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女子トイレで手を洗ったあと、ハンカチで拭いながら廊下に出たときだった。
「おっと、アカリじゃん」
ヒカルとばったり遭遇したのだ。いつもクラスの中心人物。仲間と一緒に行動している彼が、一人でいるなんて珍しいことだったので。
「あれ一人なの、ヒカル?」
と、つい聞いてしまった。
「あー、ちょっとね。呼び出し食らってさ。今、戻るところ」
わたしの横に立って、ヒカルは歩き始めた。両手はポケットに突っこんで、面倒くさそうに前向きにかがんで歩く。わたしも彼と一緒に並んで廊下を歩いた。
「呼び出しって、どうかしたの? 進路のこと?」
「まーね、オレ成績悪いから。本当に第一志望、変えないでいいのかって聞かれたんだ」
それを聞いて、わたしはあ然とした。
「第一志望って……楠大? アンタ本気で狙っているの、バカのくせに?」
「うるせーな。バカは余計だっつーの。そういえば、アカリも同じ大学だったよな。いーよなあ、推薦組は。早く決まって」
「うん、それはまあ、そうなんだけどさ。それより、本気で受けるつもりなの?」
「ああ、まじ本気で狙ってる。他の大学なんか考えていない。ミズキのいない生活なんか想像できないんだよ、オレ。だからマジにがんばって、ミズキと一緒の学部を受けるつもりなんだ」
そう言いきったあとに、ヒカルは固くくちびるを結んだ。
細くって白い横顔だ。女の子みたいにツルンとしたほっぺに、華奢で長い手足。愛らしい顔立ちをしていて、モテなくもない。下級生にバースデイ・プレゼントをもらっているところを見たことがあるし、演劇部の後輩にも「ヒカル先輩って彼女いるんですか~?」と質問されたことだってある。
けれど、ヒカルはよくない。見た目ばっかりで、成績はダメダメだ。
そんなヒカルがクラスのムードメーカー的存在でいられるのは、バカでチャランポランで深く考えないキャラだから。みんな受験生なので、何かと盛り上げてくれる彼を重宝し、内申点に影響しない雑用を押しつけているだけなのだ。そう、ヒカルはただ、利用されているだけ。
だから、いつも不思議に思う。ミズキは、こんなヤツのどこを好きになったのだろう、って。バカで、人が良くって、利用されてばっかのダメなヤツのことを。わたしの方がミズキのいいところをいっぱい知っているのに。
そして、ヒカルは。ミズキのどこを好きになったんだろう? 可愛くて、優しくて、いつもそばにいるから? わたしだって、ミズキと同じくらいアンタの目の前にいて、こうして二人きりで話をすることだってあるのに。女として見られていないってということなの?
ヒカルとミズキが両想いになって付き合っていると知らされたのは、まだそんなに前のことじゃない。夏休みに入って二回目の日曜日のことだ。ミズキと遊ぶ約束をしていたわたしは、急用ができたと言われてキャンセルされたのだ。
急用なら仕方がない。わたしとミズキは子供のころから一緒だったから。いつでも会える。そう思って、あきらめるのは容易かった。
けれど、夏休みの出校日になって事実を知り、わたしは愕然とした。
あの日、ミズキはヒカルと過ごしていたのだ。同じクラスの子が目撃したらしい。仲良く腕を組んで、駅前の繁華街を歩いている姿を。
クラスで噂が持ちきりだったから、夏休みが明けたころには、完全にヒカルとミズキは公認のカップルになっていた。お似合いだとみんなに祝福されて、二人とも嬉しそうだった。
だけど、だけど。ミズキはわたしには何も言ってくれない。わたしが二人の関係を知らないとでも思っているかのような素振りをして、教えてくれない。どうしてわたしにウソをついたのか、ヒカルを好きだったことをなぜ教えてくれなかったのか。未だに明かしてくれないのだ。
だから、わたしも何も聞かないことにしている。
そして、何も聞かされず聞かないでいるうちに、夏休みが過ぎて秋になり学園祭のシーズンを迎えてしまった。学園祭が終われば、冬がやってくる。冬が来たら、すぐ受験が始まって卒業だ。これからの半年間は、瞬く間に過ぎ去ってしまうだろう。でも、二人を許したわけじゃない。
絶対、許せない。ミズキにウソをつかせるなんて。優しくて可愛くて、わたしの大好きなミズキ。彼女が大事なら、どうしてウソを言わせるの? ヒカルは絶対、ミズキにふさわしくない。絶対、絶対に……。
「オイ、どうしたんだよ。ボーっとしてさ。なんか変だぞ、今日のおまえ」
見上げると、ヒカルがこちらを向いていた。彼の顎にうっすらと髭が伸びている。「あっ」と思って気づいてしまった。女の子みたいに可愛らしい顔をしていても、やっぱりヒカルは男なんだ。
じゃあ、手は? 目は? どんなふうにミズキを見つめるの? どんなふうにして優しく触れる? そして、くちびるは。どんなふうに重ねるの……?
「何、見てんだよ。ハズいじゃねえか、バーカ」
頬を真っ赤にさせて、怒ったようにヒカルは言った。だから、目をそらさずに、わたしは答えた。
「ヒゲ伸びてるよ。チョビ髭みたいで、変なの!」
「げっ、うっそー。ちゃんと朝、剃ったのに~」
廊下中にヒカルの声がこだました。すれ違う生徒たちが振り返る。
「もうやめてよね、大きな声出すの。こっちが恥ずかしいって」
「だってよ~、これから下校デートなのに。チョビ髭だなんてさ、カッコ悪いだろー」
恨めしそうにヒカルは、自分の顎をさすった。なんてマヌケな姿なんだろう。本当、カッコ悪い。
「オレもう一回職員室に行って、カミソリ借りてくるわ。なかったら保健室にも行くから。おまえ教室に戻るんだろう? ミズキに伝えといてよ。ちょっと遅くなるから待ってろってさ」
「え、いいけど。別に」
「じゃあ、頼んだぞ。任せたからナ」
そう言い残すと、ヒカルは今通って来たばかりの廊下を走って引き返した。あっというまに彼の姿が見えなくなる。
わたしも彼の去った方向に背を向け、歩き出した。
わたしを真っ直ぐ信じて疑わないでいる瞳。彼のことを思うと、胸が痛む。けれど、せっかくつかんだチャンスだ。逃す手はない。
神様、ほんの少しだけ、目を閉じていてください。懺悔はあとでしますから。
夕方になって風が強くなってきたようだ。廊下の窓がガタガタと鳴った。