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「あなたは受胎した」

作者: 明宏訊

ゆっくりと降りて行った。

曲がりくねった城壁が地平線まで続く。

地上にオーロラが現出した。

連中はこんなものをつくるまでなったのか。

意識が混濁している。

ちょうど暗雲が立ち込めたその日の天候のようだ。

そこいらにたちこめる色々な瘴気が意識の中に入り込んでくる。

いくら若いとはいえむやみやたらに能力を使いすぎた。

疲れ切った身体を癒す何かががここにはある。

それはゆららかな形状にあるのか。

連中は硬い岩を整形することによって、柔らかいという感受性を換気することに成功した。

単なる物質から精神性を喚起する方法を手に入れた。

以前に降りたころと比べたら何たる進歩のありようだろう。

目的さえ間違えなければ素直に褒めてもやったのだ。

そう簡単にはいかなかった理由は、城壁のところどころに穿たれた数多ある孔、孔、孔にある。

時間という風雨を乗り越えて歴史をつくってきたからだと早計してはならない。新築であることは壁から立ち上る匂いからすぐにわかる。


よく目を近づけてみればいい。白亜の塔やオーロラだと思っていたものが実は影を作っている。凹凸がなければそんなものはできない。そこには人の敵意が籠っている。あるいは残存している。孔が穿たれた、ちょうどそのそきに暴れていた怒りや憎しみ、あるいは貪欲などの負の感情はこんなものではありえない。それが脳裏を過ると、地上に降り立ったことも忘れてもっと下へ、下へと降りそうになった。

それでもすでに地面に到着していることに気付けたのは、大地の神が教えてくれたからだろう。

礼として、大地に接吻すると立ち上がる。

相変わらず壁はどこまでも続いている。

意識が戻るまでの短い時間に崩れたり、穴を穿たれたりはしなかったようだ。

一度、瞑目して、次に開くと跡形もなくなくなってしまうのではないか。

それを本気で心配した。

天から降りてくるほんの短い時間にこの壁を愛していた。

穿たれた穴に感じた嫌悪の気持ちは小さくなっていた。

代わりにこの壁がかつて感じたであろう痛みを想像して震えていた。

しかし自分の発見者は冷たい雨によってそうしているのだと勝手に勘違いしている。

その貌を目にするためには首が痛くなるほど見上げなければならない。

身長の高さからして、彼女は大人だと即断してよい。着用している服、ただ住まいから貴族だと推察できる。

さてさて、どのような物語を味わわせてくれるのか。

魚を釣るのに疑似餌を使う要領で、言葉にならないメッセージを送った。

私にどう接するかで、そなたの運命がどうなるのか、水がどちらに流れるのか決まるぞ、という具合だ。

しかしこんな上等な服を着ている人物が馬車から降りて迫ってくる。


しかも霧雨が降っている。

そのために背後から彼女の使用人と思われる男女が迫ってきて、布のようなものを頭からかけようとした。

貴婦人はそれを軽く払いのけようとした。

いったいどういう反応をするのか?

連中の価値観からすれば、地上を蠢く汚い虫のような存在としか認識できないだろう。

生まれてから一度も身体を洗ったことはないだろう。

着ている衣服も同様だ。

いや衣服というよりはむしろ単なる布だと表現した方が適当だ。

髪は鳥の巣、あるいは蚤の家と詩人でなくてもいうだろう。

暗喩でもレトリックでもないのだ。

この貴婦人からすれば畜生の子供ににしか見えないだろう。

いまわかったことだが、彼女の精神史を垣間見たところ、とうていそのような存在に慈愛をくれてやるような性格ではない。やむごとなき連中にもそういう輩がいることは知っている。わざわざ町はずれまで出張ってそういう子供たちを目の前で家臣たちに虐待させるような真似はしないが、自分が歩く方向に見つければ、もてる武器のすべてを使って排除するように仕向けるだろう。それが彼女が生まれてきてから歩んできた精神史から読み取れることだ。アカーシックレコードからも一部の情報を得ている。

そのような外見を備えた幼い女の子にどういう反応をするのか、興味深く見上げる。

はたして、背後の使用人たちが驚く行動に出た。

連中にとっても完全に予想外だったのだろう。

払いのけようとした布を奪うと、あたかも自分の娘にそうするようにかけてきた。

人間の行動を律する正体は知らない。

覗けるにしても、アカーシックレコードに入り込むにはそれなりの制限がある。というよりはそちらの方が範囲が広い。もしくは大多数と言っても過言ではない。

天から降りた身とて単なる使い走りにすぎない。

ただ好奇心を膨らませる自由くらいはある。

かけられた布は温かかった。

冷たい霧雨と対照的だった。

だから一度沸騰しはじめた好奇心が簡単に冷めることはないだろう。雨は心なしから強くなっている。貴婦人の使用人たちは複数の懸念から主人を早く馬車の中へと戻したいようだが、無理強いできる相手ではない。少しでも触れたら雷に打たれでもしたような衝撃を受けるだろう。だが怯えている真の理由はそこにはない。連中は貴婦人よりも別の人間を恐れている。それは雷ではすまない。大地が裂けるような衝撃を受けるだろう。

貴婦人は優しく笑いかけてくるが、それは連中の目にはみえない。もしもみえたらそれはそれで怯える理由がまた加算されるだろう。

連中の記憶からは主人がこのような状況でそんな表情をするはずがないのだ。

加算させることに加担することにした。

あたかも実母に再会したかのように、貴婦人を幼い子供特有の微笑で迎えたのだ。

貴婦人の身体はいかに流行の服によって倍増しになっているとはいえ、この微笑を押し隠すことはできない。連中は信じられない光景に絶句するだろう。

いつの間にか雨は止むどころか、ちょうど太陽が雲から顔を出した。

上位者も心憎い演出をするものだ。

きっと連中の視線はこちらの顔に集中している。

よほど神々しくみえるのか、丸くなった眼球は眼窩からすぐにでも飛び出そうだ。

連中は完全に言葉を失っている。

太陽神の助けを得てこちらの神々しさも倍増しになっているにちがいない。

こちらは単に眩しいだけなのだが。

貴婦人は自分の貌はこちらからよく見えていないと踏んでいるにちがいない。逆光になっていることは簡単に予想できるだろう。だからこそ油断すると踏んだ。どんな表情を見せてくれるのか?好奇心が疼く。上位者が見ていることも気にならないくらいに、意識が自然と集中していくのを感じずにはいられない。彼女の顎から水滴が滴り落ちる。上位者は彼女を愛したのか?事ここに至って上位者の視線というものを意識から除外できない。好奇心は確かに健在ではある。

上位者への畏れが好奇心を凌いだ。

上位者が何を考えているのか、それが問題だ。

あろうことか、人間ごときに震えている。

それは上位者への配慮だと思いたい。

だが眼前の巨大な影に対して畏怖心という、上位者に対してのみ感じるべき感情を抱いている。

逆光?

そんなものは人間のみが懸念すべきことだ。

自分にはまったく関係ないものだと思っていた。

太陽光といえど単なる光にすぎない。

人間のように視覚器を持たない。

それにもかかわらず、どうして影は影として眼前に迫ってくるのか?

それよりも畏ろしい(おそろしい)ことがある。

上位者の唇と自分のそれが同化した。

そして思いもよらない言葉を口にしていた。

「あなたは受胎した」

貴婦人はすべてを知っていたのか?

だから情報に反する態度を示したのか?

母親という概念は体験していないので理解できない。

しかし目の当たりにしている人物がそうならばどれほど楽しいだろうか?

100年も雨が降らなかった砂漠に慈雨が降り、美しい花々が咲き、やがては人々を満たすための果実がたわわに実ることだろう。

そういう光景が心の中に現出した。

これまでになかったことだ。

逆光状態はまだ続いている。

すでに同化状態は終わっている。

だから自分だけの口で呟いてみた。

「あなたは受胎した」

彼女は母の貌と唇ですぐに返した。

「そのことはすでに知っています」

いま、彼女の貌から銀色の液体が滴った。

舌に馴染ませなくてもわかったことがある。

それは海の味がかすかにしている。


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