第1話【ネラとレイア】
懐かしい夢を見た。
この世界だとまあまあ高級だろう、しかし僕からすると質の悪いベッドから、目をぐしぐしと擦りながら起き上がる。
顔を洗いに洗面所に行き鏡を見ると、(自分で言うのもなんだが)可愛らしい少女の頬には涙の跡があった。
懐かしい夢を見たからだろうか。まだ前世に悔いがあったのか。
「…いや」
どちらかというとこれは、郷愁の念、だろうか。もう帰ることのできない前世の日本での、平和で平凡で退屈な世界への。
「もう吹っ切れたと思ってたんだけどなぁ」
薄く笑うと、僕は顔を洗って、ぼさぼさになった長い黒髪を梳く。
「私は、ネラ・カースス」
改めて、現世での名前を口にする。これは僕の記憶の整理だ。前世の事を忘れるわけではない。前世を無かったことにするわけじゃない。魔王との約束は絶対に果たす。しかしそれとは別に。僕はこの世界に馴染まなければいけない。
前世での魔王との戦闘で相討ちになり死んだ後。僕は気付いたら、赤ん坊となってこの世界に生まれ落ちていた。それも男では無く、女として。
願いが神に届いたのか、神がなにかしら目的があって僕の記憶をそのままにしたのか、ただの偶然か。ともかく僕は、前世での記憶と力を全て保持したまま、前世で召喚されたこの世界に転生した。
産まれて数年が経ってから、僕は記憶を取り戻した。赤ん坊の未発達な脳に知識と記憶を引き継がせるのには多少の時間を要したらしい。取り戻すまでの間、僕は酷く身体が弱かったようだ。
前世での魔族との戦争から、数百年が経過している。あの戦争の歴史を調べると、王国が繰り出した勇者が、決死の力で魔王を倒し、魔王と共に死んだ事になっている。
まあ、王国が召喚したのは確かだ。その扱いは奴隷みたいだったが。つまるところ、漁夫の利を得たのだろう。
そのおかげか、今僕が住んでいるこのデトリトゥス王国は、前世の頃と比べて何倍も大きくなっている。
また、相変わらず特殊な力を持つ者を排斥しているようだ。しかし税は然程高くもなく、貴族は一部が威張っている程度。昔と比べて、随分と住みやすい国に変わったようだ。尤も、力を持つ僕としては住みづらそうなのは変わらなそうだけれど。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「起きてる、入っていいよ」
失礼します、と言って豪華な扉を開けるのは、メイド服を纏った女性。メイド服は勿論前世の様なミニスカやら余計なフリフリがついたような衣装ではない。
彼女はレイア。緋色の髪に紺碧の瞳を持つ、僕専属の侍女メイドをしている、この世界でも美人に入るであろう女性だ。どうもこの世界は顔が整っている人が多い。魔力の影響だろうか?羨ましい限りである。今や僕もその一員なのだけれど。
レイアに服を着替えさせて貰った後、彼女と一緒に朝食を摂る。
僕のこの家での扱いは、なんとも微妙だ。お付きのメイドはいるし、家庭教師も居る。しかし、他の家族と一緒にご飯を食べることは無く、外に出ることも禁止されている。
その理由としては、この黒髪だ。母親は空色の髪を、父親は橙色の髪を持つ。瞳は個人差が大きいが、髪色は遺伝らしい。
まあつまり、本当に父親の娘なのか。それが問題なのだ。尤も、この髪色は僕の前世から継いだものであろう。少なくともあの母親がそういうことをする様には思えなかった。
母親が守ってくれたのか、僕が捨てられることは無かった。産まれて数年は僕の意識なんて全く無かった。母には感謝しても仕切れない。
そんな感じに産まれた頃から待遇の良い軟禁生活を送っていた僕は、今日で13歳。この世界だとそろそろ独り立ちさせて貰える歳だ。
「ねぇ、レイア?」
「はい、お嬢様。やはり付いて行きましょうか?」
話が早いことこの上ない。レイアには既に話してある。僕が問題を起こすことで一番被害に会うのは、彼女だからだ。今まで尽くしてくれた彼女に黙っていることは出来なかった。
「それは大丈夫だけど…レイアこそ、大丈夫?」
彼女は僕に、気にしなくていいと言ってくれた。ここを辞めさせられても、次の職なんて簡単に見つかる、と。
レイアに関して僕は、侍女としてとにかく優秀な事しか知らない。彼女は話してはくれなかった。なに一つ。別にそれはいいのだが、だからこそ、彼女が不安なのだ。ただの虚栄ではないのかと。
「はい、問題ありません。ですが、そうですね…」
では、一つだけ、と。僕の不安が伝わったのか、レイアは胸ポケットから一枚の手紙を取り出した。
「別の国に行った後、これをギルドで渡してみてください。少しは便宜を図って貰えるでしょう」
この国では使えないですけどね、と苦笑するレイア。少しばかり、驚いた。
ギルドとは、ほぼどの国にも存在していながら国家権力の干渉を防ぐことのできる程に大規模な中立機関であり、市民や村の問題を引き受け、解決可能な人材にそれを斡旋する、所謂仲介役の何でも屋と言ったところか。
イメージ的には前世の世界の時代──現代の人が真っ先に思い浮かべるギルドと変わらない。依頼の内容は魔物の駆逐や純粋な荷物運び、盗賊の捕縛等、人手の足りないお店の手伝い等、多岐に渡る。
正式名称は依頼斡旋互助協会。元は小さな互助組織だったのだが、力仕事が多い組織故、強大な力を持つ者も増え、次第に国も手を出せなくなるまで大きくなっていたという。
因みに国自体には警察に似た騎士団が存在する。こちらは主に国の大きな危機や、人の手による事件、治安等、国そのものに影響を与えるであろう問題に対しての対処を行う。
個人の問題はギルドが、国の問題は騎士団が。曖昧な部分はあるが、大体の住み分けはできている為、仲が悪いわけではなかったりする。
また、そんなギルドに属し、斡旋される依頼をこなしながら旅をする人を冒険者と言った。
そんな大きな組織、ギルドで便宜を図ってもらうことのできる彼女は──
受け取った手紙の裏を見てみるとそこに、この世界における共通語、ソルセリー語でレイメルアと書かれている。多分、これが彼女の本当の名前。
「少しばかり有名な、とある支部のギルドマスターでした。それだけです」
ギルドマスター。つまりその支部のギルド員や冒険者を纏める役目を持つギルドの主。その称号は、伝手や知識だけではまずなれない。ギルド員やその支部のある国の王やギルド本部にその力を、知識を、知恵を認められてなることのできる、特別も特別な役職だ。
それだけなんてことは無い。ギルドマスターは国王の次に権力を持つ。国そのものに働きかけをできるような権力ではないが、正当な理由があれば最上位の貴族さえも裁くことのできる程の権力が。
「うん、ありがとう。ありがたく使わせてもらうよ、レイア」
でも、聞かないことにした。多分教えてくれる気も無いだろうし、それならそれでいい。別に他人の過去に興味は無い。僕が覚えておくのは、彼女が僕に尽くしてくれたという恩、ただそれだけでいい。
「もしも私の助けが必要なら、言ってね。頭は良くないけど、戦力としてだけは頼りになるから」
だから、何かあれば、絶対に助けに行く。それを誓って。
「はい、もしもの時は頼りにさせていただきますね」
「絶対」
戦力になると言ったものの、彼女にはなんの力も見せてないことを思い出す。こんな小さな娘が、戦力になるなんて言っても信じてくれるわけも無かった。
「その証拠」
だから。僕はこの場で力を使う。僕が持つ、普通とは違う力。この世界で生きていく為に最も重要な、僕の要。
黒い魔力が全身から噴き出し、僕の全身を包みこむ。
身長148センチ。体重39キロ。腰まである長い黒髪と、昏く、しかし澄んだ黒の寝ぼけ眼。閉じ込められているせいもあってか、真っ白でシミも無いきめ細やかな肌。丸みが帯び、出る所は出て、引っ込む所は引っ込み、色香を出し始めている体。あとどちらかというと安産型。
13年間付き合って来た自身の身体を改めて見やり、それを思考に落とし込み目を瞑る。黒い魔力が全身に溶け込み、侵喰し。幼い容姿はそのままに、中身が変質していく。
臓器を、脳を、血を、血管を、皮膚を、筋肉を、骨を。絶たれても千切れても砕けても再生し、そもそも普通のナイフで突いても傷一つない程度の肉体に変質させる。ついでに身体の成長を止める。
因みに一定以上の強度を出そうとすると、元の素材の剛性や弾性までも変質させてしまう。つまりこれ以上身体を頑丈にしようとすると、石の様に肉体が硬くなってしまう。勇者の身体の時はもう少し頑丈にできたのだが、この身体ではこれが限界の様だ。
魔力の通りが悪い。やはり勇者召喚の時の身体とは違うようだ。取り出す魔力も、取り込む魔力も流れにくい。少しでも集中を解けば、自身の魔力が肉体を壊してしまいそう。
昔から考えると非常に手間取りながら、徐々に肉体に魔力を馴染ませ、ゆっくりと、しかし確実に肉体を変質させていく。
どれだけ経ったのか。全身の作り変えが終わる。これで僕は、もう人間と呼べるか分からない存在となった。ついでとばかりに、集中を切らさず身に纏う衣装に意識を移す。
身体のラインが出る、ノースリーブでミニスカートの黒いワンピース。手の甲までを覆うアームウォーマー。白くシミのない太ももを際立たせる黒のニーソックスに、今日の為に用意した黒い皮のロングブーツ。
見事に真っ黒な衣装も、形はそのままに変質。アームウォーマーとロングブーツは戦闘時には更に変質させるつもりだが、今は他と同じ様に。
全ての変質が終わり、僕はゆっくりと瞼を開く。
この国では、僕の様な特殊な力は異端であり忌避され排斥される存在だ。それでもレイアにこれを見せた理由は、彼女もきっと同じだと思ったからだ。この国では使えない元ギルドマスターの権力。それは彼女がそういう特殊な力を持っているのだとすれば、合点が行く。
「──なるほど」
整った顔に少しばかりの驚きを乗せて、レイアは納得するように頷いた。
「だからそれ程までに、この国を出たがっていたのですね」
そうだ。僕はずっとずっと、この家を飛び出して、この国から出たかった。軟禁生活にもうんざりだし、もしも魔王も僕の様に転生してるとしたら、今すぐにでも探しに行きたかった。しかし。
ギルドには年齢制限があったのだ。記憶を取り戻して自由に歩ける様になってからというもの、僕は何度も書斎に足を運んだ。本を読むのは嫌いではなかったし、ここ数百年の内に変わってしまった事を確認する必要もあったからだ。そしてそこで目にしたギルドの年齢制限。レイアにも確認したから間違いない。
ギルド所属の証であるギルドカードは、信用と保障の証だ。それを手に入れることの出来ない小さな子供、それも何処の誰かも知れない子供をそうそう雇ってくれるわけも無い。
そうして安全と安心を考えて、ギルドに所属できるようになる13歳までを、耐えることにしたのだ。
ギルドは互助組織だ。そう何度も依頼を失敗されても困るし、暴れる様な人を冒険者として登録される訳にも行かない。だからギルドも身分を確認出来るものか、信頼されてる人からの伝手か、もしくは少なくないお金を払うかして登録をさせてもらう。勿論一定以上の問題行為でギルド追放もあり得る。
家を出ることで伝手も身分もなくなる僕は、この家からテキトーに高価そうな物や自分自身の持つ服を売ってお金にするつもりでいた。
しかしそれも、レイアのお陰で問題なく解決しそうである。
「それで、今すぐに出る予定で?」
「夕飯の後に母親と話して、夜中に父親にこの家から出ることを伝えるよ。そのあとすぐに出るつもり」
「了解しました。今日は家庭教師もお休みのようですし、旅の支度をしましょう。折角です。初めての家の外に出てみますか?」
そういえば旅なんだから、支度しないといけないよね。この13年間で頭が鈍ってしまったようだ。
「ん、案内できる?」
「お任せ下さい」
洗練された動きで礼をしたレイアは、少々お待ちくださいと言うと部屋から出て行った。
暫く経ち戻ってきた彼女の出で立ちはいつも見る姿とは全く違っていた。
僕の派手な衣装とは違い、なんとも庶民風の地味な服。ブラウスの上からカーディガンを羽織り、足首までのロングスカートを履いている。それと緋色のショルダーバッグを掛けている。あと決して小さくない胸に鞄の紐が埋れている。
「お嬢様のお召し物もお持ちしましたので、お着替え下さい。今のままでは非常に目立ちます」
折角変質させたのになぁと思いながらも素直にはーいと答え、差し出された服に着替える。
タートルネックのノースリーブシャツに、黒のキュロットスカート。アームウォーマーとニーソとブーツは変わらず、頭は被せられたキャスケットの中で黒髪が纏まっている。黒髪は結構珍しいので、隠す様にとの事だった。
「これ、一体いつ買ったの?」
「休暇を頂いた時にふとお嬢様に似合いそうと思い、購入しました。あと何着か他のもありますので、旅支度をする時にお持ちしましょう」
貴方の持つお召し物はどれも派手で目立ちますので、と。まあ確かに、ヒラヒラで質の良い服が多い。あと外に出ることは考えてないので無駄に派手なのも多い。因みにニーソとブーツはレイアにお願いして購入してもらっていたものだ。
「あとはこれも」
レイアが肩に掛かった鞄から取り出したのは、一回り小さい灰色の鞄。ヒップバッグの形だ。なぜ鞄の中に鞄。
鞄を腰に巻いて、レイアに背を向けてお尻を突き出す様に鞄を見せる。
「どう?似合ってる?」
「はい、良くお似合いです。因みにそれは、空間拡張の魔術が敷いてあるので、見た目より多くの荷物が入る様になってます」
なんか凄く高そうなんだけど。
「そうですね、特にこの国では非常に高いです。ですが安心してください、これは私のお手製なので鞄の値段しか掛かっておりません」
「え?」
「はい?」
2人して首を傾げる。僕はそんな事もできるのかという意味で、レイアは多分何を驚いているのだろう、という意味で。
「レイアって術式組めるの?」
「これでも元ギルドマスターですから。そのくらいできなければギルドマスターになれませんよ」
ああそういえばそうだったね。しかし魔術かぁ。僕は簡単な術式しか組めないんだよね。
「簡単でも術式を組める時点ですごいんですけどね。少なくともお嬢様の歳では普通はできません」
「それならレイアに術式学べばよかった」
闇の魔法以外の魔法を使えない僕としては、戦闘時の手札を唯一増やすものだ。まあ大半は身体能力を活かしたゴリ押しでどうとでもなるんだけど。
「そういうことでしたら、これも差し上げましょう」
鞄から取り出したのは分厚い辞書のような本。重い。変質させてない身体なら両手で持てるかも怪しいレベルだ。
「私が書いた魔術書です。一応どうやって術式を組み、どういう術式が発動するのか、その大半はこれに書かれていますので、基礎を知ってるお嬢様なら読み解けるでしょう」
なんとも至れり尽くせりだ。返し切れなさそうな恩ばかりが増えていく。
礼を言ってからもらった鞄に妙に重い魔術書を仕舞う。本来はその分鞄が重くなる所が、全く重さを感じさせない。
「空間拡張の副作用と言いましょうか。正確には拡張した空間には重力の作用が働かないため、重量が無いのです」
ふんふん。頷きながら今度は鞄に手を入れる。空間拡張と言っていたが、普通の鞄より大きい程度にしか感じない。しかし奥まで手を入れると、鞄と同じ大きさであろう魔術書を手に取った感覚があった。取り出して見るとやはりそれはずっしりと重い魔術書だ。どうなってんだこれ。
「さて、それでは買い物に行きましょうか。私が全て出すので安心してくださいね」
確かに外に出ない僕はお小遣いなんて貰ってない。でもテキトーにそこらへんのを売ればお金になるからそれでいいと思う。
「いえ、折角なので奮発させてください。お嬢様への餞別です」
もう十二分に貰っているんだけどなぁ。そう呟いて、レイアの腕にしがみ付いた。
血は勿論繋がっていない。でもそれでも。友人やら主従以上の親愛の想いを込めて。何度目かわからない感謝と共に。
「ありがとう、お姉ちゃん」
それでは、良いクリスマスを。