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第二話 恐がりなお嬢様

「森へ行くって?」

 宿の親父は熊みたいな髭をさすりながら少女の話に優しく相槌を打っていたが、急激に顔を曇らせて自分の娘たちよりもなお若いこの少女を凝視した。

 少女――ジライマ・メイジーは、栗色の巻き髪を揺らしてこくりと首を縦に振った。

「そりゃあ、やめた方がいい。なにしろあの森は……」

 親父はずいっとジライマに近寄り、一段声を低くする。

「出るんだよ」

 髭面の形相が恐ろしかったこともあって、ジライマは思わずテーブル越しに身を引いた。

「出るって、何が?」

 まさか幽霊でも出るのだろうか。それは少し、実のところ、かなり苦手だったりする。いや、正直に本当のことを言えば、この世で最も苦手なものは何かと問われたら『幽霊』と即答出来るくらいに恐かった。もちろん幽霊なんて見たこともないけれど。しかし、だからこそ恐いわけで……。

 窓の向こうには牧草地を抜けるくねくねとした細長い道が見えた。その先を辿っていくと、暗い森が広がっている。

 親父は森に視線を傾け、それから、改めてジライマに向き合った。

「あの森にはね、狼男が出るんだよ」

「狼男?」

「人間を襲う恐ろしい怪物さ。姿は人間に見えるがオオカミみたいな耳と尻尾を持っている。半年ほど前、うちの娘たちも襲われたんだ」

 客に料理を運んでいた女の子が、通りがかりに口を挟んできた。

「あのときは本当に恐かったわ。命からがら逃げてきたのよ。あんなに走ったのは生まれて初めて。ねえ、姉さん?」

 姉さんと呼ばれた年上の女の人が、厨房から糖蜜プディングを運んできて、ジライマのテーブルの上に置いた。

「ええ。とても恐ろしい体験だったわ。私たち、森の茂みで野イチゴを摘んでいたの。夢中になっていたらいつの間にか日が暮れてしまって。慌てて帰ろうとしていたときに、旅の学者と名乗る紳士に声をかけられたのよ」

 思いがけずに怪談めいた話を聞くはめになってしまい、ジライマは湯気の上がるプディングをスプーンで掬いながら、ドキドキと姉さんの話に耳を傾けた。

「シルクハットを被っていたから、立派な方だと思って村までご一緒することにしたの。だって、男の人がいてくれた方が安心でしょう? 博識な方で歩きながら道行く野花について詳しく説明してくれたけど、ちょっと退屈だったわね。恐ろしい出来事が起こったのは、しばらく歩き続けてからのことよ。突然、気味の悪い風が吹いてきて――」

 ガチャリ。

 ジライマは思わずスプーンを床の上に落としてしまった。

「ご、ごめんなさい。どうぞ、話を続けて」

 いや、出来れば続けないでほしい。本当は、恐い話なんてちっとも聞きたくなんかない。

 妹がすぐさま新しいスプーンを運んでくれたので、姉さんは話の続きを再開した。

「肌にまとわりつくような、ひどく不気味な風だったわ。まるで悪魔の息吹のように。風が紳士のシルクハットを木の葉のように舞い上げて――」

 カタカタカタ。紅茶でも飲んで心を落ち着かせようと思ったが、手が震えてティーカップが音を立てる。

「ちょっと、まだ何も話してないわよ? 恐がりねえ」

 言われて、ジライマは顔を赤くした。花の香りのミルク紅茶をごくごくと飲み干してから、精一杯冷静な態度を装って言葉を返す。「それで、風がシルクハットを舞い上げて、それから一体どうしたっていうの?」

 姉さんは気を取り直し、さも恐ろしげな言葉を口にするかのように、低い声で話を続けた。

「それから――」

 どうしよう。恐い。逃げ出したい――。

「シルクハットが地面に転がって、隣を歩いていた紳士の影にはっとしたの。頭にオオカミみたいな尖った耳がついていて、大きな尻尾がコートの裾を持ち上げて揺れていたのよ。それで私、本当に驚いてしまって、妹と二人で走って村まで逃げたの」

 そのとき、突然背後でガタリと大きな物音がしたので、驚いたジライマはとうとう「きゃあ!」と叫んで隣に立っていた親父の首根っこに飛びついた。

 なんのことはない。客のひとりが椅子から立ち上がった物音だった。

 恐がりな少女は、これ以上おかしな話を聞く前にさっさと森へ行ってしまおう――と焦ったように帽子を被り、ドレスの上からハーフコートを身に纏った。「ごちそうさま! おいしかったわ」

「本当にキノコを探しに森の中に入るのかい? 幻のキノコだなんて聞いたこともないし、やめた方がいいって。迷子になるよ」

 幼い子供を諭すように、親父が優しい口調で引き止めた。

「ご親切に心配してくださってありがとう。でも、探さなければならないの」

 大丈夫。狼男なんて、たぶんただの変態だもの。女の子と仲良くなりたかっただけに違いない。幽霊に比べたら、きっとちっとも恐くないわ――。わからないけど、たぶん。

「お金はこれで足りるかしら?」

 宿の親父に紙幣を手渡すと、後ろから覗き込んでいた姉さんが驚いたような声を上げた。

「一万クレッセント? そんな大金かかってないわよ!」

 滅多に見ない高価な紙幣を手にし、親父はおろおろとした様子でジライマに問う。

「五ルナ、持ってないのかい? 硬貨じゃないとお釣りが出せないよ」

「硬貨って?」

 ジライマの言葉に一同はぽかんと口を開けた。少し経ってから、我に返った妹があきれたように言う。

「あなたルナ硬貨も知らないの? 豪華そうなドレスを着てるから、良家の娘さんに違いないとは思っていたけど、とんだお嬢様ねえ。硬貨っていうのは柔らかいお札じゃなくて、硬くて丸い、満月みたいなお金のことよ」

「よくわからないけど、足りてるなら問題ないでしょ?」

 ジライマは傘を挟んだ皮の鞄を持ち上げると、ドレスにあしらわれたリボンを揺らせながら、パタパタと、逃げるようにして小さな旅の宿を後にした。

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