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長い長い廊下だった。気が遠くなるほど長い廊下だ。外来の診察時間が終わって夜になった病院が、こんなにも重苦しくて静かだったことを、わたしは初めて知った。
そもそも始めから変だった。家の電話が鳴って受け答えをしたのはお母さんだったので、わたしは内容を知らされる前に車に乗るよう促された。
「アカリ、早く! すぐに行くわよ!」
受話器を置いたお母さんの顔は青ざめていて、今まで見たことがないほど厳しい表情をしていた。事の重大さを感じたけれど、まるで見当がつかない。わけがわからないままイチョウ並木の大通りを走って連れてこられた場所が、街で一番大きな総合病院だったのだ。
「お母さん、何かあったの……?」
家を出てから沈黙がずっと支配していて、やっと言葉を発することができたのは、冷たい廊下を歩いているときだった。
「一緒に来たらわかるわ」
ひと言答えると、お母さんはそれっきり口を閉ざした。
無人の窓口の前を通り過ぎてエレベーターに乗り、三階で降りる。エレベーターと反対側にあるナースステーションへ行って受付をした。何もすることがないわたしは、離れたところにで待っていた。すると、お母さんのささやき声が聞こえてきた。
「すみません、見舞客なんですけど。安藤ミズキさんの病室は、どこでしょうか?」
「先ほど入院されたお嬢さんですね。この廊下を真っ直ぐ行った突き当りの部屋になりますけど……」
――えっ、ミズキ?
お母さんと看護士さんの淡々とした会話を耳にしたとたん、わたしの心臓がギュッと縮んだ。グシャッと何かが壊れたかのようにガンガンと耳鳴りがして、頭が痛い。
「ミズキの病室? ねえ、お母さん。お母さんっ! 今、なんて言ったの!」
思わずわたしは、お母さんの腕にすがった。
「お母さん、教えて! どういうことっ? なんでミズキがっ。ミズキがここに……」
お母さんは、わたしの肩を抱いた。
「しっかりしなさい。落ち着いて、大丈夫だから。ミズキちゃん、たいしたケガじゃないから。安心しなさい」
家を出る前とは打って変わって、意外なほど落ち着いたお母さんの声。
そんなに深刻な状態ではないのかも。
藁をつかむような思いで訊いた。
「本当? ミズキ、本当に大丈夫なのね」
「本当よ、ウソなんかつかないわよ」
――よ、よかった……。
肩の力が抜けたせいか、さっきまで頭の中を響いていた耳鳴りが、ウソのように止んでいた。
一刻も早くミズキに会いたい。
「何号室なの、ミズキの部屋。ミズキのおばさんもいるんだよね?」
息を弾ませながら振り向いた瞬間、お母さんの眉が曇った。
「何か知っているのね、アカリ」
「え……」
「やっぱり何かあったのね。アカリ、様子が変だもの」
ギクリと体が反応した。お母さんの腕をつかんでいた手を下ろす。
「知らない、知らないよ……」
否定の言葉を繰り返すしかなかったわたしは、何度も頭を振った。
お母さんの声が静かに響いた。
「だいじょうぶよ、アカリ。お母さんがついているから、安心しなさい。さあ、行きましょう」
優しく言いながらわたしの手を取ると、お母さんは踏み出した。廊下に靴の音を響かせないよう歩き、一歩ずつ確実に真実へと近づく。
お母さんが小声で話し始めた。
「ミズキちゃん、アカリと別れたあとね、自転車にぶつかってケガをしたの。でも、事故にあった場所が学校の近くだったから。変なのよ。ミズキちゃんのお母さんがたずねてもだんまりで、仲のいいアンタに聞いてもらえれば何か話してくれるんじゃないかと思って、ミズキちゃんのお母さんから電話があったの」
「だからって、どうして。どうして、こんな時間に? そんなの明日だっていいじゃん……」
否応なく時間が過ぎていく。ミズキの病室だと言われた場所まで残りわずかだ。長く感じた廊下がウソみたいに短く思える。
お母さんは、そんなわたしを地べたに突き落とすような一言を言い放った。
「ストーカー」
「えっ?」
「アンタには言ってなかったけれど、ミズキちゃんストーカー被害にあってたの。それもね、犯人はミズキちゃんの実のお父さん。あんまり執拗なので警察が動くかどうかってところで、お母さん相談をされていたのよ。それで今回の事故でしょう。関係していると事が事だから、急いで来たのよ」
「そんな、そんな……」
「だから、もし何か見たり聞いたりして、知っていることがあったら教えてほしいの。ミズキちゃんから、なんとか訊き出してちょうだい」
ミズキのご両親が再婚であることは、ミズキ本人から聞いて知っていた。でも無邪気な子供時代のことだったから、「お父さんが二人いていいなあ」ぐらいしか思わなくって。ストーカーなんて犯罪自体、存在することを知らなくって。
まさか、まさか。わたしと別れたあと一人になったミズキを狙って? チャンスだと思って、ミズキのお父さんが追いかけてきて。そして、逃げたミズキは、誤って自転車の前に飛び出してしまったんだとしたら……。
全身の血が凍りついた。
もし一緒に帰ったのが、わたしじゃなくてヒカルだったら。ヒカルだったら、ミズキを一人にしなかったはずだ。キチンと家まで送り届けたに違いない。そうしたら、ミズキのお父さんも手出しができずに、ミズキだってケガをしないで済んだはずだ。
そうだ。わたしがウソをついて、ミズキとヒカルを引き離した。ミズキを一人にしてしまったのは、ミズキが望んだことでも、ヒカルのせいでもない。わたしのせい。わたしのついたウソが原因なんだ……。
「どうしたの、アカリ? 気をしっかり持ちなさい。ツライかもしれないけど、アンタにはやることがあるのよ」
お母さんの叱咤がわたしを揺さぶった。強い口調とは裏腹に、わたしの手を握るお母さんの手は温かだ。強く握って離さない手。その温もりが突き刺さって、胸が痛い。
バカだ。バカだ、わたし。どうして、あんなウソをついてしまったんだろう。こんなはずじゃなかった。ちょっとした意地悪のつもりだったのに。
『ミズキのいない生活なんか想像できないんだよ、オレ』
ヒカルの真剣な横顔を思いだして、わたしはくちびるを噛んだ。血がわずかに滲んだようで、口の中に鉄の味が広がる。
川の水底に沈んだ小石のように、自分も沈んでしまえたら。そう願わずにいられなかった。