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第十二話 再会

 案内されたガラスの城を前にして、教授は懐かしさのあまり思わず足が竦んでしまった。ジライマが『おばあ様の離れ』と呼ぶその場所は、間違いなく教授のかつての研究室から続いている温室だった。

 手塩にかけて育てていた植物たちは、もうすっかり枯れているか荒れ放題になっているに違いない。そう思っていたのに、中に足を踏み入れた教授は驚いた。思いがけずよく手入れが行き届いている。

 一体誰が世話をしているのだろう?   

 ああ、馬鹿なことを考えてしまった。後任の教授が管理しているに決まってるじゃないか――。

 丸型屋根の中央真下に、小さな書き物机が置かれていて、そこに寄り添う何者かの小さなシルエットが見えた。

「おばあ様!?」

 ジライマは驚きのあまり目を丸くした。ガラスの屋根越しに夜空を眺めて立っていたのは、確かに病気で寝込んでいるはずのおばあ様だった。

「おばあ様、具合は大丈夫なの?」

「ええ。今回はちょっと長い風邪だったけど、もうすっかり元気よ」

「風邪!?」

 どんな大病を患っているのかと心配していたジライマは、風邪と聞いて――高齢者であるおばあ様にとっては風邪だって油断ならない病気に違いなかったが――急に気が抜けたようにその場にへたり込んだ。

「私、とても心配でいてもたってもいられなくなって、おばあ様が元気になるように森へキノコを探しに行っていたの」

「まあ、森へですって?」

 そのとき、おばあ様はジライマの影が大きく伸びた先に、たくさんの動物たちが二人を見守っていることに気がついた。

「あらまあ、驚いた!」

 おばあ様の口から可愛らしい声が漏れた。年を重ねて何事にも寛容になっていたためか、そのおしとやかな物腰のせいなのか、大して驚いているようには見えなかった。それよりも、期せずして訪れた珍客たちをすでに受け入れ、歓迎すらしているかのようだった。

 ところが、動物たちの背後にいた教授の姿に気がついたとき、おばあ様の瞳孔は驚きによってひときわ大きく見開かれた。

 五十年の歳月が経とうとも、彼女はそれが誰だかはっきりと覚えていた。忘れもしない、少女時代をこの学び舎で過ごしたときの恩師に違いなかった。

「教授……なの?」

 教授はこの初老の婦人がかつての自分の教え子アーデルハイト・エーデンであることに気がついていた。

「やあ、こんばんは。ミス・エーデン」

 察しの良いウサギは事の成り行きをすぐさま把握した。「もしかして、ジライマのばあさんが教授の『懐中時計の女』なのか?」

 アーデルハイトは歳を重ねてもちっとも昔と変わらぬ好奇心に満ちた眼差しを少しばかり細めると、過ぎ去った年月に思いを馳せるようにして、穏やかな微笑を浮かべて言った。

「今はミセス・メイジーと呼ばれてるのよ。主人はだいぶ前に亡くなってしまったけれど」

 教授がお悔やみの言葉を述べるよりわずかに早く、アーデルハイトが再び口を開いた。

「教授、私はこの五十年間、決してあなたを忘れたことはありませんでした」

 その言葉に、教授は胸を締め付けられる思いがした。真っ直ぐに向けられたアーデルハイトの眼差しから目を伏せ、消え入るような声で返す。

「僕は……君が来てくれるのを、ずっと待っていたんだよ」

 卒業試験の後、二人で一緒に森へ行こうと決めた休暇のあいだ中、教授はずっと少女を待ち続けていた。そうして、卒業式の当日に知ったのだ。アーデルハイトが学長の息子と結婚するということを。

 胸にぽっかりと穴が開いてしまったみたいだった。教授は卒業式が終わるとすぐに、シルクハットにスーツといういでたちのまま、用意してあった荷物を背負って森へ足を踏み入れた――。


『二人で幻のキノコを探しに行きましょう。約束よ、教授』


 かつての恩師を前にして、アーデルハイトの眼には涙が滲んでいたが、夜の温室では誰もそれに気がつくことはなかった。たとえ誰かに気がつかれていたとしても、いつも潤んだように見える老婦人のチャーミングな瞳としか映らなかったに違いない。

 彼女は静かに語り始めた。あの頃、自分の身に一体何が起こっていたのかを。どうして教授に会いに行くことが出来なかったのかを――。

「あれは確か、卒業試験が終わってすぐのことでした。当時の学長から、相談があると突然学長室に呼び出されたの。庭師をしていた父に関する話だと思ったわ。父は体力の限界に来ていたので、そろそろ潮時だと宣告されるんじゃないかと頭の中によぎったのよ。

 ところが、話は思いもよらぬものだった。学長の息子が以前から私に好意を寄せていて、私と結婚したがっていると言うのよ。

 学長から直々に、彼と結婚して欲しいと懇願されたわ。懇願――いいえ、ほとんど脅迫みたいなものだったわね。私の父が職を失うか、結婚するかの二者択一を迫られたのですから……。

 植物を育てることは父の生きがいだった。高年齢の父にとって、再就職が難しいことは歴然としていたし、ここで雇ってもらえていたことだって、ほとんど奇跡だったのよ。それくらい父の体は弱っていたの」

 星がひとつ夜空に流れた。教授もジライマもデインティも、そして森の動物たちも、みな静かに話の続きを待った。

「私は誰にも相談せず、ひとりで勝手に結婚することに決めました。……誤解しないで欲しいのだけど、父を言い訳にするつもりじゃないのよ。すべては私が独断で決めたことなんだもの」

 そう前置きしてから、彼女は言葉を続けた。

「休暇中は良家のマナーを教育されたり、結婚式の準備で嫁ぎ先から外出することが困難だった。それでも、あなたに手紙を書こうと思えば書けたはずなのに、あのときは思いもつかなかった。きっとあまりに忙しすぎて頭が回らなかったのね。

 そうして、あっという間に卒業式の日が来てしまった。式が終わってから、私はあなたの姿を血眼になって探したのよ。でも、あなたはすでに研究室にもどこにもいなかった。ひとりで『幻のキノコ』を探しに行ってしまったのだと思ったわ。

 植物学の教授が失踪したという噂を偶然耳にしたのは、まもなくしてからのことよ。新学期が始まってもあなたが大学に戻っていないことを知り、私は学長に頼んで森に捜索隊を派遣してもらいました。でも、あなたはとうとう見つからなかった……」

 アーデルハイトはそこまで話し終えると、自分の目の前に立っている恩師の変わらぬ姿を見つめながら、もしかしたらこれは夢なのかもしれないと思った。だが、それがたとえ夢でも彼女には言わなければならない言葉があった。どうしても、伝えなければならない言葉が――。

 アーデルハイトは大きく息を吸い込むと、喉を詰まらせたような声で言った。

「教授、私はこの五十年間、ずっとあなたとの約束を守れなかったことが頭から離れませんでした。一緒に森へ行けなくて、本当に、本当にごめんなさい」

 温室に静寂が訪れた。教授は言葉が出てこなかった。

 当時まだ十代やそこらの少女が、ひとりですべてを抱え込んで人生の節目となる決断をしたことは、どれだけ勇気のいることだったろう。それに比べて、自分はなんと子供じみた大人であったことか――。

 教授は自分を情けなく思った。夜風が追い討ちをかけるようにして、みじめな心を一層冷え込ませた。だが、教授の中にある温もりを消し去ることは、もはや何者にも不可能だった。

 五十年経った今でもアーデルハイトがこうして約束を覚えていてくれた事実は、教授の心に強く柔らかな火をくべたのだ。

「ミス・エーデン……いや、ミセス・メイジー、約束を……覚えていてくれてありがとう」

 切れ切れに紡がれた教授の言葉に、それまで黙って二人のやりとりを見守っていたクマが、とうとう我慢出来なくなっておいおいと泣き出した。すぐにシマリスから叱咤が飛ぶ。「なんでおまえが泣くんだよ!」

 ジライマはドレスのポケットからレースのハンカチを取り出すと、クマの涙を拭ってやった。

 その時だった。


 ズガーン


 耳を劈くような銃声が辺りに響き渡り、動物たちは「ひっ」とその場で身を堅くした。

 男がひとり、温室の扉付近からクマに拳銃で狙いを定めていたが、外してしまったことに動揺している様子だった。先程街中を巡回中に大学の門の前でクマと遭遇した警官だった。警官は銃口を標的に向け直し、がくがく震える両手で狙いを定めた。

 ジライマは慌てて叫んだ。「やめて! 誤解なのよ!」

 拳銃が鋭い音を立てて再び火を吹いたとき、教授は無我夢中で彼らの間に飛び込んでいた。弾丸に射抜かれた体が不自然な弧を描く。教授は仰向けに倒れ込んだ。

「教授!!」

 教授の被っていたシルクハットが、音もなく床の上にころころと転がった。

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