第11話 甘やかな包囲網と、泥沼の挑発
ああ……仏様。俺は修行半ばで死んでしまったのでしょうか……
朝。
事務所の控え室には、極彩色の花畑のような香りが充満していた。
「……あの、皆さん。ちょっと近くないですか?」
俺は、ふかふかのソファの上で、物理的な幸福と精神的な窒息の狭間にいた。
右腕には、茜。
彼女のサラサラとした黒髪が俺の肩にかかり、凛としたローズの香りが鼻腔をくすぐる。
左腕には、ひなた。
小動物のように俺の二の腕に抱きつき、甘ったるいバニラの香りを放ちながら、むにゅ、と柔らかい感触を押し付けてくる。
そして背後には、沙織。俺の髪を櫛で整えながら、京女らしい白檀のような上品な香りを漂わせている。
視界が、匂いが、感触が、俺の「男としての本能」をダイレクトに攻撃してくる。
心頭滅却。心頭滅却。
俺は必死に般若心経を高速で脳内詠唱した。
油断すれば、男としての反応が物理的に露呈し、この極楽が一瞬にして焦熱地獄へと変わってしまう。
「近くないわよ。これくらいしないと、どこからハイエナが狙ってくるか分からないもの」
茜が、俺の腕をさらに強く抱きしめる。
「そうそう! 葵ちゃんは私たちが守るの! ……あ、葵ちゃん、ちょっと肩凝ってる?」
ひなたが、俺の肩の硬さに気づいて、揉みほぐし始めた。
「う……。ちょっと、そこは……」 「じっとしてて。私、マッサージ得意なんだから!」
ひなたの小さな手が、俺の僧帽筋を懸命に押す。
その必死な顔が、ふと妹の葵と重なった。
「……ふふ。ありがとう、ひなたさん。すごく楽になりました」
俺が素直に礼を言うと、ひなたの動きがピタリと止まった。 耳まで真っ赤にして、パッと俺から離れる。
「べ、別に! 好きでしてるんじゃないんだからね! 万全の状態じゃないと、私たちのパフォーマンスに響くから……そう! リーダーの茜ちゃんに迷惑かけないためなんだから!」
典型的なツンデレだ。
でも、その瞳の奥には「役に立てて嬉しい」という色が滲んでいる。 なんていい子なんだろう。
……俺が男だとバレたら、この子は一番傷つくかもしれない。
胸が痛むと同時に、沙織が低い声で呟いた。
「……ハイエナのお出ましやで」
空気が凍りついた。
ドアが開き、神宮寺蓮が入ってくる。
今日も完璧なスタイリング。
だが、その目は笑っていない。
「おはよう、子猫ちゃんたち。……うわ、すごいね。三人で固まって、怯えてるの?」
神宮寺は、わざとらしく鼻をつまんだ。
「過保護な親鳥に守られた雛鳥って感じ。……見てるこっちが恥ずかしくなるよ」
「……挨拶もなしに嫌味ですか。育ちが知れますね」
茜が冷たく言い返す。
だが、神宮寺はノーダメージだ。 むしろ、その敵意を楽しんでいる。
「事実を言っただけだよ。プロの現場に『仲良しこよし』を持ち込まないでくれる? ……特に、そこの新人」
矛先が、俺に向いた。
「守られてる自覚ある? 君さ、自分の足で立ってないよね。周りに浮き輪つけてもらって、プールに浮かんでる子供みたい」
鋭利なナイフのような言葉。
茜たちが激高しようとした瞬間、俺は静かに立ち上がった。
「……ご忠告、痛み入ります」
俺は、神宮寺の目を真っ直ぐに見返した。
確かに、俺は守られている。
女装という嘘も、日々の生活も。 だが、「ステージに立つ覚悟」だけは、誰かに守ってもらうものじゃない。
脳裏に浮かぶのは、病院のベッドでリハビリに励む妹の姿だ。
あいつは泣き言一つ言わず、地獄のような痛みに耐えている。
その代役である俺が、男の嫌味ごときで揺らいでどうする。
「ですが、浮き輪をつけてでも、私は溺れるわけにはいきません。……待っている人がいますから」
俺の言葉に、神宮寺が片眉を跳ね上げた。
「……へえ。言うようになったじゃん」
その時、栞里さんが青ざめた顔で入ってきた。
「みんな、聞いて。……今回のコラボライブの演出、変更が入ったわ」
配られた資料を見て、茜が息を飲んだ。
そこに描かれていたのは、単なるペアダンスではない。
男女が絡み合うような、情熱的で、逃げ場のない「超密着」のコンテンポラリーダンス。
「リフト、抱擁、そして……顔が触れ合う距離での見つめ合い」
栞里さんの声が震えている。
これは、ただの演出じゃない。 神宮寺による、俺への「検閲」だ。
この距離で踊れば、骨格も、筋肉の付き方も、匂いも、全てが露呈する。
「断れないんですか!?」
ひなたが叫ぶ。
「無理よ。スポンサー側の意向も絡んでる。……神宮寺くんが、強く推したみたい」
俺は拳を握りしめた。
やるしかない。
修行時代、滝行で精神を統一したように、肉体の情報を制御するんだ。
男であることを、気迫でねじ伏せるしかない。
午後、合同リハーサル。
スタジオの空気は、張り詰めた糸のようだった。
「じゃあ、いくよ。葵ちゃん」
音楽が鳴る前。
神宮寺がいきなり、俺の腰を引き寄せた。
強い力。
俺の重心が崩れそうになる――が、俺はへその下に力を込め、踏ん張った。
ガシッ。
足裏が床に吸い付くような、武道の立ち方。
「……お?」
神宮寺の眉が、わずかに歪んだ。
――崩れない。
引き寄せたはずの体が、岩のように踏み留まっている。
普通の女の子なら、今の力で簡単によろめいて、彼の胸に倒れ込んでいたはずだ。
「やっぱり、面白い。……その体幹、どこで鍛えたの? バランスボール? それとも……もっと実戦的な何か?」
神宮寺の手が、背中から腰へ、執拗に這いまわる。
ダンスの振り付けを装った、ボディチェック。
「……」
一瞬。
茜は、動かなかった。
神宮寺の手と、俺の腰。
その距離を、冷静に測るように、ほんの一拍だけ視線を走らせる。
そして――。
「いい加減にして!」
バシッ! 茜が、神宮寺の手を払い除けた。
スタジオ中の視線が集まる。
「リハーサルでしょ! 必要以上に触らないで!」
茜の肩が怒りで上下している。 その目には、涙すら浮かんでいた。
俺を守ろうとする必死な姿。
……けれど、それは神宮寺にとって最高の「餌」だった。
「……はあ」
神宮寺は、わざとらしく大きなため息をついた。
そして、冷ややかな目で見下ろす。
「茜ちゃんさぁ。うるさいんだよ、さっきから」
「なっ……」
「過保護もそこまでいくと異常だよ。……そんなに大事ならさ」
神宮寺は、ゆっくりと、蛇が鎌首をもたげるように茜に近づいた。 そして、残酷な提案を口にする。
「代われば?」
「……え?」
「葵ちゃんが汚されるのが嫌なんだろ? だったら、茜ちゃん。君が俺の相手役になりなよ」
神宮寺は、ニヤリと笑った。
「その代わり、ただのダンスパートナーじゃない。……プライベートも含めて、俺の『相手』をしてくれるってことだよね?」
茜の顔から、血の気が引いていく。
これは、究極の二択だ。
葵(俺)を人柱として差し出すか。
それとも、自分自身をこの男の毒牙にかけるか。
「な……何、言って……」
「決めなよ、リーダー。可愛い後輩を守るんだろ?」
神宮寺は、楽しそうに俺と茜を交互に見つめた。
俺は悟った。
こいつは、俺の正体を暴くことすら「遊び」の一つでしかない。
このユニットの絆を、信頼を、ドロドロに掻き回して壊そうとしているのだ。
茜が、震える唇を開こうとする。 ――言わせてはいけない。
俺は一歩、前に踏み出そうとした。
だが、その瞬間。
神宮寺の視線が、俺を射抜くように釘付けにした。
「動くなよ、新人」
本日も読んでいただきありがとうございます。
もし「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけると執筆の励みになります!
どうぞよろしくお願いします。




