた両手を、今度は胸の前で組み。
目をギュッと閉じて神へと祈りを捧げた。
するとどうだろう?
「無事か!?」
そんな男らしい声と共に、制服姿の彼が現れたではないか!
電話をした時、この付近を巡回中だったのかも知れない。
いきなり登場する警官に目を白黒させるストーカー。
男の右手に握られている拳銃を見て、彼の目の色を変える。そして始まったのは、二人の男の取っ組み合いだ。
「ぅらぁ!!」
男が奇声を上げるが同時、その右手の拳銃から乾いた音と共に弾丸が発射される。それを紙一重で躱した彼は、激しくストーカーに飛び掛かった。揉み合いになる二人。
クローゼットの中でどうする事も出来ない私は、ずっと神に祈りを捧げている。
そして遂に――――決着の時はやってきた。
「ぐあっ!!」
どちらのとも言えない苦悶の声が聞こえた事で、私は顔を上げて二人の状況を確認した。そこで私が見たのは、男の腕で首を絞められている彼の姿だった。
何故男は銃を使うのではなく、そんな手段を取ったのか?
私の咄嗟に浮かんだ疑問は、部屋を見渡す事で直ぐに解決出来た。部屋の中央付近。散乱した部屋の物に混じり、男の持っていた拳銃が落ちていたからである。
彼は男から銃を弾き飛ばす事には成功したが、その直後に背後から首を絞められ、現在の状況になったらしい。ならば私がやる事は一つしかない。目まぐるしく動いた脳が出した結論により、私はクローゼットから飛び出した。
「動かないで!」
私の叫び声に、男だけでなく彼も驚いた目でこちらへと視線を向ける。
二人は私の手に持った拳銃を見て、更に驚きに目を見開いた。
「こ、こいつがどうなっても良いのか?」
「ぐっ!?」
ストーカーは醜悪な笑みを浮かべながら、彼の首を強く締め上げる。
苦しそうな呻き声を出す彼の瞳が「逃げろ」と告げている事を知りながら、私は拳銃の撃鉄を起こした。
息も止まるような静寂が周りを飲み込んだ時。
私の心臓は破裂しそうなぐらいの鼓動を刻んだ。
『私なら出来る』何処から来るのか分からない自信と共に――――
――――私は銃の引き金を引いた。
「あぐっ!?」
爆竹のような音が響いた後に、男が胸から血を流して床へと倒れ込む。
そして驚きと苦悶の表情を浮かべ、やがて絶命した。
「な、なんで?」
狼狽しそんな声を出すのは、事切れた“彼”の死体を見下ろすストーカーだ。
驚愕で隙だらけになった男に向けて、私は再び発砲する。
「ギャッ!?」
心臓に銃弾を浴びた男は、馬鹿みたいな悲鳴を上げて呆気無く死亡した。
二つの死体が存在する惨劇の現場で、私はただ呆然と佇む事しか出来ないでいる。あれだけ騒いだのだ、誰かが通報したのだろう。遠くから聞こえて来るパトカーのサイレンの音が、何処か懐かしかった。
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「ストーカーと揉み合いになり。男の持っていた銃が暴発。警官に当たった事に驚いた男が銃を落とし、それを拾った貴女に男が飛び掛かる。気が付いたら男も死んでいた……と?」
「…………はい」
今私は取り調べを受けている。
担当しているのは、私と年齢もそう変わらない若い刑事だ。
「無理だとは思いますが、気を落とさないで下さい。貴女は何も悪くない」
「…………はい」
両腕を抱いて体を震わせた私に、刑事は同情の視線を送る。
そんな視線を感じる中で、顔を伏せた私は心の中で神に語りかけた。
――――神様。
また一昨年と同様な惨劇が起きてしまいました。
あなたは…………
なんて
なんて
なんて素晴らしいのかしら。
これで私はあの時と同じように、また皆から同情して貰える。
誰にでも自慢出来る素晴らしい彼を、悲劇的に失った私を慈しんで貰える。哀れんで貰える。チヤホヤして貰える。
私は同情に恋してる。
でもまだまだ足りない。もっともっと“あい”が足りない。
「相談したい事があるので、連絡先を教えて頂いても構いませんか?」
「え? ええ! も、もちろん!!」
顔を紅潮させた若い刑事さんは、急いでメモに電話番号を記入する。
刑事さんの方が、巡査よりも危険に及ぶ回数は多そうね?
私はそんな事を考えながら、これから来るであろう皆からの同情メールに思いを馳せた。
綻んだ表情を刑事に見られないように俯いて、
私はぽつりと呟いた。
「哀が欲しい」