第7話「呼称」
戦場は、今日も崩れていた。
だがその崩壊は、もはや“破壊”という言葉では説明できない。
最初から存在しなかったものが、そこから消えていくような感覚だった。
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観測ドームの中で、主人公は静かに座っていた。
モニターは映像を流している。
白い天使。
戦場の中心。
すべてを終わらせる存在。
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だが、主人公の視線はそこには向いていなかった。
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頭の中に残っているのは、ただ一つ。
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名前。
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それだけが、異常なほど鮮明だった。
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「……なんでこれだけ残るんだ」
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声は誰にも届かない。
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思い出そうとするたびに、他の記憶が薄れていく。
会話。
感情。
戦場の断片。
それらは全部“霧”のように崩れる。
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なのに。
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名前だけは、崩れない。
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まるで最初からそこに刻まれていたかのように。
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そのときだった。
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通信が入る。
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ノイズはない。
だが、いつもより“近い”。
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「観測継続中」
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彼女の声。
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主人公は息を止める。
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「お前は……」
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言いかけて、止まる。
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“お前”という言葉が、正しいのか分からない。
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彼女は敵か。
味方か。
それすら曖昧になっている。
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「対象の認識に変化があります」
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静かな声が続く。
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「あなたは彼女を、単一名詞として固定しています」
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主人公は眉をひそめる。
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「単一名詞……?」
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「はい」
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短く返される。
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「それは“個体識別”ではなく、“概念固定”です」
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主人公の胸がざわつく。
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「……どういう意味だ」
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沈黙。
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そして。
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「あなたは彼女を“名前としてしか認識できなくなっている”」
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その瞬間。
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世界が少しだけ歪む。
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主人公は気づく。
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彼女の“名前”を思い浮かべた瞬間。
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それ以外の情報が、全部曖昧になる。
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顔。
声。
記憶。
距離。
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全部がぼやける。
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「……ふざけるな」
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主人公は立ち上がる。
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「俺は覚えてるはずだ」
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「戦ってた」
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「一緒にいた」
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言葉が途切れる。
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“いつ”?
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それが分からない。
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通信の向こうで、彼女は静かに言う。
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「それは確認できません」
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主人公の中で、何かが冷えていく。
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「……じゃあ、これは何だよ」
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「残ってる“これ”は何なんだよ」
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沈黙。
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そして。
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「それは」
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少しだけ間があく。
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「あなたが最後に保持できる形です」
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主人公は息を呑む。
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最後に保持できる形。
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つまり。
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これ以上はもう残せない。
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「……じゃあ俺は」
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声が震える。
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「こいつのことを……忘れるのか?」
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通信の向こうで、わずかな静寂。
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そして。
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「忘却ではありません」
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「収束です」
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主人公は膝をつく。
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収束。
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つまり。
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消えていくのではなく。
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一つに“固定されていく”。
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「……それでも」
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主人公は呟く。
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「これだけは残るんだろ」
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胸の奥にある名前。
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それだけが、確かだった。
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通信が続く。
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「はい」
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短い返答。
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「それは“あなたにとっての彼女”です」
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その瞬間。
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主人公は気づく。
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“あなたにとって”。
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その言葉の違和感。
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まるでそれが、事実ではなく定義であるかのように。
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「……違うだろ」
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主人公は小さく笑う。
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「それは“彼女そのもの”だろ」
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沈黙。
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長い沈黙。
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そして。
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通信が切れる。
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戦場は続いている。
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だが主人公の中では、何かが静かに崩れていく。
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名前だけが残る世界。
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それ以外が、少しずつ消えていく世界。
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そして遠く。
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白い天使は、何も変わらずそこにいる。
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ただ一度だけ。
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ほんの一瞬だけ。
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こちらを見た気がした。




