第2話 煩悩と秘密の階段
会議室を飛び出し、重い非常扉を押し開ける。
たどり着いたのは、夜の冷気がコンクリートに染み付いた、無機質な非常階段だった。
階下からは、まだ微かにファンの喧騒や、撤収作業の音が遠雷のように響いている。
「……助かった」
俺――城山大輔は、震える膝をどうにか支えながら、壁に背を預けた。
ずるずるとその場に座り込みそうになるが、慌てて思い直す。
そうだ、今はスカートを履いているんだった。
雑に座ればシワになるし、何より「中身」が露呈しかねない。
「――南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
無意識に胸の前で合わせようとした両手を、電気が走ったような速さで引き離す。
今の自分は、山での厳しい修行に耐える城山大輔ではない。
彗星のごとく現れた、期待の美少女新人アイドル「城山葵」なのだ。
「……マジで、何してんだ俺は」
思わず漏れた声が、低く太い地声になりかけて、慌てて喉を締め上げた。
危ない。
一瞬の油断が命取りだ。
女の子の声。
妹の、葵の声。
鈴を転がすような、柔らかくて、どこか透明感のあるあの声を、脳内の再生リストから呼び出す。
裏声ではない。
喉の筋肉を特殊な形に固定して出す、修行の末に(?)身につけた「完璧な擬態」だ。
それを維持しなければならない。
たった今、あの会議室で「よろしくお願いいたしますわ」と、可憐な微笑みと共に宣誓してしまったばかりなのだから。
だが、心臓の鼓動がいつまでも鎮まらない。
さっきまで目の前にいたのは、全員が本物の、プロの女の子たちだった。
ステージのライトを反射して光る肌、ふんわりと漂う甘い香水の匂い、そして、同性であるはずの「葵」に向ける、親愛と警戒が混ざった眼差し。
男として、ましてや女人禁制に近い山で十年を過ごした修行僧として、あの空間はあまりに毒が強すぎた。
「……煩悩退散。煩悩退散……煩悩退散……」
頭を振るが、不自然に頭皮を締め付けるカツラの感触が、余計に俺をパニックにさせる。
退散しない。
煩悩が、あの大音量のライブ会場の熱気のように、俺の全身にまとわりついている。
やはり、俺のような未熟者にこの修行(替え玉)は無理だったんだ。
「大輔くん!!」
背後から響いた掠れた声に、心臓が口から飛び出しそうになった。
振り返ると、そこにはマネージャーの佐藤栞里が立っていた。
普段の、書類をバラ撒いたり忘れ物をしたりする「おちょこちょいな彼女」の面影はどこにもない。
街灯の影に落ちたその顔は、幽霊のように青ざめ、ひどく疲れ果てていた。
「……栞里さん」
「ごめん。本当に、本当に……ごめんなさい」
彼女は、震える両手で顔を覆い、絞り出すような声で泣き始めた。
「私のせいなの。葵ちゃんが怪我をしたのは、私が無理なスケジュールを組んで、階段のチェックを怠ったせいで……。社長にバレたら、私は即座にクビ。いや、それだけじゃないわ。葵ちゃんのこれまでの努力も、グループの未来も、全部私のこの無能なミスのせいで、跡形もなく消えてしまうの」
栞里の声は、コンクリートの壁に跳ね返って、悲痛に響いた。
冗談や誇張ではない。
彼女は、本気で自分の首を括るような覚悟でここに立っている。
「だから、お願い。大輔くん。葵ちゃんがリハビリを終えて、ステージに戻れるようになるまででいい。あと三ヶ月、いえ、二ヶ月でいいの。お願い、彼女になりきって……!」
「二ヶ月、ですか」
大輔は、自分の身体を抱きしめるように腕を組んだ。
女装して、アイドルとして、女子たちと同じ屋根の下で暮らし、ステージに立ち続ける。
そんなこと、正気の沙汰ではない。
バレれば詐欺だ。
社会的に抹殺される。
それ以前に、女子更衣室や風呂といった「地獄の門」をどう潜り抜ければいいというのか。
「無理ですよ。俺は、アイドルの『あ』の字も知らない、ただの坊主頭の替え玉なんです」
「大丈夫よ! 葵ちゃんから、何度も聞いていたわ。大輔くんは昔から、葵ちゃんの真似が驚くほど上手だったって。声のトーンも、笑う時の口元の癖も、歩き方まで……。あなたなら、ファンさえも騙し通せるって」
それは、否定できない事実だった。
双子という血の繋がりは、時に恐ろしいほどの同期を見せる。
子供の頃、入れ替わって親を騙し、小遣いをせしめたこともある。
だが、それはあくまで無邪気な遊びだったはずだ。
「栞里さん。これ、遊びじゃないですよね。一歩間違えれば、全員破滅ですよ」
「……ええ、分かっているわ」
栞里は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、涙に濡れた絶望と、一点の曇りもない決意が同居していた。
「遊びじゃない。最低な嘘だし、冒涜だわ。でも、私は葵ちゃんの夢を守りたいの。あの子が、どれだけ血の滲むような練習をして、このセンターの座を掴み取ったか、一番近くで見てきたから。あの子から、アイドルの光を奪いたくないの」
大輔は、スカートの裾を強く握りしめた。
妹、葵のこと。
幼い頃から、古い寺の本堂で、一人でアイドルのダンスを踊っていた妹。
修行に出る俺を見送る時、「お兄ちゃんが帰る頃には、日本一のアイドルになるから」と笑っていた。
その夢が、不慮の事故で、今まさに消えようとしている。
……けれど、俺の心を動かしたのは、それだけではなかった。
さっき、会議室で目が合ったあの少女――木村茜。
自分(葵)を見た時の、彼女のあの瞳。
ライバルを睨みつけるような鋭さの奥に隠された、縋るような、助けを求めるような切実な光。
――俺は、必要とされている。
静寂の中で経を唱え、誰の役にも立っていないのではないかと自問自答していた山での十年間。
そこにはなかった、「誰かのためにここにいる」という強烈な実感が、今、この偽りのスカートの中で脈打っている。
「……二ヶ月、ですね。一分一秒たりとも、気を抜けない二ヶ月だ」
「……! やって、くれるの?」
「葵のためです。バレたら終わり。地獄行き確定。……やるしかない。」
大輔は、深く、深く息を吸い込んだ。
肺に溜まった冷たい空気が、熱くなった頭をわずかに冷ます。
妹のため。
栞里さんのため。
そして、あのセンターの少女のため。
……いや、本当は。
この、嘘とハラハラに満ちた、熱い「生」の感覚を、自分自身が手放したくないだけなのかもしれない。
「やりましょう。ただし栞里さん。明日からは、俺を本物のアイドルにしてください。歩き方、踊り方、そして……女としての『心』まで」
「……ありがとう、大輔くん! 絶対に、絶対にバレさせないから!」
栞里は、大輔の細い(ように見えるよう加工された)肩を抱き寄せ、何度も頷いた。
こうして、一人の修行僧による、前代未聞の「嘘」が動き出した。
それは、煩悩と策略が渦巻く、キラキラした地獄への第一歩。
非常階段を降り、再び輝く楽屋へと戻る。
その瞬間――
「ねえ、葵ちゃん。更衣室、こっちだよ?」
ひなたが、笑顔で手を振っていた。
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