第7話 温泉前夜の攻防と、逃げられない「取り調べ」
「いい? 今夜は女子力を磨く日じゃない」
会議室に入った瞬間、栞里さんが長机にバンッ! と資料を叩きつけた。
その音は、まるで戦いの開始を告げる号砲のように響いた。
「明日からの温泉旅行は、生存率を上げるためのミッションよ」
会議室の白い壁が、作戦司令室の冷たい鉄壁に見える。
配られた資料には、温泉旅館の詳細な見取り図と、赤ペンで無数に書き込まれた『DANGER』の文字。
「まず、入浴は絶対に避ける」
「……はい」
「理由は体調不良、生理、のぼせやすい体質、なんでもいい。とにかく大浴場には近づかない」
栞里さんの指が、見取り図の上を滑り、脱衣所のマークを激しく指差した。
「ここが最大の鬼門よ。脱衣所も危険。露天風呂も危険。なんなら廊下ですら、湯上がりで気の緩んだメンバーと遭遇するリスクがある」
「全部、危険地帯じゃないですか……」
「そうよ。ここは戦場なの。だから基本、部屋から出ないで」
栞里さんは真顔だ。
冗談など一ミリも含まれていない。
「でも、夕食はどうするんですか? 宴会場ですよね?」
「個室を押さえたわ。あなたは『体調が優れないので部屋で休む』という設定で、一人で食べなさい」
「……それ、逆に怪しまれませんか? 『葵ちゃん、ノリ悪い』って」
「怪しまれるわよ。当然でしょ」
栞里さんは、冷徹に言い放った。
「でも、バレて社会的に抹殺されるよりはマシ。嫌われる勇気を持ちなさい」
ぐうの音も出ない。
栞里さんは資料をめくり、机の上にいくつかのアイテムを並べた。
肌色の防水絆創膏。
ファンデーション。
そして、薄手のスカーフ。
「喉仏対策。声の対策。うなじの筋肉対策。……全部、これで誤魔化して」
俺は、小さな絆創膏を手に取った。
あまりにも小さくて、薄くて、頼りない。
この一枚が剥がれたら、俺の、いや――妹の人生が終わる。
「……これで、本当に大丈夫なんですか」
「大丈夫なわけないでしょ」
栞里さんは即答し、ため息をついた。
「でも、やるしかないの。……あんたが『葵』でいる限りはね」
昼休み。練習室の空気は、明日への期待で浮ついていた。
「葵ちゃん、明日楽しみだねー!」
ドスンッ!
背後から衝撃が走った。
ひなただ。
彼女は仔犬のように俺の背中に飛びつき、首に腕を回してくる。
「ひゃっ……!」
「あはは、変な声! ねえねえ、私ね、葵ちゃんと一緒にお風呂入りたいの!」
ひなたの顔が、俺の耳元にある。
石鹸の甘い香りが鼻をくすぐり、柔らかい感触が背中全体に広がる。
男としての本能が警鐘を鳴らし、理性が悲鳴を上げる。
「あ、あの……ひなたちゃん、近いです……」
「えー? ダメ? 背中の流しっこ、しようよー」
上目遣いでのキラーパス。
断れば怪しまれる。
受ければ終わる。
冷や汗が背中を伝う。
「ひなた、ええ加減にしとき。葵ちゃん、顔真っ青やで」
救いの手、あるいは別の追手か。
沙織が笑いながら割って入った。
「あ、ごめんね! 楽しみすぎてつい!」
ひなたがようやく離れた。
だが、安堵する間もなく、沙織の冷ややかな視線が俺を射抜く。
「……葵ちゃん、なんやえらい緊張してるなぁ」
「そ、そんなことないです……楽しみで、ドキドキしてて」
「ふーん」
沙織は、俺の首元から足先までを、値踏みするようにじっくりと眺めた。
「楽しみなんや。……怖がってるんやなくて?」
「え……」
「鞘に収まってへん刃は、いつか誰かを傷つけるか、自分が折れるかやで」
意味深な言葉を残し、沙織は歩き去った。
俺は、その場に立ち尽くすしかなかった。
彼女は気づいているのか。
それとも、カマをかけているだけなのか。
どちらにせよ、包囲網は確実に狭まっている。
午後。
人気のない廊下で、茜とすれ違った。
「葵ちゃん」
呼び止められた瞬間、空気が変わった気がした。
「はい……」
「ちょっと、いい?」
返事をする間もなく、俺の手首が掴まれた。
驚くほど強い力。
そのまま、使われていない空き教室へと引っ張り込まれる。
カチャリ、と鍵がかけられた。
「あの、茜さん……?」
「ごめんね。ちょっと、確認したいことがあって」
茜は、ふわりと微笑んだ。
窓から差し込む夕日が、彼女の美しい顔を照らす。
だが、その瞳は笑っていなかった。
凪いだ海のような、底知れない静けさ。
「確認……?」
「うん」
茜が一歩、近づいてくる。
俺は後ずさり、壁に背中がついた。
逃げ場がない。
「葵ちゃんって、女の子にしては体温が高いよね」
茜の手が伸びてきて、俺の頬に触れた。
冷たい指先。
その対比で、俺の顔の熱さが際立つ。
「そ、そうですか……? 平熱、高い方なので」
「うん。すごく、温かい。……安心するくらい」
茜の指が、頬から顎へ、そして首筋へと滑り降りる。
ゾクリ、と背筋が震えた。
「あと、ここ」
喉元。
本来なら滑らかであるはずの、しかし今は絆創膏で隠された、喉仏のある場所。
茜の指先が、その突起の上で止まった。
茜は何も言わなかった。
指だけが、そこに置かれたままだった。
「……っ」
「何か、あるよね」
トントン、と軽く叩かれる。
心臓が破裂しそうだ。
「絆創膏? 怪我したの?」
「あ……はい。ちょっと、カミソリで……」
「そっか。痛い?」
「……少し」
嘘だ。
痛みなんてない。
あるのは、正体が暴かれるという恐怖だけだ。
逃げ出したい。
この手を振り払って、叫び出して、ここから消えてしまいたい。
――でも。
脳裏に、妹の笑顔が浮かんだ。
病院のベッドで、悔し涙を流しながら笑っていた、あいつの顔が。
『お兄ちゃん、お願い』
逃げるわけにはいかない。
俺がここで逃げたら、あいつの夢はどうなる?
あいつが命がけで目指した場所を、俺の弱さで潰すわけにはいかないんだ。
俺は、震える拳を握りしめ、茜の目を見返した。
逃げない。
絶対に、誤魔化し通してみせる。
「無理しないでね。明日、温泉で治るといいね」
茜は、ふっと力を抜いて微笑んだ。
まるで、俺の覚悟を試していたかのように。
「……葵ちゃん」
「はい」
「私、葵ちゃんのこと、もっと知りたいの」
茜は、俺の手を両手で包み込んだ。
恋人繋ぎのように、指を絡ませる。
「だから、明日。……隠し事なしで、いろいろ教えてね?」
その言葉が、単なる親愛の情ではないことを、俺は痛いほど理解していた。
彼女は、剥がしに来るつもりだ。
俺の嘘も、絆創膏も、全てを。
その夜。
俺は、昔の夢を見た。
まだ実家の寺にいた頃。
本堂の仏様の前で、妹の葵が一人で踊っていた。
『お兄ちゃん、見ててね! 私のダンス!』
汗だくになって、何度も何度もターンを繰り返して。
足の皮がめくれても、彼女は笑っていた。
『私、絶対にアイドルになる。センターになって、お兄ちゃんを一番いい席に招待するから!』
その笑顔が、眩しかった。
俺には到底真似できない、魂を燃やすような情熱。
――でも、その足は動かない。
怖い。
茜の鋭い視線も、逃げ場のない温泉も、正体がバレる恐怖も、心臓が潰れそうになるほど怖い。
でも――。
あいつが全力でリハビリに励み、もう一度自分の足でステージに立つその日まで。
俺があいつの「居場所」を死守するんだ。
あいつが立ちたくても立てなかった今のステージを、俺の「怖気づいた心」で台無しにすることなんて、仏様だって、そして何より俺自身が許しちゃくれない。
俺は、城山大輔であることを一時捨てた。
あいつが戻ってきた時、最高の笑顔でバトンタッチできるように。
「……待ってろよ、葵。お前の怪我が治って、また胸を張って踊れるようになるまで。お兄ちゃんが絶対にお前の席を、夢を、壊させない」
恐怖が、使命感に変わる。
冷たかった指先に、熱い血が通うのを感じた。
「……見ていてください、仏様。今の俺は『葵』として、この道を真っ直ぐに突き進みます」
静かな、けれど揺るぎない決意は、夜の闇に深く溶け込んでいった。
翌朝、出発直前。
集合場所の片隅で、栞里さんが俺を呼び出した。
「大輔くん」
「はい」
栞里さんの顔色が悪い。
昨日の会議の時よりも、さらに深刻な表情をしている。
大丈夫だろうか。
「……一つ、致命的な問題が発生したわ」
「何ですか、今さら」
「部屋割り」
栞里さんは、震える手で一枚の紙を俺に見せた。
「茜が、強硬に主張したの。『新人の葵ちゃんが馴染めるように、私が同室で面倒を見る』って」
俺の思考が、真っ白に染まった。
同室。
二人きり。
一晩中。
「……断れなかったんですか」
「無理よ。プロデューサーも『美しい友情だ』って乗り気になっちゃって……断れば、余計に怪しまれる」
栞里さんは、天を仰いで深く息を吐いた。
そして、俺の肩に、ずしりと重い手を置いた。
「いい? 覚悟を決めて」
「……」
「今夜は、ただのお泊まりじゃない」
栞里さんの瞳が、鋭く光った。
「――逃げ場のない密室での、取り調べだと思って」
その言葉が、重い鎖のように俺の全身に絡みついた。
ロケバスに乗り込む。
当然のように、茜が俺の隣の席に座った。
「楽しみだね、葵ちゃん」
「……はい、そうですね」
茜は、花が咲くように微笑んだ。
だが、その笑顔の裏に隠された意図を、俺はもう敏感に感じ取っていた。
彼女は、確認するつもりだ。
俺が、本当に女の子なのか。
それとも、喉に傷を持つ別の生き物なのか。
茜の膝が、俺の膝にぴたりとくっつく。
逃げようとしても、窓と彼女に挟まれて動けない。
「温泉って、隠してたものも全部洗い流してくれるもんね」
茜の囁きが、耳元で甘く響く。
「……葵ちゃんの本当の姿、私に見せてね?」
バスが動き出す。
流れていく景色を見ながら、俺は腹を括った。
逃げ場は、もうどこにもない。
この温泉旅行は、俺と妹の未来を懸けた、命がけの防衛戦だ。
本日も読んでいただきありがとうございます。
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