表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹の代わりにアイドルになった俺は、嘘の人生で本当の恋をした  作者: リディア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/13

第7話 温泉前夜の攻防と、逃げられない「取り調べ」

「いい? 今夜は女子力を磨く日じゃない」


 会議室に入った瞬間、栞里さんが長机にバンッ! と資料を叩きつけた。  

 その音は、まるで戦いの開始を告げる号砲のように響いた。


「明日からの温泉旅行は、生存率を上げるためのミッションよ」


 会議室の白い壁が、作戦司令室の冷たい鉄壁に見える。  

 配られた資料には、温泉旅館の詳細な見取り図と、赤ペンで無数に書き込まれた『DANGER』の文字。


「まず、入浴は絶対に避ける」

「……はい」

「理由は体調不良、生理、のぼせやすい体質、なんでもいい。とにかく大浴場には近づかない」


 栞里さんの指が、見取り図の上を滑り、脱衣所のマークを激しく指差した。


「ここが最大の鬼門よ。脱衣所も危険。露天風呂も危険。なんなら廊下ですら、湯上がりで気の緩んだメンバーと遭遇するリスクがある」


「全部、危険地帯じゃないですか……」

「そうよ。ここは戦場なの。だから基本、部屋から出ないで」


 栞里さんは真顔だ。

 冗談など一ミリも含まれていない。


「でも、夕食はどうするんですか? 宴会場ですよね?」

「個室を押さえたわ。あなたは『体調が優れないので部屋で休む』という設定で、一人で食べなさい」

「……それ、逆に怪しまれませんか? 『葵ちゃん、ノリ悪い』って」

「怪しまれるわよ。当然でしょ」  


 栞里さんは、冷徹に言い放った。


「でも、バレて社会的に抹殺されるよりはマシ。嫌われる勇気を持ちなさい」


 ぐうの音も出ない。  

 栞里さんは資料をめくり、机の上にいくつかのアイテムを並べた。  

 肌色の防水絆創膏。

 ファンデーション。

 そして、薄手のスカーフ。


「喉仏対策。声の対策。うなじの筋肉対策。……全部、これで誤魔化して」


 俺は、小さな絆創膏を手に取った。  

 あまりにも小さくて、薄くて、頼りない。  

 この一枚が剥がれたら、俺の、いや――妹の人生が終わる。


「……これで、本当に大丈夫なんですか」

「大丈夫なわけないでしょ」


 栞里さんは即答し、ため息をついた。


「でも、やるしかないの。……あんたが『葵』でいる限りはね」


 昼休み。練習室の空気は、明日への期待で浮ついていた。


「葵ちゃん、明日楽しみだねー!」


 ドスンッ!  


 背後から衝撃が走った。

 ひなただ。  

 彼女は仔犬のように俺の背中に飛びつき、首に腕を回してくる。


「ひゃっ……!」

「あはは、変な声! ねえねえ、私ね、葵ちゃんと一緒にお風呂入りたいの!」


 ひなたの顔が、俺の耳元にある。  

 石鹸の甘い香りが鼻をくすぐり、柔らかい感触が背中全体に広がる。  

 男としての本能が警鐘を鳴らし、理性が悲鳴を上げる。


「あ、あの……ひなたちゃん、近いです……」

「えー? ダメ? 背中の流しっこ、しようよー」


 上目遣いでのキラーパス。  

 断れば怪しまれる。

 受ければ終わる。  

 冷や汗が背中を伝う。


「ひなた、ええ加減にしとき。葵ちゃん、顔真っ青やで」


 救いの手、あるいは別の追手か。  

 沙織が笑いながら割って入った。


「あ、ごめんね! 楽しみすぎてつい!」


 ひなたがようやく離れた。  

 だが、安堵する間もなく、沙織の冷ややかな視線が俺を射抜く。


「……葵ちゃん、なんやえらい緊張してるなぁ」

「そ、そんなことないです……楽しみで、ドキドキしてて」

「ふーん」


 沙織は、俺の首元から足先までを、値踏みするようにじっくりと眺めた。


「楽しみなんや。……怖がってるんやなくて?」

「え……」

さやに収まってへん刃は、いつか誰かを傷つけるか、自分が折れるかやで」


 意味深な言葉を残し、沙織は歩き去った。  

 俺は、その場に立ち尽くすしかなかった。  

 

 彼女は気づいているのか。

 それとも、カマをかけているだけなのか。  

 どちらにせよ、包囲網は確実に狭まっている。


 午後。  

 人気のない廊下で、茜とすれ違った。


「葵ちゃん」


 呼び止められた瞬間、空気が変わった気がした。


「はい……」

「ちょっと、いい?」


 返事をする間もなく、俺の手首が掴まれた。  

 驚くほど強い力。  

 そのまま、使われていない空き教室へと引っ張り込まれる。


 カチャリ、と鍵がかけられた。


「あの、茜さん……?」

「ごめんね。ちょっと、確認したいことがあって」


 茜は、ふわりと微笑んだ。  

 窓から差し込む夕日が、彼女の美しい顔を照らす。  

 だが、その瞳は笑っていなかった。  

 凪いだ海のような、底知れない静けさ。


「確認……?」

「うん」


 茜が一歩、近づいてくる。  

 俺は後ずさり、壁に背中がついた。  

 逃げ場がない。


「葵ちゃんって、女の子にしては体温が高いよね」


 茜の手が伸びてきて、俺の頬に触れた。  

 冷たい指先。  

 その対比で、俺の顔の熱さが際立つ。


「そ、そうですか……? 平熱、高い方なので」

「うん。すごく、温かい。……安心するくらい」


 茜の指が、頬から顎へ、そして首筋へと滑り降りる。  


 ゾクリ、と背筋が震えた。


「あと、ここ」


 喉元。  

 本来なら滑らかであるはずの、しかし今は絆創膏で隠された、喉仏のある場所。  


 茜の指先が、その突起の上で止まった。

 茜は何も言わなかった。

 指だけが、そこに置かれたままだった。


「……っ」

「何か、あるよね」


 トントン、と軽く叩かれる。  

 心臓が破裂しそうだ。


「絆創膏? 怪我したの?」

「あ……はい。ちょっと、カミソリで……」

「そっか。痛い?」

「……少し」


 嘘だ。  

 痛みなんてない。

 あるのは、正体が暴かれるという恐怖だけだ。  


 逃げ出したい。

 この手を振り払って、叫び出して、ここから消えてしまいたい。


 ――でも。


 脳裏に、妹の笑顔が浮かんだ。  

 病院のベッドで、悔し涙を流しながら笑っていた、あいつの顔が。


 『お兄ちゃん、お願い』


 逃げるわけにはいかない。  

 俺がここで逃げたら、あいつの夢はどうなる?  


 あいつが命がけで目指した場所を、俺の弱さで潰すわけにはいかないんだ。


 俺は、震える拳を握りしめ、茜の目を見返した。  


 逃げない。  

 絶対に、誤魔化し通してみせる。


「無理しないでね。明日、温泉で治るといいね」


 茜は、ふっと力を抜いて微笑んだ。  

 まるで、俺の覚悟を試していたかのように。


「……葵ちゃん」

「はい」

「私、葵ちゃんのこと、もっと知りたいの」


 茜は、俺の手を両手で包み込んだ。  

 恋人繋ぎのように、指を絡ませる。


「だから、明日。……隠し事なしで、いろいろ教えてね?」


 その言葉が、単なる親愛の情ではないことを、俺は痛いほど理解していた。  

 彼女は、剥がしに来るつもりだ。  

 俺の嘘も、絆創膏も、全てを。


 その夜。  

 俺は、昔の夢を見た。


 まだ実家の寺にいた頃。  

 本堂の仏様の前で、妹の葵が一人で踊っていた。


『お兄ちゃん、見ててね! 私のダンス!』


 汗だくになって、何度も何度もターンを繰り返して。  

 足の皮がめくれても、彼女は笑っていた。


『私、絶対にアイドルになる。センターになって、お兄ちゃんを一番いい席に招待するから!』


 その笑顔が、眩しかった。  

 俺には到底真似できない、魂を燃やすような情熱。


 ――でも、その足は動かない。


 怖い。  

 茜の鋭い視線も、逃げ場のない温泉も、正体がバレる恐怖も、心臓が潰れそうになるほど怖い。  


 でも――。



 あいつが全力でリハビリに励み、もう一度自分の足でステージに立つその日まで。

 俺があいつの「居場所」を死守するんだ。  

 あいつが立ちたくても立てなかった今のステージを、俺の「怖気づいた心」で台無しにすることなんて、仏様だって、そして何より俺自身が許しちゃくれない。


 俺は、城山大輔であることを一時捨てた。  

 あいつが戻ってきた時、最高の笑顔でバトンタッチできるように。  

「……待ってろよ、葵。お前の怪我が治って、また胸を張って踊れるようになるまで。お兄ちゃんが絶対にお前の席を、夢を、壊させない」


 恐怖が、使命感に変わる。  

 冷たかった指先に、熱い血が通うのを感じた。


「……見ていてください、仏様。今の俺は『葵』として、この道を真っ直ぐに突き進みます」


 静かな、けれど揺るぎない決意は、夜の闇に深く溶け込んでいった。


 翌朝、出発直前。  

 集合場所の片隅で、栞里さんが俺を呼び出した。


「大輔くん」

「はい」


 栞里さんの顔色が悪い。  

 昨日の会議の時よりも、さらに深刻な表情をしている。

 大丈夫だろうか。


「……一つ、致命的な問題が発生したわ」

「何ですか、今さら」

「部屋割り」


 栞里さんは、震える手で一枚の紙を俺に見せた。


「茜が、強硬に主張したの。『新人の葵ちゃんが馴染めるように、私が同室で面倒を見る』って」


 俺の思考が、真っ白に染まった。  

 同室。  

 二人きり。  

 一晩中。


「……断れなかったんですか」

「無理よ。プロデューサーも『美しい友情だ』って乗り気になっちゃって……断れば、余計に怪しまれる」


 栞里さんは、天を仰いで深く息を吐いた。  

 そして、俺の肩に、ずしりと重い手を置いた。


「いい? 覚悟を決めて」

「……」

「今夜は、ただのお泊まりじゃない」


 栞里さんの瞳が、鋭く光った。


「――逃げ場のない密室での、取り調べだと思って」


 その言葉が、重い鎖のように俺の全身に絡みついた。


 ロケバスに乗り込む。  

 当然のように、茜が俺の隣の席に座った。


「楽しみだね、葵ちゃん」

「……はい、そうですね」


 茜は、花が咲くように微笑んだ。  

 だが、その笑顔の裏に隠された意図を、俺はもう敏感に感じ取っていた。


 彼女は、確認するつもりだ。  

 俺が、本当に女の子なのか。  

 それとも、喉に傷を持つ別の生き物なのか。


 茜の膝が、俺の膝にぴたりとくっつく。  

 逃げようとしても、窓と彼女に挟まれて動けない。


「温泉って、隠してたものも全部洗い流してくれるもんね」


 茜の囁きが、耳元で甘く響く。


「……葵ちゃんの本当の姿、私に見せてね?」


 バスが動き出す。  

 流れていく景色を見ながら、俺は腹を括った。


 逃げ場は、もうどこにもない。  

 この温泉旅行は、俺と妹の未来を懸けた、命がけの防衛戦だ。

 本日も読んでいただきありがとうございます。

 もし「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけると執筆の励みになります!

 どうぞよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ