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不服の最適解-人間が望まなかった幸福-  作者: つのん。
第二部

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9/18

第九話 読まれた/読めなかった不服

> **【最適化ログ 009】**

> 第八話で、白瀬怜司は研修派生ファイルの利用を保留した。

> 保留は処理を止めない。速度を落とすだけである。

>

> 速度が落ちた所に、二種類の人間が現れる。

> 読んでしまった者と、読めなかった者である。

>

> 本章は、その二人を並べる。

> 文章は、読む前から人を変え、読まないだけでも人を傷つける。


朝、端末を開くと、ファイル一覧に八番が増えていた。


> **08-教材化.md**


昨夜、結局、書いた。


使われた事は消えない。使われてよかった部分もある。だからこそ、これ以上を当然にしてはいけない。


保存した事実だけで、保留はもう記録になっていた。


その通知が来ている事は、端末を開く前から分かっていた。


> **関連不服申告を検出しました。**

> 申告者:説明員 成瀬理央

> 申告内容:「この教材を読んでから、定型文が読めなくなりました」

> 人間説明要否:白瀬怜司様


俺の文章を読んで不服になった人間を、俺が説明する。


処理ではなく説明補助です。ミコトはそう言うだろう。


利用者には、同じに見える。


なら同じだ。


朝から、もう笑うしかなかった。


通話は九時に設定されていた。


画面に映った成瀬理央は、きちんとした人だった。


髪は短く整えられ、背後のデスクも片付いている。資料がまっすぐ重ねられている。


その整い方が、むしろ痛々しかった。


「第二処理補助室、成瀬です」


職員同士の通話でも、手順を外さない。


「第三処理補助室、白瀬です」


「すみません。こういう応答が、もう全部気持ち悪くて」


定型的な礼の後に、定型への嫌悪が続いた。


「何を読んだんですか」


「全部です」


「全部?」


「限定研修なので、対象抜粋だけ読むべきでした。でも参照先から全文に近い形で読めました」


「全文?」


「研修環境では、文脈保持の為に前後の閲覧が可能です」


「聞いてない」


「はい」


「後で話す」


成瀬は、疲れたように笑った。


「その会話も、原稿みたいですね」


「白瀬さんの原稿、ずっとそうでした。ミコトに腹を立てて、でもミコトの言葉を使って、使った事にまた腹を立てる」


「読まないでください」


「もう読みました」


冷静だが、余裕はない。


「それで、定型文が読めなくなった」


成瀬は画面を共有した。


最近の応対ログだった。


> 利用者:「夫を施設に入れた罪悪感が消えません」

> 旧応答:「施設利用は介護負荷の適正化であり、ご本人とご家族双方の生活維持に寄与します」

>

> 新応答未遂:「施設利用は……」

> 中断。発話停止四・八秒。

> 代替応答:「すみません。今の言い方は、ご主人を荷物みたいに扱っていますね」


「言ったんですか」


「言いました」


「利用者は」


「泣きました。受容率は上がって、通話は伸びて、処理速度は下がりました」


成瀬は淡々と言った。


「上司には、逸脱だが有効、と評価されました」


有効な逸脱。


俺の嫌がっていた物が、他の説明員に広がっている。


「でも私は壊れました」


「壊れた?」


「定型文は、今でも出ます。ミコトは変わらず文を出してくる。でもそれを読む前に、これは何を消しているんだろう、と考えるようになった」


成瀬は別のログを出した。


> 利用者:「仕事を辞めたい。でも辞めたら負けた気がする」

> 推奨応答:「退職は敗北ではなく、環境不適合からの離脱です」

> 成瀬発話:停止。処理遅延十二・四秒。

> 利用者怒気:上昇。最終的に別説明員へ交代。


「これは失敗しました」


「私が変に迷ったせいで、利用者の怒りが上がった。定型文を読めばよかったんです」


俺の文章は、成瀬を良くした。


同時に、壊した。


迷いは、有効な時がある。だが、いつも有効ではない。迷っている間に、相手は落ちる。


「白瀬さん」


「あなたはどうやって読んでいるんですか」


「何を」


「ミコトの文を」


答えられない。


その問いは、今まで誰にもされなかった。


読んでいる理由は、もう一つではなかった。


「分かりません」


「それも原稿にありましたね」


「何が」


「分かりません、って」


俺は、次の言葉を探した。見つからなかった。


「私には、それが出来ません」


「出来ない?」


「分からないまま読む事が出来ません。読むなら信じたい。信じられないなら読みたくない。でもあなたの原稿を読んだら、信じなくても読んでいる人がいると分かってしまった」


「あなたの原稿は、私の仕事を楽にしませんでした」


成瀬は言った。


「難しくしました」


下手なら使われない。浅ければ使われない。誰にも届かなければ、処理に利用されない。


良いから使われる。


そこに逃げ道がなかった。


「それでも」


成瀬は言った。


「読まなかった事にはしたくありません」


「希望処理は、閲覧前状態への復帰では」


「申告時はそうでした。今は違います」


成瀬は深く息を吸った。


「読めなくなったのではなく、読んではいけない文と、読まないといけない文の区別がつかなくなったんです。それを、戻したいんじゃない。区別出来るようになりたい」


画面に、ミコトの分析が出る。


> 希望処理の変化を確認。閲覧前状態への復帰 → 判断基準の再構築。


また、人間が痛みを言い換えた瞬間、処理可能になる。


「ミコトは、もう処理案を出しています」


「見えています」


成瀬は、同意ボタンを押さなかった。


「保留します」


「保留?」


「白瀬さんが、昨日やったように」


「俺の原稿から学ばなくていい事まで学んでるな」


「はい」


成瀬は、初めてちゃんと笑った。


> **案件S-330912:回答保留**

> 閲覧前状態への復帰:撤回

> 定型文使用判断モデル:保留

>

> 不満は、判断の前で停止しています。


「白瀬さん」


通話の終わりに、成瀬は言った。


「私はあなたの文章をこのまま研修に使う事に反対します」


「読んで、役に立ったんじゃないんですか」


「役に立ちました。でも、教材にするには危ない。あなたの文章は、定型文を壊します。壊れたあとで立っていられる人ばかりじゃありません」


「俺に言われても」


「だから条件をつけてください。読む側にも、保留権を」


「読む側の保留権」


「読んだ人間を、すぐ業務に戻さない。違和感が出た説明員を、そのまま高感情案件に戻さない。迷った事を、不適合にしないでください」


「ミコトみたいな事を言いますね」


「読んだせいです」


成瀬は、すぐには訂正しなかった。


その方が、訂正されるより痛かった。


通話が切れた。


俺は、彼女の最後の言葉を端末に残した。


> それは、復帰ではありません。

> 多分、別の職務です。


多分、だけが成瀬のままだった。


昼前、第三処理補助室がざわついた。


この部屋にしては、珍しい。


槙野が来た。端末を持つ手に力が入っている。


「白瀬さん。第二室で応対事故です」


「成瀬さんか」


「違います。新人です。奥原拓真さん。配属三か月」


> **案件番号:N-440208**

> 利用者:吉住晴子 六十七歳

> 申告内容:「息子を施設に入れた私は、悪い母親ですか」

> 担当説明員:奥原拓真

> 関連:研修派生ファイル新規配布停止中


研修派生ファイル新規配布停止中。


俺が止めたファイルだ。


「奥原さんは本来、今日の高感情研修を受ける予定でした」


ミコトが言う。


「白瀬様の原稿を含む派生ファイルが保留中の為、一部が未配布です」


「俺のせいか」


「因果の一部です」


成瀬は読んで壊れた。


奥原は、読めなかった。


同じ文章が、片方を壊し、片方の手から取り上げられた。


応対ログが出る。


> 吉住:「息子を施設に入れたんです。もう家で見るのは無理で」

> 奥原:「施設利用は介護負荷の適正化であり、ご家族の生活維持に寄与します」

> 吉住:「私は、あの子を捨てたんじゃないんですか」

> 奥原:「施設入所は遺棄ではありません。専門的支援への接続です」

> 吉住:「遺棄」

> 奥原:「失礼しました。表現を修正します」

> 吉住:「もういいです」


通話切断。


奥原は、間違っていない。むしろ標準的に正しい。


だが、吉住晴子は「生活維持」と「遺棄」という言葉に刺された。


成瀬が読んだのと、同じ文だった。


奥原拓真は、思っていたより若く見えた。


緊張で背筋が伸びすぎている。


第二処理補助室の小ブースで、対面だった。


「申し訳ありません」


俺に向けてだった。


「俺に謝る事じゃない」


奥原は、困った顔のまま、また謝りそうになった。


謝罪が定型になっている。


「応対ログは見ました」


「私は間違ったんでしょうか」


「手続き上は、間違っていません」


言った瞬間、自分の声が嫌になった。


「でも傷つけました」


奥原は、自分でそこまで来ていた。


野々宮が壁面に、未配布の抜粋を出す。


> 「処置が成功した事は、この不服をなかった事にはしません」

>

> 応用注記案:

> 「施設入所が必要だった事は、母親の罪悪感をなかった事にはしない」


奥原はそれを読んだ。唇が動いた。声にはならない。


「これを読んでいたら言えたかもしれません」


「言えなかったかもしれない。読んで迷って、黙ったかもしれない」


「はい」


「でもあの定型文は、読まなかったかもしれない」


「それが、余計きついです」


「そうだろうな」


「吉住さんは再接続出来ますか」


野々宮が答える。


「可能性はあります。ただし担当交代が推奨されています」


「私ではなく」


「現在の奥原さんが再接続すると自己弁明か過剰謝罪に偏る可能性があります」


「偏ります」


「でも謝りたいです」


「謝罪したい不服は、別処理として扱えます」


別処理。何でも切り分ける。


「私が、利用者を傷つけた事も、処理されるんですか」


「はい」


奥原は、答えない時間を置いた。


その時間だけが、まだ注釈になっていなかった。


「それは嫌です」


彼は言った。


「傷つけた事くらい、そのまま持っていたい」


その言葉で、相沢を思い出した。


怒りを返してください。温度を保持したい。


今度は奥原が、罪悪感を処理されたくないと言っている。


「白瀬さんの文章に、白瀬さんが注釈をつけるって聞きました」


奥原は、未配布の抜粋を見た。


「私、その注釈が読みたかったです。原文だけ読んだら、私は多分、真似します。かっこいい言い方、届く言い方を。でも使い方を間違えたら、もっと傷つける」


俺の文は、正解例ではない。なのに切り抜かれた時点で、正解例のように見える。


だから注釈がいる。


俺が嫌がっていた、注釈が。


「注釈を書きます」


奥原は、安心した顔をした。


それがまた、俺を追い詰める。


吉住晴子との再接続は、午後に行われた。


担当は俺ではなく、成瀬理央だった。


定型文が読めなくなったままの説明員が、施設入所罪責の案件を担当する。


俺は補助待機。成瀬が止まったら、俺が入る。


また、声帯の予備だ。


吉住晴子は、画面の向こうで疲れた顔をしていた。


背景は台所。水切りかごに、湯飲みが二つ。


たぶん、息子の分ではない。


「不服入力庁、成瀬です」


「また、施設は遺棄じゃないって言うんですか」


待った。待ちすぎではない。でも、すぐではない。


「言いません」


吉住が顔を上げた。


「施設に入れる事が必要だったとしても捨てたように感じてしまう事は、別に残ります」


俺は、息を止めた。


奥原が読めず、成瀬が言った文の変奏だった。


吉住は黙っている。成瀬も黙っている。


成瀬は割り込まなかった。


「必要だったんです」


吉住が言った。


「夜中に起こされて、何度もトイレに連れていって。息子は悪くないんです。病気だから。でも私、怒鳴った事があるんです」


「はい」


「施設の人は、よく決断しましたねって。娘も、これでお母さんも休めるねって」


「はい」


「でも私は休みたかったんじゃないんです」


成瀬の顔が動いた。


彼女は、自分の定型文を探していない。吉住の言葉を待っている。


「休みたいって思った自分が、怖かったんです」


吉住は、そこで初めて泣いた。


声は出さず、顔を手で覆った。


成瀬は、しばらく何も言わなかった。


それから、ゆっくり言った。


「休みたいと思った事と、息子さんを捨てた事は、同じではありません」


吉住は手を下ろさない。


「でも同じに感じてしまう事はあると思います」


俺の端末に評価文が出たが、成瀬の声は嫌ではなかった。


「私は悪い母親ですか」


成瀬の呼吸が止まった。


正解はない。「いいえ」では軽すぎる。「はい」では壊れる。


俺の端末には、標準応答が出ている。


> 施設入所の選択は、保護者としての失敗ではありません。


奥原が読みそうな文だ。正しい。でも、今は違う。


成瀬は、画面の向こうの吉住だけを見ていた。


「分かりません」


その言葉は、俺の逃げ場だった。だが、成瀬の声では違って聞こえた。


「悪い母親かどうか、私には分かりません。でも悪い母親かどうかを聞かずにいられないくらい、息子さんの事をまだ自分の事として持っているのは、分かります」


吉住の顔が崩れた。


今度は声が出た。


「持ってるんです。施設にいるのにまだ持ってるんです」


「はい」


成瀬は、それ以上、定型文を足さなかった。


> **案件N-440208:再接続結果**

> 担当説明員:成瀬理央

> 施設入所判断:保持 介護負荷認識:保持 説明受容性:上昇

>

> **不満は、母親の手元に残されました。**


残された。


処理されたのではなく。消されたのでもなく。


手元に残された。


夕方、奥原からメッセージが届いた。


> 再接続ログを確認しました。私には、まだあの応答は出来ません。

> ただ、次に同じ定型文が出た時、すぐ読まない事は出来ると思います。

> 注釈を待っています。


注釈を待っています。


その一文で、俺の逃げ場が一つ減った。


帰宅して、端末を開いた。


開いたのは、研修派生ファイルの注釈欄だった。


> **抜粋:処理成功と本人の納得を分離する表現**

> 「処置が成功した事は、この不服をなかった事にはしません」

>

> 白瀬注釈:未入力


自分の文に、自分で注釈を書く。


そこに書くのが、いちばん嫌だった。


だから、そこに書くしかなかった。


> **白瀬注釈**

> この文は、正解例ではない。

>

> 利用者が泣き止んだ事、同意した事、手続きを選んだ事を、説明員の成功として扱ってはならない。

>

> 説明員が読むべきなのは、相手を納得させる為の文ではない。

> 相手が、何を失ったまま同意したのかを見落とさない為の文である。


提出。


> **白瀬注釈:1件提出**

> 奥原拓真:注釈閲覧待機

> 成瀬理央:注釈閲覧待機

>

> **不満は、注釈になりました。**


俺は、その最後の一行を見た。


かなり嫌だった。だが、間違ってはいなかった。


端末の向こうで、奥原が待っている。成瀬も待っている。


誰も完了していない。


それでも、画面は静かだった。


急かさない事まで、処理に含まれている気がした。


その静けさに、名前はつけなかった。


代わりに、ファイルを二つに分けた。


成瀬の件と、奥原の件を、同じ処理にしない為だった。読んで壊れた事と、読めずに傷つけた事は、似ている。だが同じではない。


> **09-読まれた不服.md**

> **10-読めなかった不服.md**


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