科戸の風の族―しなとのかぜのうから―
世の中に人の来るこそうれしけれ、とはいふもののお前ではなし ――内田百閒
「……なんの用?」
これ以上ないくらい眉根を寄せて、迫は冷たく言い放った。
夕日はとうに西の山影に隠れて、周囲は漆黒の闇に包まれている。刻限はまさに深い夜の真っただ中と言う所。当然のことながら、迫は温かい自分の布団の中でぬくぬくと幸福な眠りの中に居たのだ。なのに。
―――よくも邪魔してくれたものだ。
あからさまに不機嫌な迫を前にして、男は実に屈託のない笑みを浮かべて嬉しそうに目を細めた。
見上げるほどに大きな男である。鍛え上げられた逞しい体躯に鈴懸、結袈裟、頭には頭襟、手には錫杖とくれば山伏以外の何者でもない。
「よお、迫。悪ぃがちょっと匿ってくれよ」
蕩けるような笑みを浮かべ、山伏装束の男は悪びれもせずそう言った。迫の目が、瞬間すっと眇められ怒気を孕んでギラリと光る。
「ざけんな。死ね!」
怒鳴りつけると同時に木戸を思い切り閉めようとした迫の手は僅かに及ばず、素早い男の手と足で見事に動きを止められてしまった。
「手ぇ離せ、この馬鹿野郎!」
「そんな冷てぇこと言うなよ。俺とお前の仲じゃあねぇか」
「一体いつ、私がアンタとどんな仲になったってンだよ。くだらねぇこと喋ってねえで、とっとと帰れ、玄海!」
きつく吊り上がった眼で睨みつければ、男は―――名を玄海という―――ニヤリと唇を歪めて、
「相変わらず素直じゃねぇなあ。まあ、そこが可愛いんだけどよぉ」
楽しげに笑った。
「なッ……」
意表を突かれた迫が、言葉を失って茫然自失、目を見張る。その隙をついて、玄海はその身をスルリと滑らせて、あっと言う間に庵の内に押し入ってしまった。
「って、おい、誰が入っていいって言ったンだ。いい加減にしろよ、玄海!」
「まあ、まあ、そう怒るなよ、迫。もう夜も遅ぇんだ。取りあえず寝ねえと明日に障るぜ。明日は朝から里に降りるんだろ」
「…だから、なんでそれをアンタが知ってンだよ」
迫は薬師だ。
山深いこの庵に籠って薬を作り、必要があれば里に下りて薬を売る。月に一度の時もあれば、半年以上行かない時もあり、気まぐれな迫の行動は迫以外に分かりようもないはずなのだが、どういうわけか玄海にだけはいつもピタリと当てられる。玄海は不意に大きく破顔すると、そりゃあ愛だろとふざけた事を言った。
迫は脱力して肩を落とすと、大きな溜息をつく。
「もういい。勝手にしろ」
「ありがてえ、助かるぜ、迫。ま、そう気を落とすなよ。なんなら、俺が優しく慰めてやっても」
「断る」
きっぱり拒絶して、迫は玄海を睨みつけた。付き合っていられないとばかりに踵を返し、そのまま布団に潜り込もうとして足を止める。自分の腕に絡みついた玄海の手と、それから玄海の顔を交互に見て、迫は猛烈に嫌そうに顔をしかめた。
「慰めは要らねぇと言ったはずだぞ。聞こえなかったのか」
「奥ゆかしいお前のことだから、遠慮してンじゃあねぇかと思って」
しゃあしゃあと言う玄海を、更にきつい眼差しで睨み据えると、迫は玄海の腕を振り払い怒りにまかせて怒鳴り付けた。
「だれがテメエなんぞに遠慮するか!寝言も大概にしやがれ、このスットコドッコイ!」
黙っていれば貴族の姫君といっても通用するだろう白皙の美貌を怒りに染めて、迫はまなじりを吊り上げ玄海に詰め寄った。玄海の顔が束の間だらしなく緩む。
―――おつに澄ました顔も良いが、怒った顔はまた一段とそそる。
思わず漏れた呟きは、幸い迫の耳には届かなかったようだ。
玄海は迫の怒った顔に惚れている。それを言えば迫は更に怒るだろうが、今ここで追い出されるのは流石に困る。そのへんの匙加減を間違えるほど、玄海は馬鹿な男ではないのだ。
「……なんの御用でしょうか?」
日の出間近の刻限である。頭に血が上り過ぎて、逆にひどく機嫌よく見える顔で迫は言った。凄まじい嵐の襲撃を受けて、庵はギシギシと悲鳴を上げている。
「そのような事は」
最初に口を開いたのは、向かって右側の橙色だ。
「言わずとも分かろうよ」
すかさず左の浅黄色が続ける。
ぐっすり寝入っていた迫から、再び幸福な眠りを取り上げたのは有体に言って人ではなかった。迫の許可も得ずここに来たのだから、呼びこんだのは間違いなく玄海だろう。迫は殺気の籠った眼差しで、部屋の真ん中で大の字になって惰眠を貪る大男を睨みつけた。
―――全く、どれだけ迷惑をかければ気がすむんだ。あの馬鹿は。
無駄だと分かっていても、腹立ちが抑えきれない迫である。
迫にとって、玄海の訪れは災難以外の何ものでもない。人相手に後れをとる玄海でない事は、はなはだ不本意ながら迫は良く知っている。その玄海が匿えというのなら、すなわち相手は人ではないのだ。そんなことは先刻承知の上である。玄海を家に上げた以上、相手をするのは、玄海ではなく迫なのだから。
迫の怒りに油を注いだとも知らず、ソレらは横柄にじろじろ見下ろしてきた。不機嫌が過ぎて表情を失った白い顔をあっさりと無視すると、
「ここに居るのじゃろ、玄海」
「隠してはならぬ。出しや」
交互に言った。
途端にざざりと風が啼く。迫の両目がギラリと光った。
「そうか、お前たち…疾風か」
「そうじゃ。その様な事は」
橙色が言う。
「見れば分かるじゃろ、科戸の」
傲然と浅黄色。
見えざるものを見る「科戸の一族」は、揃いも揃って皆短気だった。その気の短さと強さが災いしてか、残った者は極少ない。その僅かな生き残りの一人、迫はヒクリと頬を引き攣らせると不自然なまでににこやかに微笑んで、つかつか玄海の元に戻る。そうして、躊躇なくその脇腹に蹴りを入れた。ぐえっと何かが潰れたような音がして、迫は少しだけ溜飲を下げる。
「起きろ、玄海。客だ」
「…なあ、迫、すげえ痛ぇンだが」
薄眼を開けて、たまらず玄海が呻く。
「だろうなぁ。それより、お客様がお見えだぞ、玄海」
「お客?……ああ、悪ぃが適当に追い返してくれ。俺は寝る」
そう言って再び寝る体制に入った玄海の耳を強引に引っ張って、迫はその端正な面に凄惨な笑みを浮かべた。
「勝手な事ぬかしてンじゃねえぞ、玄海。春疾風殿と夏疾風殿が揃ってお出ましたぁどういう事だ。あぁ?それとも何か、テメエは人の家を壊す気か。何やらかしやがったのかは知らねえが、テメエのケツだろ。一遍くらいテメエで拭いたらどうなんだよ」
「嫌だ。俺は迫に拭いてほしい。頼むから、俺のケツを拭いてくれ」
平然と言って二度寝を決め込む玄海を殴りつけて、迫は渋々立ち上がった。結局のところ、迫は玄海の頼みを断れない。あまり考えたくないが、この髭面の恐ろしく図々しい男を失いたくないのは迫の方なのだから。
迫は無言で招かれざる客人たちの前に立つと、一つ深い吐息を落として顔を上げた。その冷然たる瞳の歴とした酷薄さに、さしもの妖たちも一瞬で色を失う。
「な、なんじゃ、科戸の」
橙色が目を見張る。
「ま、まさか、我らと本気で事を構える気ではなかろ?」
浅黄色が怯えたように後ずさる。
「その男は只の人ぞ」
「そうじゃ、只の人ぞ。科戸の」
科戸の力はすべての穢れを祓う力だ。二人の疾風は穢れではないが、科戸の結界内で科戸の末に盾突いて只で済むはずもない。妖とて傷つくのは怖いのだ。疾風の動揺を敏感に感じ取って、迫は更に追い打ちをかける。
「科戸が人を庇うがそれ程可笑しいか。忘れたなら教えようが、科戸とて人よ。去ねや、風の族ども。去らねば、春夏、諸共に消すゆえ覚悟しや」
告げた声は妖の肝さえ冷やす冷酷さである。やると決めた以上、迫に手加減する気など一欠片もない。
橙色がひぃと小さく叫ぶ。浅黄は更に青くなる。
「去ね」
カッと見開いた眼に応えて、ひゅうと風切る音と共に光の輪が現れた。迫はそれを無造作に掴むと、ぐっと胸の前にかざし中空を睨む。
轟々と凄まじい突風が木々を打つ。庵の柱がギリギリと軋む。二人の疾風はものも言わず、慌てて空に逃げ込んで消えた。その背に向けて、迫は淡々と言葉を紡いだ。
「玄海に手を出すな、疾風ども。今だけではない。終世に渡り姿を現すな。次に現れたその時は」
くっと迫の喉が鳴る。ぬばたまの黒髪がふわりと宙を舞って、そのほっそりとした体を包み込み、また絡みつく。
「生きては帰さぬ」
ひいいいいいいいいい。
恐ろしげな悲鳴が高く低く響いて、やがて消えた。ひゅるりと大きく風が啼き、迫の手の中の光がすうと掻き消えた。
耳が痛いほどの沈黙の中、東の空がしらじらと明けてゆく。
迫はもう一度溜息を吐くと、疲れ切った体を引きずって庵にとって返した。
「玄海」
呟けば、寝そべったままの男は素知らぬ顔でふわりと笑った。両手を広げて、おいでと手招き、玄海は更に大きく笑み崩れた。迫の細い体が、途端崩れるようにその中に落ちてゆく。
「迫」
優しく囁かれて髪を撫でられる。ただそれだけの事がこんなにも嬉しい。迫はホッと吐息を漏らすと、体の力をゆっくりと抜いた。玄海の胸は温かい。どこよりも心地よく、泣きたくなるほどに心が満たされる。
抗う事などとてもできない。こうして胸に抱かれてしまえば、迫にはもう何も考えられなくなるのだから。
なのに、
「お前は俺のケツを拭くのが上手ぇよなぁ」
ひどい男は楽しげに迫の怒りを煽るのだ。愛おしくて、誰よりも憎いこの男をどうしてやろうか。迫は厚い胸板に顔を擦りつけながら目を閉じた。
「私以外の女に拭かせたら、玄海、アンタを殺してやる」
轟と遠くで風が鳴る。
そのまますうと寝入った迫の体を抱きしめて、玄海は薄く笑った。
「迫、お前こそ、俺以外の男のケツ拭きやがったらただじゃおかねえ」
山深い庵はしんと静まり返っている。
当分の間、この地に風は吹きそうもない。
了