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妹の代わりにアイドルになった俺は、嘘の人生で本当の恋をした  作者: リディア


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第9話 善意という名の逃げ道と、二つの誤認

「葵ちゃん……体調、もういいのかしら?」


 茜の声は、どこまでも優しかった。  

 だが、その背後に透けて見えるのは、慈愛ではなく獲物を追い詰める捕食者の静かな熱だ。  

 バスタオル一枚を羽織った彼女の濡れた髪から、一滴、また一滴と水滴が畳に落ちる。その微かな音が、静まり返った部屋の中で爆音のように響いた。


「あ……はい。少し、良くなりました」


 俺は、ひなたを庇うように一歩前に出た。  茜の視線が、俺の首元、肩、腰のラインへと、まるで鑑定士が偽物を見分けるかのような鋭さで這い回る。


「そう。なら、良かったわ」


 茜は微笑んだ。だが、隣に座るひなたを見る目は、氷のように冷徹だった。


「ひなた、そろそろ戻らない? 沙織ちゃんが、あっちの部屋で『あんまり遅いと湯冷めする』って心配してたわよ」

「あ……うん。そうだよね」


 ひなたは、名残惜しそうに俺の隣から立ち上がった。  

 何かを言いかけて、けれど言葉が見つからない……そんな風に唇を震わせ、最後にもう一度だけ、俺の手をぎゅっと握った。


「葵ちゃん、おやすみ。……また、明日ね」


 一瞬の接触。

 けれど、彼女の手は微かに震えていた。  

 ひなたは逃げるように、けれど何かを振り切るようにして部屋を出ていった。


 パタン、とドアが閉まる。  

 部屋に、俺と茜の二人だけが残された。


「……ねえ、葵ちゃん」


 茜が、ゆっくりと、間を詰めながら近づいてくる。  

 湯上がりの湿った香りと、彼女が放つ無言の圧力が俺を壁際へと追いつめる。


「はい」

「さっき、ひなたと何話してたの? 彼女、随分とうっとりしてたみたいだけど」

「別に……何も。ひなたさん、少しのぼせていたみたいですから」

「そうかしら?」


 茜は、俺のすぐ隣に腰を下ろした。  

 触れ合わんばかりの距離。

 彼女の手が、俺の肩に、まるで境界線を確かめるように触れた。


「私ね、葵ちゃんのこと……もっと深く、知りたいの」

「……知りたい、ですか」

「うん。だって、不思議なんだもん。触れられそうで、触れられない。こんなに近くにいるのに、ずっと遠い場所を見てる気がする」


 彼女の指先が、スッと首筋をなぞる。

 絆創膏の端に触れるか触れないかの、危うい距離。  

 心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。

 だが、ここで目を逸らせば負けだ。

 俺は修行僧が仏像を見つめるように、真っ向から彼女の瞳を見返した。


「何か、隠してない? 私にだけは、本当のことを言って?」


 甘い誘惑のような、鋭い尋問。   俺は、深く、静かに息を吐き、覚悟を決めた言葉を紡いだ。


「隠してることなんて、誰にだってありますよ」

「……え?」

「人には、全部見せたら壊れてしまうものがあるんです。見せてはいけないからこそ、守れるものがある。……茜さんにも、そんな聖域テリトリーがあるはずです」


 それは、嘘を重ねる自分への言い訳かもしれない。

 だが、真実の一部でもあった。


「だから、全部を知ろうとしないでください。それが、今の私にできる……精一杯の誠実なんです」


 茜の目が、驚きに大きく見開かれた。  

 彼女は何かを言いかけ、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。  

 俺は、震える声を必死に抑えて、トドメの一句を繰り出した。


「私はまだ、完璧じゃないんです。だから……もう少しだけ、待っていてくれませんか」


 茜は長い沈黙の後、小さく、けれど確かに頷いた。


「……分かったわ。そこまで言うなら」


 彼女はスッと立ち上がり、自分の布団へと歩いていく。


「でも、逃げないでね。……葵ちゃん」


 その呼び名は、呪文のように俺の背中に突き刺さった。




 隣の部屋。  

 ひなたは、布団の中でじっと目を閉じていた。  

 だが、どれだけ羊を数えても、意識は鮮明になるばかりだった。


 何で、こんなに……


 さっき触れた、葵ちゃんの掌の固さ。  

 肩を預けた時に感じた、あの包み込まれるような不思議な安らぎ。


 女の子同士のはずなのに。

 ただの先輩のはずなのに。


「私……おかしいのかな」


 自分の胸に手を当てる。

 鼓動は不規則に、激しく刻まれている。  

 これは、尊敬とは違う。

 もしかして好き?

 違う違う…。

 私はノーマルだ。

 今までも気になる子は男の子。

 ありえない…。

 じゃあ何なんだろう?

 

 羊が5000匹を超えても眠れない……。



 翌朝。  

 チェックアウト前のロビー。

 俺は栞里さんに呼び出された。


「大輔くん。よく昨夜の難所を切り抜けたわね」

「……生きた心地がしませんでしたよ」

「でも、これで茜ちゃんの不信感が『興味』に変わった。ここからが勝負よ」


 栞里さんは、一枚の資料を俺に見せた。


「帰りのバスで、次のライブの体制を発表するわ。茜を、ユニットのリーダーに任命する」

「えっ!? 彼女が、リーダーに?」 「そう。今、彼女は不安なのよ。新人のあんたに注目が集まって、自分の居場所を奪われるんじゃないかってね。だから『守る側』の役割を与えるの」


 栞里さんは、不敵な笑みを浮かべた。


「疑うより、守る方が楽なのよ。人間って、一度『守るべきもの』だと決めつけると、都合の悪い証拠には目を瞑るようになる。……茜を、あんたの最強の盾にするわ」


 都会へ向かう帰りのバスの中。  栞里さんが、車内マイクを握って全員に告げた。


「みんな、今回のロケお疲れ様。……今後の活動に向けて、一つ発表があります。次のライブから、茜をこのユニットのリーダーに指名します」


 車内に驚きの声が上がる。茜自身、目を見開いて絶句していた。


「私が……リーダー、ですか?」

「ええ。茜、葵はまだ新人で不安定なところがあるわ。あなたが一番近くで、彼女をフォローしてあげて。頼んだわよ、リーダー」


 栞里さんの、抗いようのない「善意」という名の圧力。  

 茜は戸惑いながらも、俺を見た。  その瞳には、昨夜の鋭い刺は消え、代わりに「責任」という名の新たな光が宿っていた。


「……分かりました。葵ちゃん、私、全力で支えるからね。よろしく」

「はい……。よろしくお願いします、茜さん」


 俺は深く頭を下げた。  栞里さんの目論見通り、茜の疑惑は「新人のフォロー」という大義名分の中に、一旦閉じ込められたのだ。


 流れていく高速道路の景色を見ながら、俺は掌を見つめた。  

 表面上は切り抜けた。

 茜は「守り手」になり、ひなたは「困惑」の中にいる。  

 だが、俺の心にある違和感だけは、消えてくれない。


まだ、俺は嘘をついている……


 バスの窓に映る「城山葵」の姿は、あまりに完璧で。  

「……葵ちゃん?」


 隣の席から、茜が小さく呟いた。


「何ですか?」

「ううん、何でもないわ。……ただ、ちょっとね」


 茜は窓の外へと視線を戻した。  だが、その瞳は、何かを……言葉にできない「ズレ」を、必死に打ち消そうと揺れていた。


 その夜。

 自室に戻った茜は、一人でスマートフォンに保存された写真を見ていた。  

 温泉旅行で撮った、メンバーたちのオフショット。


 画面の中の葵は、太陽のように笑っている。  

 非の打ち所のない、美少女アイドル。


「……不思議ね」


 茜は、葵の関節の太さや、時折見せる修行僧のようなストイックな横顔を思い返す。  

 リーダーとしての「守るべき責任」が、彼女の冷静な判断を鈍らせようとしている。  

 けれど、胸の奥に残ったあの「硬い感触」と「低い声の残響」だけは、どうしても消し去ることができなかった。


「私……本当は、何を見てるんだろう」


 茜は、祈るように写真を閉じた。  偽物だと暴きたい気持ちと、このまま夢を見ていたい気持ち。  

 二つの誤認が混ざり合い、彼女の心もまた、深い霧の中へと沈んでいった。

 本日も読んでいただきありがとうございます。

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