砕け散った夢/ソフィア・ライオンハート
いつぶりだろうか。誰かに怒りを覚えたのは。
僕は基本的に怒らない。怒るのは自分を庇うためだから。怒っても所詮他人は他人、結局何の意味のないから。
そして、無駄な争いを避けたいから。
だから僕は怒らない。極力全部許すようにしている。許せないことでも、ナハハと笑って諭すようにしている。
『彼女』に叱られて怒るのを辞めてから、随分と過ごしやすくなったんだ。周囲と争うこともなくなったから。『彼女』が泣くことも少なくなったから。
だから僕は怒らない。『彼女』のため、そして僕のため。
けれど、今、僕は怒っている。僕を窘める人は、『彼女』はもう、どこにも居ない。
僕は基本怒らない。
どんな場合も、それは同じだ。
でも。それでも。
許せない。
許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない!!
僕の愛する『彼女』を『壊した』、あいつだけは絶対に許さない!!
*****
中学二年生の頃、僕は短気だった。その上喧嘩っ早かった。
ある日の話だ。中学三年生の、柔道部の主将が僕と、廊下でぶつかった。その時、僕は苛ついて舌打ちをした。
すると、その先輩は振り向いて言ったんだ。
「下級生が何上級生相手に舌打ちしてんだ? ナメてんのかテメェ!」
そうさ、正解。ナメていたさ。
そのセリフを聞いて僕は少し俯き、口角を上げた。
――ああ、喧嘩ができる。そう思ってね。
そしてついでに、そのまま相手を見てみた。上目遣い、って言ったら聞こえが良いのかもしれないけれど、正しくは三白眼だよね。
相手は僕の生意気な態度に怒りを覚えたんだろう、華奢な僕に近づいて、胸ぐらを掴もうとした。
その時のことだった。
一瞬の出来事だったけど、あまりに印象的だったからよく覚えている。
目の前で、先輩が宙返りしたんだ。綺麗に、クルンって。そして着地ミスでクラッシュ。
……いやいや、そうじゃない。宙返りさせられた。あのデブにそんな曲芸できるわけがないから。
少し視線を下にずらすと、そこには、艶がかった黒の長髪を後ろ上で1つに束ねる、藍色のリボンが揺れていた。
しばらく状況を飲み込めないで突っ立っていると、『彼女』は溜息を吐いて、こっちを向いた。
「大丈夫?」
黒茶の澄んだ美しい瞳に見つめられたら、同意しかできないじゃんか。そんなことを思いながら、僕は首を縦に振った。
「そう、良かった……あとね」
そう言った『彼女』は僕のすぐ目の前まで歩いて来た。『彼女』は小柄で、だいたい僕の胸くらいに頭がある……のだけれど、威圧感が半端じゃなかった。
『彼女』は僕の目を下から指差して、眉を少し吊り上げて言った。
「喧嘩ふっかけるの辞めよう!」
これは本当に驚いた。喧嘩を僕が仕掛けたことが、相手以外の人にバレていたなんて。
にも拘わらず、怒ることなく叱るだけだなんて。
……オカンかと思った。
でも、僕はそれに惹かれた。
「じゃ、喧嘩の仲裁? は終わったし、私は戻るね〜」
そう言って僕の左側を通って行った『彼女』に、僕は振り向いて言った。
「すみません! 名前、教えてもらって良いでしょうか!」
『彼女』はその声に振リ返って、優しく笑んだ。まるで、春に咲く桜みたいな、でも真夏に陽を仰ぐ太陽みたいな笑顔だった。
「2年B組、蒼井陽奈。A組の東雲颯人くん、君の隣のクラス生徒の風紀委員よ」
そして彼女はまた向こうを向いて、百合の花のように歩き出した。
……立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿はなんとやら。
その時点でもう、僕は『彼女』が――陽奈が好きだった。
いや、それよりもまず、同い年で隣のクラスだったなんてね……なんで気づかなかったんだろう。
*****
程なくして、僕達は付き合うことになった。
ちなみに逆プロポーズされた。僕が危なっかしくて見てられないから、陽奈が近くに居たいんだってさ。
リア充だとか何だとか言う人も居るかもしれないけれど、そんな甘いもんじゃなかった。
料理ができないから僕が弁当を二人分作ることになってたし。僕は母子家庭なのに。
朝起きてからリビングに行ったら、なんか陽奈がご飯待ってたし。三人分作れってことなんだろう。いや母さんも上げないでほしかった。
なのにオカン。忘れ物がないか、とか、その日の時間割だとかを確認させられた。それも学校のある日は毎朝。
陽奈は、家事はできないけれど、恋人という名の、『放任主義な』実の母よりも母らしい人だった。
*****
そんなこんなで一年が経って、中学三年生――今年の春。
同じクラスになった陽奈は、学級委員長になった。そして風紀副委員長だって。
僕はしがないただのクラスメイト。ちなみに美術部副部長。
釣り合わないなぁ……と思うけれども、恋人として対等で居たかった。
この頃、陽奈はとある人――同級の女子と関わることが多くなった。
その女子はいつも独りで、都合が悪くなったら階段から飛び降りようとするような人だった。
飛び降りるつもりが更々ないのは見ててすぐわかった。
けれども陽奈はお人好しすぎる性格だから、積極的にその女子に関わって行った。
「陽奈。あまり深入りしないようにね」
あまりに心配だから、陽奈がその女子の所に行く際には、僕はいつもそう言っていた。
陽奈は笑いながら、「わかってるよ、この心配性め」と、いつも返して来た。
それからしばらくが経った頃だ。陽奈の顔色が明らかに悪くなったのは。理由はどう考えても精神疲労。原因は――言うまでもない。
自分だけが痛い。自分だけが苦しい。そして人の痛みを知ろうとしない。悲劇のヒロイン気取りとしか思えないんだが、陽奈はその上で、心配し、話をし、同情していた。
精神を蝕まれていく恋人を見て、胸が痛まない男がどこに居るのだろうか。
心配で心配でたまらなかったから、ある日僕は陽奈を家に呼んで、少し話をした。いいや、僕の想いを伝えた。
「これ以上深く関わることはやめなよ! このままだと、食われてしまう!」
それに対して陽奈は笑って言った。
「彼女は、一人になると死のうとする。だから私が傍に居なくちゃ」
――わかっていなかったんだ。
僕は必死に訴えた。けれども陽奈は首を縦に振らなかった。
その日はそのまま終わってしまった。
*****
夏が来て、秋が来て10月5日。病気知らずで休み知らずの陽奈が、学校を休んだ。
先生に訊いたら朝、連絡が学校に来なかったって言っていた。それに僕は嫌な予感がして、そのまま陽奈の家にすっ飛んで行った。
陽奈は、アパートで独り暮らしをしていた。204号室。走って来たから僕は息が上がっていたけれど、そんなことはどうでも良かった。
返事を期待して扉を叩いた。でも、返事がなかった。
試しに取っ手を捻ってみると、扉が開いていた。
非難されることを覚悟で、僕は中に入った。
陽奈は、窓際に居た。ボロボロの格好で、ボサボサの髪の頭を両手で押さえて。何かに怯えるように、カタカタと震えていた。
「陽奈、大丈――」
僕の声に反応して、陽奈は絶叫した。宥めようと思っても悪化するばかり。僕には何もできなかった。
*****
それから少しして聞いたこと。
彼女は、陽奈はもう元に戻らない。
心がズタズタにされてしまったらしい。
原因は、ストーカーだと言っていた。嫉妬した鬼だと言っていた。
僕が行った時に聞いた名前、そのあと彼女が発狂してしまった名前は、あの女子だった。
彼女は、僕の顔を見る度にこう言った。
「ごめんなさい。『愛』が『何』だかわからないんだ」
彼女の顔から、笑顔は消えていた。
*****
――僕が初めて愛した人は、愛する心を『奪われてしまった』。
だから、僕は許さない。
あいつだけは、あの女子だけは。
でも、この激情も空しい。力ない僕には、何もできない。
だからせめて、東雲颯人として、陽奈が大丈夫になるまで、陽奈の傍に居続けたい。
抑圧しようとしても滲み出てしまう、でも陽奈は感知することができないという、僕自身の仄かな『愛』を忘れないで。