空模様/羽田井 羊
天蓋を覆う灰色の雲。
横殴りの雨は傘をさしていても全てを防ぐことはできず、彼の制服に黒い染みを作る。踏み出した足元の水たまりと煙草の吸い殻が同時に跳ねた。
泥水を跳ね飛ばしながら、彼は雨の町を行く。向かい風が傘を持ち上げて、途端に彼の顔はびしょ濡れになる。
その頬を伝うのは雨水か、それとも何か。彼以外には分からないし、知る術もない。
「ああ、そうだよ。結局のところ。僕の恋は始まる前に終わっていたのさ」
そう彼は呟いた。
時間は遡れない。
例え遡ったとしても、過去に戻れたとしても、それで何が変わるというわけでもない。変えられるという保証もない。上手くいく必然性なんてものはもちろん、存在しないのだ。
それは彼自身よく理解している。それでも思い返す。どれか一つ、歯車がズレていたら。ボタンを掛け違えていたら。意味の無い仮定。脳内に踊るif。
「なんか、英語の授業でやったなこんなの。仮定法、だっけ?」
教師の説明を聞いてもピンとこなかった文法。実際に使うことなんかあるのかと思ったが、なんとまあこんな身近に使用例があろうとは。……おどけるのもキツい。
少年は自分で自分の心の傷をえぐる。
それはそれは、16歳の少年の、初めてと言っても良い恋物語。泡沫の夢となって消えた、はかなく切ない初恋の記憶。
◆◇◆
始まる前の最初は春。
鮮やかな桜が咲き誇り、新しい出会いに胸が高鳴る季節。彼はとある町の、とある高校の一年生となった。そこは偏差値中の上くらいの進学校で、彼も中の上くらいの平凡な高校生だった。
普通の入学式、普通の教師、普通の同級生。何もかもがありふれた、そんな学校生活でも、彼は楽しみにしていた。そんな彼はいわゆる『普通』だった。
そんな普通の彼が、高校生活初日に一目惚れをしてしまったのも普通のことと断言できるかは、また微妙なところ。
きっかけは簡単で。
初めてだらけのクラスで、ただ隣の席に座った女子生徒が笑いかけてくれた。
それだけ。たった一動作で彼の高校一年生としての生活は一変したのだから、単純だ。
それからの彼は、学校へ行くことが楽しみになった。いつもより少しだけ早く起きれれば、彼女と通学時間が同じになる。
偶然を装って挨拶を交わすために、彼は早寝早起きを心がけた。
「おはよう」
その言葉を言うだけで、彼はどれほど心臓が震えたことか。寿命数年分は消費しているに違い無い。
授業中、教師の話は頭に入ってこない。すぐ隣を盗み見て、彼女の細かい仕草に見惚れていた。
彼女は、話を聞いているときにシャーペンを回す。
回して、けれどその手では小さすぎて取り落とすまでがワンセット。
彼女は、ノートをとるときに前髪を邪魔そうに払う。
最初の数日が過ぎると、前もってヘアピンで止めるようになっていた。
昼、彼女は友達と一緒に弁当を食べる。小さな箱に詰められていたのは、彼女の手作り。
その会話を聞きながら、彼は隣で学食のパンを食べていた。
午後の授業、彼女は机に突っ伏して寝てしまう。その幸せそうな寝顔を見れるのも、隣の席の彼だけの特権だ。
教師に当てられてからビクッと体を震わせ飛び起き、よだれを拭いて辺りを見回す彼女に、こっそりと答えを教えてあげるのも彼の役目だった。
そんな毎日を送る彼が、彼女にさらに惹かれていくのは当然のこと。その思いを打ち明けようと決心するのにそれほど時間はかからない。
この思いをどう伝えるか、彼は悩む。悩みに悩み抜き、結果として彼が選んだのは手紙による呼び出しだった。
——放課後、この教室で。
そのシンプルな一文を書くのに半日の時間と数え切れない枚数の紙とシャープペンの芯を消費し、誰も見ていないことを確認した彼は彼女の机の中へとそれを投入した。
その後は、なるべく彼女の方を見ないように努力した。
放課後が訪れるまで、後何時間か。
彼は始終そわそわして時計を気にしていたので、いつもに増して授業に身が入らなかった。
おかげで何度か教師に注意を受けてクラスの皆に笑われた。
ホームルームが終わった後、彼は教室で待ち続けた。
誰もいなくなった教室に夕日が差し込み、時計の針は動き続ける。
ときおり響く足音に顔を上げるも、それは別の場所から聞こえてくるものだった。
帰宅を促すチャイムが鳴ったその時、彼女は現れた。
部活後であることが分かる汗を吸った体操着姿で髪を一つにまとめた彼女は、彼の存在を認めると驚いたようだった。
「あー、**君」
彼は震える手を押さえつけ、乾いた口内を湿らせようと喉が上下した。
緊張で体が自分のものでないように感じる。それでも勇気を出して思いを伝えようと口を開こうとした。だが。
「こんな遅くまでどうしたの? もしかして勉強の邪魔しちゃったかな」
「え……?」
伝えようとした言葉はどこかへ飛んで行った。
それよりも今の彼女の発言が不可思議だった。彼女は彼の手紙を見てここに来たのではないのか?
まさか、まさかという思いが彼の頭を駆け巡る。
「あ、私? 私はね、忘れ物を取りに来たんだー」
鼻歌を歌いながら彼女は机のそばにかけてある鞄を手に取った。それを彼は眺めることしかできない。
混乱しながらどうにか口にしたのは、現状から逃避するだけの問いだった。
「う、嬉しそうだね。良いことでもあったの?」
「あ、それを聞いちゃうかー。なになに、教えて欲しい?」
それが、彼自身を追い詰めるトドメの一言になるとも知らず。彼女は笑顔で答えた。
「私ねー、今日告白されたんだー!」
「……っ!」
「部活の先輩でね、ずっと憧れだったの。そうしたら先輩から言ってきてくれて。今日から一緒に帰るんだー」
「……そうなんだ。じゃあ早く行ってあげなよ。多分待ってるよ」
「うん! それじゃあまたねー**君」
彼女は手を振って教室から出て行く。
残された彼は身じろぎもせず、ただ間抜けに突っ立っていた。
ふと視線を下げると、踏みつけられた足跡がついた紙クズが、掃除の行き届いていない床に落ちていた。
それを拾い上げ、シワを伸ばして広げれば確かに彼の筆跡が目に取れた。
内容を一瞥した彼は、その紙を半分にちぎり、それを重ねてまた半分にしてを繰り返し、文字が読めなくなるまでそうしていた。
◇◆◇
交差点で信号が変わるのを待つ人々の中に紛れて目の前を横切る自動車を目で追いかける。
雨はいつの間にか止んでいて、道行く人々は傘を畳んでいた。
顔を上げた彼は空に虹を見た。
陽光に目が眩み、手で影を作る。それでもなお、輝き色褪せない七色の光の架け橋はそこにある。
信号は停止の赤から前進の緑に変わる。人混みが動き出す。
後悔しても仕方のないこと。自虐的になるのはお終い。後は彼女の幸せを祈ろうと思った。
前を向いて一歩踏み出す。
彼は、その彼はすぐに町の雑踏の中に溶けて見えなくなった。