第3話 女子更衣室と、射抜く視線
「ねえ、葵ちゃん。更衣室、こっちだよ?」
その瞬間、俺――城山大輔の脳内で、除夜の鐘が乱れ打ちされた。
ゴーン、と重く響くその音は、俺の理性の終焉を告げているかのようだった。
視線の先には、パステルピンクのプレートが掲げられた扉。
そこは、女人禁制の対極にある聖域中の聖域、女子更衣室だ。
……詰んだ。俺の人生、これにて閉幕か!?
鼻腔をくすぐるのは、数分前までステージで激しく踊っていた女の子たちの、甘い汗と制汗スプレーが混じった、暴力的なまでに芳しい香り。
十年間の山籠り修行で、滝に打たれ、獣の気配を察知するために磨き上げた俺の五感が、今、かつてない悲鳴を上げている。
この扉の向こう側には、煩悩の化身たちが「衣を脱ぎ捨てた姿」で存在しているのだ。
「あ、あの……!」
裏返りかけた声を、必死に裏声の「葵モード」へ引き戻す。
声帯を細く絞り、喉の奥を少しだけ上げる。
これは妹の葵を真似る時に編み出した、俺独自の「喉の術」だ。
「私、少し……お手洗いに……。あ、アロマの匂いに酔っちゃったみたいで……」
「あ、じゃあ一緒に行こうよ! 案内するね。葵ちゃん、病み上がりなんだから一人じゃ心配だし」
最年少のひなたが、太陽のような無邪気な笑顔で俺の腕を絡めとった。
二の腕に触れる、柔らかくて温かい、マシュマロのような感触。
……煩悩。これぞ煩悩。
俺の心の中の阿修羅が「逃げろ! 今すぐ山へ帰れ!」と絶叫している。
だが、逃げれば即座に正体が露呈する。
俺は引きつった笑顔を仮面のように貼り付け、冷や汗でカツラを蒸らしながら耐えるしかなかった。
「ひなたちゃん、葵ちゃんはまだ緊張で知恵熱が出そうなの。少し一人にしてあげて」
救いの仏――ならぬ、死んだ魚の目をしたマネージャー、佐藤栞里が、絶妙なタイミングで割って入った。
彼女はひなたの手を優しく、かつ強引に引き剥がす。
「あ……そっか。ごめんね、葵ちゃん。無理しないでね! 鏡の前で待ってるから!」
ひなたが見えなくなった瞬間、栞里は俺を廊下の影へと引きずり込んだ。
その足取りは素早く、獲物を狩る肉食動物のようだった。
彼女は俺の耳元で、般若のような低音で囁いた。
「……大輔くん。もし更衣室の敷居を跨ごうとしたら、私のキャリアが終わ…じゃなかった。その瞬間に葵のキャリアは終わり。だから、あなたを股割りの刑に処して私も消えるわ。いい?」
「言われなくても分かってます……! 土下座したいのは俺の方ですよ……!」
連れて行かれたのは、事務所の奥にある、倉庫同然の薄暗い別室だった。
床には埃が積もり、棚には用途不明のケーブルや型落ちのスピーカーが並んでいる。
その中央に、場違いなほど真っ白な大量の衣装と、鏡と、そして何やら怪しげな「肉色の物体」が置かれていた。
「まず、シルエットの補正よ。大輔くん、葵ちゃんに比べれば細いけど、やっぱり肩幅が広すぎるし、腰の位置が決定的に『男』なの。筋肉の付き方が修行僧そのものなのよ」
「……そんなの、仏様にお願いしても治りませんよ。骨格なんですから」
「神頼みする暇があったら、これ着なさい! この最新型のウエストニッパーとパッド入りのインナーで、無理やり『S字ライン』を作るの!」
栞里が投げつけてきたのは、鋼のようなワイヤーが何本も仕込まれた、見たこともない形状の下着だった。
「……栞里さん。これ、本当に人間が着るものですか? どちらかと言えば、拷問器具か拘束具の間違いでは?」
「いいから黙って着る! アイドルは全員、血を吐きながら可愛さを作ってるのよ! ほら、背筋伸ばして! 腹筋に力入れない!」
「ぐおっ……! 肋骨が……拙僧の肋骨がミシミシと軋みます……! 息が、吸え……っ」
さらに始まったのは、地獄のウォーキング特訓だ。
「大輔くん! 足の出し方が『格闘家』なのよ! 土踏まずを強調しすぎ! もっと内側に重心を置いて、膝と膝を擦り合わせるように、モデル歩きを意識して!」
「内側……。こう、ですか?」
「違う! それは内股のゴリラ! もっと、こう……おしりを振るんじゃなくて、骨盤をなめらかにスライドさせるの! あなた、歩くたびに『ズシン、ズシン』って効果音が聞こえてきそうなのよ!」
栞里が俺の腰を掴んで、強引に位置を調整する。
至近距離で女性の体温を感じるたび、俺の心経は乱れに乱れた。
「……っ!」
「何赤くなってるのよ。私、今あなたのこと『ただの丸太』だと思って触ってるから。煩悩捨てなさいよ、お坊さんでしょ! 女子力ゼロのマネージャーに負けてどうするの!」
「無茶を言わないでください! アイドルを前にした時に比べればマシですが、栞里さんだって一応は――」
「『一応』って何よ! 殺すわよ!」
それからの時間は、正確には覚えていない。
ただ、鏡の前で何度も姿勢を直され、歩けば止められ、止まれば直され、息をするだけで「違う」と言われ続けた。
気づいた時には、自分がどう立って、どう笑えばいいのかさえ、分からなくなっていた。
俺は、自分が大輔なのか葵なのか、あるいはただの「女装した丸太」なのか、精神崩壊を起こしそうになっていた。
翌日。
俺は、再び「城山葵」という、完璧に磨き上げられた仮面を被り、楽屋の敷居を跨いだ。
「皆様、お疲れ様です。……改めまして、城山葵です。よろしくお願いいたします」
声のトーン、完璧。
仕草、昨日の猛特訓の成果により、指先までしなやかに動く。
「よろしくね、葵ちゃん! 一緒に活動できるの、本当に楽しみなんだから」
「うちも、葵ちゃんのファンやってん。またあのキレキレのダンス見せてなぁ」
ひなたと沙織は、俺を温かく迎え入れてくれた。
その好意が、俺の罪悪感をチクチクと刺激する。
だが。
不動のセンター・木村茜だけは違った。
彼女は、鏡越しに俺を射抜くような、鋭利な刃物のような視線で見つめていた。
「……よろしく、葵ちゃん」
茜がゆっくりと椅子から立ち上がり、俺の目の前で足を止める。
彼女の鋭い瞳が、俺の首元、そしてパッドで補正されたはずの肩のラインを執拗になぞる。
まるで、皮膚の下に隠された真実を透視しようとしているかのようだ。
「一緒に、頑張ろうね。……ところで、葵ちゃん」
「は、はい……?」
茜は、すぐには何も言わなかった。
ほんの数秒。
ただ、黙って俺を見つめている。
その沈黙が、
どんな叱責よりも、俺の心臓を締め付けた。
「……あなた、前からそんなに、お香のような匂い、させてたっけ?」
――心臓が、冷たい氷水を飲まされたように凍りついた。
お香の匂い。
山での十年間、毎日、朝から晩まで経を唱え、抹香にまみれて過ごした日々。
それは洗っても落ちることのない、俺という「僧侶」の残り香だった。
「あ、これ……えっと、最近アロマに凝っていまして……! 落ち着くんです、この香木のような香りが……!」
「ふーん。十代の女の子にしては、随分と渋い趣味ね」
茜は不敵な笑みを一瞬だけ浮かべ、そのまま俺の肩を軽く叩いてリハーサルへと向かっていった。
叩かれた場所が、妙に熱い。
俺は、その場から一歩も動けなかった。
その日の深夜。
女子寮の一室。
茜は一人で鏡の前に座り、タブレットで葵の過去のライブ映像と、今日目の前にいた「葵」を交互に見比べていた。
「……やっぱり、違う」
肩の揺れ。
階段を降りる時の、僅かな足首の角度の変化。
そして何より、あの至近距離で感じた、女同士のライバル心とは違う……もっと根源的な、喉の奥がヒリつくような「違和感」。
あの「葵」に見つめられた時、自分の心臓がなぜあんなに跳ねたのか。
ライバルへの対抗心ではなく、もっと別の、説明のつかない感情。
「……あんた、本当に、葵ちゃんなの?」
本日も読んでいただきありがとうございます。
もし「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけると執筆の励みになります!
どうぞよろしくお願いします。




