グレートマザー
「美しいですよ。実に数学は美しいですよ。細部まで完璧で・・・」
私は堀江教授と東大・京大クラスの生徒数人と、教室のあるビルの喫茶室で過ごしていた。休憩時間だった。
「浅倉くんなんかはひどい生徒ですよ。ゴールドバッハの予想なんかも分かっていないんだから」
私は苦笑した。
私は受験生の時、堀江教授の著書を読んだ。私立大で数学の教授をやりながら、予備校の先生もやっていた堀江教授。参考書というより、教養にあふれた本。「数の美」
堀江教授は白髪をボウボウに伸ばして、ひげなんかも剃っていない時もある。すでに教授は退官なさっているが、少しも虚飾はなく、ジーパンにシンプルなポロシャツなど身軽でいらした。
山陰地方のご出身で、生徒が聞き取りやすいようNHKのアナウンサーのようにハキハキと大声で標準語でしゃべる。私は吹き出すのをこらえるのに骨が折れた。
私は「数の美」を読んだので、三十三歳の教務主任代行になっても「浅倉くん」であり、「生徒」であり、「F・落第生」である。
「私は光源氏とか在原業平とか世之介とか、そちらの方面ばっかり追求しておりまして、ゴールドバッハのような高尚な方面は・・・」
私は堀江教授に素晴らしいパスを出した。
堀江教授は大喜びして言った。
「ジュリアン・ソレルスや、ブランシュ・デュボワのことばっかり考えていると、こういう人間が製造されます。いいですか。ゴールドバッハの予想とは偶数は二つの素数の和であることを証明できない。いいですか!証明できないということですよ!」
私は一番優秀な鹿野という生徒に微笑みかけた。
「浅倉くん、百を構成している素数を二つ挙げて下さい」
「えっ・・・21と79」
ドッと生徒が笑った。「21は素数じゃない!」と声が上がる。私は焦って、「23と77」と言い、笑い声が大きくなった。鹿野が助け舟を出した。
「3と97」
「いいですね」
「41と59」
「それもいい」
私は鹿野にもパスを出した。
「どうして証明出来ないって分かるの?」
「多分・・・素数は大きくなるほど素数であるか証明しにくくなるから」
堀江教授が拍手のジェスチャーをした。鹿野は大学過去問の本(いわゆる赤本)や予備校の模試のプリントを作っても国語の隣のスペースに数学があるとすぐ解いてしまう天才児だった。
一段落すると堀江教授は私という落第生に憐れみでパスを出してきた。
(そうやって私は堀江教授に学恩を無尽蔵に負っていくらしい。)
「しかし、詩歌というのは俗悪な近代小説と違って美しいものです」
私は堀江教授好みの歌をいくつか口ずさんだ。
「四極山ならの下葉を折り敷きて今宵はさ寝む都恋しみ」(九州の四極山、都を遠く離れてならの木の枝や葉をしきつめて眠ろう。都が恋しいので、せめて夢で都を見るのだ)
「しぐれの雨まなくし降れば真木の葉もあらそひかねて色づきにけり」(時雨が絶え間なく降り注ぐと真木の葉も抗うことは出来なくて紅葉してしまった。それと同じでお前さんがひっきりなしに口説くから娘さんも断りきれなくて、頬を赤く染めているよ)
「秋風の吹きにし日より音羽山みねの梢も色づきにけり」(秋風が吹いた日から音羽山の峰の梢も紅葉したよ。そして秋の恋は実ってお前も顔を赤らめている)
堀江教授は私に遅れて、そっと歌を口ずさんだ。
「詩歌とか恋愛も、なかなか美しくありませんか」
「そりゃあ、美しいです。恋はいい。どんなに醜い女でも一番美しい数の公式より美しい」
堀江教授の決め台詞に生徒がドッと笑った。
アカデミズム漫才が終わって、堀江教授は生徒たちと教室に向かい、私はロビーに向かった。
須賀さんという営業部長が「ああ浅倉先生」とソファから立ち上がり、軽く礼した。私は深々と礼する。どこかの私大の体育会出身の中年のオヤジィだが、須賀さんはなかなかやり手だった。本当の本当の本当の腹は分からないが、講師に礼を尽くす。うちの予備校では教材などせこいものは売らない。売るのは良質な講義である。須賀さんはそういう信念を持っているように見える。
私は文学のこと以外はパーチクリンであり、須賀さんには上手くマネジメントされているのだが、須賀さんは巧妙に私の自尊心を傷つけない。
「あっ、おみえですよ」
流石の私も度肝を抜かれた。速水もベイビーフェイスのハンサムだったが、速水ママはすごくキレイだった。岩下志麻の若い時のようだった。私は「源氏」の研究者なんだから、服飾のことなんかも分かっていないといけないんだけど、着物の種類は分からなかった。とにかく何百万もする着物に錦の帯で、要所要所は宝石で飾っていた。速水秀助はエムポリオアルマーニの服で、指環をトップにしたネックレスなどしていた。私はそんなにブランドに詳しくないが、後発の金持ちの持っている品でなく、代々継承している由緒ある品のようだった。
私たちは速水の入学に際しての簡単な挨拶と打ち合わせをするのだった。
もっとも速水は自分でカリキュラムなど把握していたし、逆に速水ママは挨拶に来たいだけで何も分かっていないようだった。
「あの、浅倉先生のコースってキャンセル待ちも出るんでしょ。入れて下さってうれしいわ」
「秀助くんに簡単な成績の資料を見せてもらいましたので、ついて来られると判断いたしました」
秀助くんか・・・変な感じ・・・
「あの、先生は勉強が苦手な子にも非常に熱心にめんどうを見てくれますが、遅刻や無断欠席には厳しいので、マナー、エチケットは気をつけて」
速水ママは神妙にうなずいて、速水は笑いをこらえるのに骨が折れるようだった。
「浅倉先生の講座が軌道にのったら、英語・数学・理科なんかもおすすめします」
速水ママは喜んで、うなずいていた。グレた息子が勉強すると言い出し、喜んでいるのだろう。
須賀さんは「入学キャンペーン品です」と速水に小さい包みを渡した。一万円の図書カードだ。
速水はママに連れられて帰っていった。
私は須賀さんと事務所に寄った。受付の女の子がコーヒーを出してくれる。給湯室でインスタントコーヒーと、クリームパウダーと砂糖をまぜて作るコーヒー。それはそれで、また一興。
「すごいお母さんでしたねー。若いし、キレイだし」
私は笑顔だけ返した。医療法人アクアの次期理事長夫人。病院や老人保健施設をいくつも仕切っている。そういう貫禄があった。ゴッドマザーだ。
と、須賀さんが私に一万円の図書カードをつきつけてきた。私はもちろん、おしかえした。
「今回、先生のスカウトですから営業奨励金」
「そんなのいいですよ!!私たちの間で水くさい。それに今後、こういうこともないと思うので、かえって負担になるし」
「いやいや、先生、よく働いて下さるから」
結局、私はカードを受けとった。本自体はよく買う。
しかし、最近はインターネットでの注文が多い。でも急に書店で買う時もあるし。それより、一万円分で私はささやかな宴をすることにした。