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第一話 植物学者の憂鬱

 森の大木に寄りかかり、灰茶色のウサギが生意気にも短い足を組んで煙管を吹かしていた。シルクハットを頭に乗せ、首元にはスカーフを巻き、やたらと人間ぶった格好をしている。ウサギは「フゥ」とかっこつけて煙を吐くと、午後の陽の中で虫取りアミを振り回していた教授に言う。

「もう蝶の採集はあきらめた方がいいぜ教授。何しろ五十年経っても未だに一匹も捉えられない運動神経の悪さだからな」

 教授はひどく息切れしていたが、それをウサギに悟られないよう爽やかな笑顔を浮かべて見せた。

「僕は生まれながらの頭脳派だからね。体を動かす作業はいつも助手に任せていたから不慣れなんだ」

「植物学の教授だったくせに、なんで蝶を追いかけてんだよ?」

「蝶の分布は植物の分布によって決まる。すなわち、蝶の生態を調べることで、新たな植物の発見に繋がることもあるわけさ。しかし、改めて言わせてもらえば、僕はやはり動き回る蝶よりも草花の方が好きだな。彼らは風に揺らぐことはあっても、じっとしていておとなしいからねえ」

 ああ、不覚だ。馬鹿みたいだ。なんだって朝から蝶など追い掛け回してしまったんだろう。珍しい品種を見ると妙に血が騒いでしまうのは、研究者の悪い癖だ。いやちがう。血が騒ぐのはきっと今夜が満月だからに違いない――。

 そんなことを思いながら、教授は虫取りアミを巨木に立てかけ、肘まで腕捲くりしていたシャツを下ろした。

 今から半世紀前、幻のキノコを探し求めて森の中をさまよっていた教授は、野性のオオカミに噛みつかれた。幸い命に別状はなかったが、以来、半分オオカミ、半分人間というふざけた姿になってしまった。しかも困ったことに、満月の晩にはオオカミみたいな遠吠えをしてしまうので、街に帰ることが出来ず森でひっそり暮らすはめになった。

 家族とは早くに死に別れていたし、友人や恋人と呼べるような人間はいなかったから、別段、別れの挨拶を惜しむ相手もいなかった。教授にとってつらかったのは、在籍していた大学の研究室を手放したことくらいだ。

 驚くべきことに、五十年経った今でも教授の姿は当時のままだった。揃いのスーツが似合うすらりとした長身も、童顔で二十代にしか見えない容貌も、何ひとつ変わってはいない。ただ、オオカミのような耳と尻尾がついているだけで……。

 逆に変わったこともあった。教授は狼男になってから、動物と話が出来るようになったのだ。だが、愛くるしい小動物たちと話してみると、これが意外にかわいくない。特にこのウサギ。もはや何代目かは忘れたが、こいつの家系はとにかく口が悪かった。

「なんだよ?」

 教授の視線を感じとり、ウサギが丸い瞳で見上げた。

「いや別に。なんでもない」

「なんでもなかったらジロジロ見んじゃねーよ」

 ああ、ムカつく。おまえなど狩人に狩られて剥製になってしまえ。

 教授は口に出そうとしたが、面倒なので黙ってやり過ごすことにした。そのとき、茂みの奥でガサリと物音がした。先程までの勢いはどこへやら、ウサギは驚いて教授の後ろに逃げ込んだ。どんなに威勢よく啖呵を切ろうとも、所詮ウサギは臆病だった。

「いいい、今の音はなんだ?」

「おまえとくだらない会話をしていたせいで、気配にまったく気づかなかった。人間の匂いがする。様子を見に行ってみよう」

「頑張れ教授。俺はここで荷物を見張っていてやるよ」

「裏切り者の臆病者め」

 教授はウサギが被っていたシルクハットを奪い取ると、それを自らの頭に被せた。緑色の皮で裏打ちされた立派なシルクハットは、教授の数少ない持ち物のひとつだった。オオカミみたいな三角形の両耳を隠してくれるため、いつなんどきも手放せない。

 教授は尻尾も隠そうと、大木の枝に引っ掛けてあったぼろぼろのフロックコートに袖を通した。それから、忍び足でそっと茂みに近づいて、恐る恐る向こう側を覗き見た。

 柔らかな木洩れ日の中に、ひとりの少女が倒れていた。

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