第4話 崖っぷちの重心と、熱を帯びた腕
リハーサル三日目。
鏡張りのレッスンスタジオには、シューズが床を擦る高い音と、荒い呼吸音だけが充満していた。
「――はい、カット! 葵ちゃん、いいじゃない! もうバッチリだよ!」
振付師の声で音楽が止まる。
俺は額の汗を拭いながら、肺に溜まった熱を吐き出した。
「……ありがとうございます」
笑顔を作る。声のトーンをワントーン上げ、小首を傾げる仕草も、もう意識せずとも自然に出せるようになってきた。
三日間の地獄の特訓の成果だ。
歩く時は骨盤から。
立つ時は内股気味に。
座る時は――脚を開くな。
山が出る。
……慣れてきたのが、怖い
慣れたら、油断する。
油断したら、バレる。
バレたら終わり。
俺も、栞里さんも、妹の葵も。
「休憩にしましょう! 十分後に再開よ!」
沙織が冷えたペットボトルを配り始める。
俺はそれを受け取ると、部屋の隅へ移動し、壁に背を預けてずるずると座り込んだ。
足を開きそうになるのを、慌てて閉じる。
あぶねぇ!
油断するとすぐ「山」が出る。
キャップを開け、水を流し込む。
ごく、と喉を鳴らした瞬間――肌が刺された。
視線。
顔を上げると、給水器のそばに木村茜がいた。
いつものように、群れることなく一人で。
彼女はタオルで口元を抑えながら、じっとこちらを見ている。
その切れ長の瞳には、単なる新入りへの警戒心とは違う、もっと粘度のある「疑念」が混ざっていた。
「……何か、私の顔についていますか?」
俺が極力柔らかい声で尋ねると、茜はハッとしたように小さく首を振った。
「ううん。何でもない」
そう言って、ふいと視線を逸らす。
だが、その横顔は硬く、握りしめたタオルの端が白くなっていた。
――違和感。
茜の中で、その言葉が黒い霧のように渦巻いていた。
城山葵は、完璧だ。
歌も、ダンスも、笑顔も。
三日前に合流したばかりの新人とは思えないほど、すべてが洗練されている。
振り付けを覚える速度は異常なほど早いし、リズム感も正確だ。
それなのに。
何かが、ほんの少しだけ、決定的にズレている。
たとえば、ターンをする時の軸のブレなさ。
普通の女子なら遠心力で少しふらつく場面でも、彼女はまるで床に根を張った大木のように、微動だにしない。
あるいは、ペットボトルのキャップを開ける時の、手首のスナップの強さ。
そして何より――時折見せる、ふとした瞬間の「目の色」だ。
アイドルのキラキラした瞳の奥に、何か、もっと重くて暗い、悟りきったような光が見える。
「茜ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ」
ひなたが、心配そうに覗き込んでくる。
「うん、平気。ちょっと寝不足なだけ」
茜は、反射的に「正解の笑顔」を作った。
でも、心の中では、笑顔とは真逆の言葉が警報のように響いていた。
――私、もう要らないのかな。
葵ちゃんが来てから、社長やスタッフの視線が変わった気がする。
茜の喉の状態を心配する目から、新しい「可能性」である葵への期待の目に。
当然だ。
今の葵ちゃんには、怪我もなければ、喉の不調もない。
何より、圧倒的な「華」がある。
私は、使い古された部品。
彼女こそが、新しいエンジン。
「……茜ちゃん?」
ひなたの声が、水の中にいるように遠くに聞こえた。
視界が、一瞬だけぐらりと揺れた。
休憩が終わり、再びリハーサルが始まる。
今日は、ライブ本番を想定したフォーメーション移動の確認だ。
「セットリスト、三曲目から! 茜、センター。葵はその右斜め後ろ!」
振付師の指示に、茜は無言で頷いた。
イントロが流れる。
激しいビート、複雑なステップ。
茜は、喉の痛みを堪えながら身体を動かした。
負けたくない。あの「完璧な新人」に、私の居場所を奪われたくない。
焦りが、判断を鈍らせた。
ターンをして、後ろに下がるステップ。
本来ならつま先で着地すべき場所で、疲労の溜まった茜の足首が、カクンと鋭角に折れた。
「――っ!?」
世界がスローモーションになる。
バランスが崩れる。
後ろには機材がある。
倒れる。
怪我をする。
――ああ、終わった。
茜が絶望的に目を閉じた、その瞬間だった。
ダンッ!!
床を強く踏み切る音と共に、熱風が巻き起こった。
衝撃が来るはずの背中に、温かいものが触れた。
いや、触れただけじゃない。
ガシリ、と。
まるで鋼鉄のような強さで、茜の身体が宙で受け止められた。
「……大丈夫ですか」
耳元で響いた声が、少し低く出そうになって、慌てて整えられる気配がした。
恐る恐る目を開けると、そこには葵――大輔の顔があった。
彼は、茜の腰と背中を、一本の腕で軽々と支えていた。
信じられないほどの安定感。
華奢なはずの少女の腕から、服越しに伝わってくる、硬く引き締まった筋肉の感触。
そして、ふわりと香った、あの「お香」の匂い。
大輔は、茜の体勢を立て直すと、何でもないことのように手を離し、すっと元のポジションに戻った。
息一つ切らしていない。
まるで、落ちてくる木の葉を箸で掴むような、達人の所作だった。
「あ……うん。あり、がとう」
茜は、心臓が早鐘を打つのを感じた。
今の、何?
普通の女子が、バランスを崩した人間を、あんな風に片手で支えられる?
それに、あの腕の感触。
柔らかくない。
ゴツゴツしていて、熱くて、頼りがいがありすぎて……。
「茜! 葵! 止まらないで、続けるわよ!」
振付師の怒号に、茜はハッとして顔を上げた。
だが、その頬は、自分でも分かるほど熱くなっていた。
リハーサルが終わり、夕暮れのオレンジ色が廊下を長く染めていた。
大輔は、一人で自販機の前へ向かいながら、深く深いため息をついた。
「……やっちまった」
さっきの動き。
完全に「男」が出てしまった。
とっさに茜が倒れそうになった時、思考するよりも先に身体が動いた。
修行時代、崩れかけた石灯籠を支えた時と同じ反射神経で。
あんな風に支えたら、絶対に「男」だと疑われる。
筋肉の硬さがバレたかもしれない。
でも。
茜の、あの恐怖に引きつった顔を見た時、放っておくという選択肢はなかった。
――気になる。
大輔は、冷たい缶コーヒーを頬に押し当てた。
恋とか、そういう浮ついた感情じゃない。
ただ、彼女を見ていると、胸の奥がヒリヒリする。
なぜなら、彼女も俺と同じだからだ。
崖っぷちに立っている。
背後は断崖絶壁。
一歩踏み外せば、奈落の底へ落ちていく。
その恐怖を、誰にも言えずに、強がって笑顔を貼り付けている。
その姿が、寺という閉鎖空間で、自分の存在意義を探してもがいていた自分と重なる。
「……似てるんだな、俺たち。住む世界は違うのに」
呟いた言葉が、誰もいない静かな廊下に吸い込まれていった。
翌朝。
誰よりも早く練習室に入ると、そこには既に先客がいた。
城山葵だ。
彼女は一人で、鏡の前で黙々とストレッチをしている。
その背中は、やはりどこかストイックで、近寄りがたい空気を纏っている。
「おはよう、葵ちゃん」
茜が声をかけると、葵――大輔は、びくりと肩を震わせ、驚いたように振り返った。
「あ……おはようございます、茜さん」
その表情は、どこか怯えているようにも見えた。
まるで、正体を見透かされるのを恐れている小動物のように。
「ねえ、葵ちゃん」
「は、はい?」
「昨日……ありがとう。支えてくれて」
素直な礼を口にすると、大輔は一瞬、きょとんと目を見開いた。
そして、ふわりと、照れくさそうに笑った。
「いえ……当然のことですから。怪我がなくて、よかったです」
その笑顔は、昨日の完璧なアイドルの笑顔とは違っていた。
どこか不器用で、野暮ったくて、でも嘘のない、温かい笑顔。
ドクン。
茜は、思わず胸元を握りしめた。
――なに、今の顔。
可愛い、というより。
なんだかすごく、「格好いい」と思ってしまった自分に動揺する。
「……葵ちゃん」
「はい」
「……これから、よろしくね」
茜は、自分でも驚くほど素直に、右手を差し出した。
大輔は、少し戸惑ったように視線を泳がせ、それから意を決したように、その手を握り返した。
「……はい。こちらこそ」
握り合った、その瞬間。
――ビクリ、と。
茜の身体の奥で、警鐘が鳴り響いた。
葵の手。
それは、女の子にしては骨格がしっかりとしていて、熱いほどに体温が高く。
そして何より、掌の皮が、驚くほど分厚く、硬かった。
……硬い。
ダンスの練習でできるマメじゃない。
もっと別の、何か重いものを、何年も何年も振り回してきたような、武骨な「男」の手。
茜は、そのゴツゴツとした感触に、得体の知れない「ときめき」を感じると同時に――探偵のような冷徹な思考が、脳裏を走るのを感じた。
この手は、普通じゃない。
この子は、何かを隠してる。
それも、とびきり大きな何かを。
茜は、握った手を離さなかった。
むしろ、逃がさないように、ギュッと強く力を込めた。
「……ねえ、葵ちゃん」
「は、はい?」
大輔が、痛みに少し顔を歪める。
茜は、聖母のような、けれど目の奥だけが笑っていない表情で、ゆっくりと口を開いた。
「昨日さ。助けてくれたとき……変な感じ、したの」
「……え?」
茜は振り返らない。
鏡に映る自分の目だけが、葵を捉えていた。
「女の子に助けられた、って感じじゃなかった。守られた、って思ったの。……無意識に」
その一言で、空気が変わる。
スタジオが、真空になったかのように静まり返った。
「……それが、すごく嫌だった」
茜はそこで、ようやくこちらを見た。
試すような目。
逃がさないと決めた人間の目。
「ねえ、葵ちゃん」
「……は、はい」
「あなた――本当に、何者なの?」
その問いは、確認じゃなかった。
確信に、形を与えるためのナイフだった。
「そうだ、今夜、親睦を深めるために私の部屋でお泊まり会しない?」
本日も読んでいただきありがとうございます。
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