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器編 一章

 私には分かっていることがある。知恵も記憶も捧げる前から授けられた啓示、生まれた時に決められた運命。

 全ての人類が到達できず、誰にも知られていない全能の神の存在。神と呼ぶにはあまりに曖昧な存在で、それでも名付けるにはそれしか相応しくない、空想に等しき感覚。

 私の心を絡めて引いてゆく幻想の糸に、太陽の熱と、海の匂いと、大地の風が爪弾く。神あっての私達、そして私だけの神様。

 閉じた瞼を開き、雲と宇宙の大空を仰ぐ。足に伝わる浅瀬の川の流れに逆らって、ゆったりと動かした。

 神様、あなたの御身を感じずとも、この世の全てにあなたを重ねられる。今がある理由、過去を作る理由、そして未来を繋ぐ意思。

「何故、分からないのでしょう。唯一の神は居るというのに、世界は神を作りたがります。それに、私達は神ではなく、支配者を崇めている……。神の存在を取るに足らずと考えています」

 胸が張り裂けそうに痛むこの悲しみを声に乗せ、天の果てまで届くように鋭く叫ぶ。

「この苦しみの感情でさえ、神様からの無償の愛だからこそ成せる魂の輝きであるにも関わらず! 喜怒哀楽さえ……! それさえ! あなたは見返りを求めず、世界を保つための礎となっている! 私はあなたに恩を返したいのです! けれどあなたは何が欲しいのか何も仰らない! 何も言わず、動かない! そのまるで存在しないかのように振る舞って、忘却の彼方へ戻ろうとも、私だけはあなたの存在を信じ続けますから……!」

 相変わらぬうつしよからの脱却。物言わぬ神様へのせめてもの感謝。その二つどちらも欠くことなく、私の意思から生まれた私の気持ち。

 嬉しくとも、恐ろしくとも、どちらでも体は震えるだろうが、今の私はどうなのだろう。

 ならばせめて、万感の想いを込めて舞を捧げよう。

 右腕を前へ差し出し、目を離さないように見据える。体の震えが止まるように……いえ、震え飽きるまで、初めは深く呼吸を行った。

 ──指先を伸ばして天へと刺した。小刻みに上下左右に動く体を一定方向へと強く動かし、且つ、勢いに流されて倒れないように円を描く。

 喜びを表現するように大きく身を振って、余分な力を入らせないように制止することを抑える。

 ダンス。何故そんなものがあるのだろうか。そもそも、人が踊る必要性はあるのだろうか。

 震える体を弦のように弾かせる。やがて飽きる余興を長引かせるため、素足で川の水を叩いた。

 命が魅せる静かな舞。鬱屈な日常を彩ろわせ、停滞するもどかしさの気を晴らせる。

 このまま……命果てるまで、何もかもを捧げてしまいたい卑屈な心。自由を欲する程に比例して膨れ上がる諦観の泥。

 なんて、不自由な……。

「──綺麗だな、お前」

 今までに聞いたことのない種類の声に、私はすぐに胸元を隠して辺りを見渡した。

 木の下の日陰で胡座をし、目が合うと片手で目元を隠す子供が居た。

「悪いな。透けてる部分はあんまり意識してないから何も見てないってことにしてくれ」

 ……平らな胸元、やや大きい肩幅、やや低い声、やや傷んだ短髪。子供でも誤魔化しきれないサガというものが、私の中に秘める忌まわしき使命を呼び起こそうとしていた。

 だが、もしそうならば……そうだとしてもだ。こんなことであの人を始末してしまっては、私はみんなと同類に過ぎなくなってしまう。

 それにこんな所にわざわざ侵入して来るのだ。そして姿を現した。例え支配者様の為の私達だとしても、今もある私の心が信じる正義を保つには、欲や罪など振り払わなければならない。

「……男、ですよね」

 私は砂利の上に畳んであった緑のマントを羽織り、濡れた体を隠して彼に近付いた。

 彼は臆することなく鎮座する。

「そうだ。俺の名前はセンナノ。お前は?」

「……トートです」

「俺がここに寄ったのはある危険な組織の正体を突き止める為だ。かの有名な全知の女神様に会いたいんだが、出来るか?」

「その前に……早くここから出て行った方が良いでしょう。ここは余所者が腰を落ち着ける場所では無いのですから」

 出来る限りの忠告にフッと笑われる。目元を隠した手を下げて、のっそりと立ち上がる。

 その瞳は肌の色をしていた。茶色や黄色味がかったようなものではなく、白にほんの少し桃色を足したような、そのまま肌の色だ。

 目玉に……この色をしているのは自然ではありえない。私達と同じ造られた人間……。

 脳裏には二つの仮説が思い浮かんでいた。それはこの鳥籠から居なくなり、愛する人と旅立っていったという十一型のスペア人の子孫ではないかと。

 もう一つは……この人こそが、私の信じる神様そのものではないか。

 運命の支配者様。あなたはなんと慈悲深いのでしょう。私にはどんな試練でも必ず正しい道をゆける自信がある。それを試すかのように目の前に現れたそれは、まるで太陽のように見えていた。

 絶え間ない息苦しさを脱する為の希望のような何かを感じるのだ。

 ……彼は目を閉じた。くるりと私に背を向けて、手を頭の後ろに組んで空を仰ぐ。

「なんだ、どうした。辛そうな顔してよ」

「そんな風に見えますか」

「……ここのルールはよく知らないけど、お前って結構優しいだろ。一目見て分かるくらいのお人好しってこういうのなんだなって分かるもんなんだな。だから今、そんな人が今している顔は、そんな何かを押し殺したような表情をしているってことは、よっぽどのことだと思ったんだ」

 無防備な背中。私を人として扱ってくれている。

 本当の自分の醜さを誤魔化す為に、殊勝で大人しく、かつ卑屈にも似た自己肯定の低い振る舞いをし続けて来たわけだけれど、ここで親切にしようとする私の頭の中は果たして本心か、はたまた建前か……。

 心と心臓が結びついたような、不安になるほどの力強い鼓動の赴くままに声を吐き出す。

「あなたのお探しになっている全知の女神は、恐らく川を下った先にある橋のあたりで、右手側を進むと白い塗装がされた小さな家に住んでいるクロヤ様のことでしょう。おいたわしい……」

「そのクロヤってのは、何かあんのか?」

「二代目の巫女です。先代はまだ六つの頃に行方不明となりました。その代わりとして、同じ型とは言え闇の器であるにも関わらず兼任なされたのです」

 彼が眉間に皺を寄せながらこちらへ向いた。

「なるほど、化け物ってことね」

「え……?」

「お前達スペア人は他の星々からなんと呼ばれているか知っているか。宇宙最強の人間だ、ディザスターだ。ただでさえ大の大人が束になろうとスペア人の小娘一人倒せないというのに、最強であるはずのそいつらが崇めている概念的存在がある。支配者と言ったか。俺達食物連鎖の王が知らないというのだからおそろしい」

「……知っているんですね」

「ああ。で、闇の器っていうのは恐らく支配者の器ってことだろう。支配者にどれだけ種類があるかは知らないが、巫女ってのも同じようなもののはずだ。つまりだ、全知の女神は知恵の支配者で、行方不明ということはその力は残されていないってことだ」

「……」

「クロヤはアドリブで巫女やってんだよ。確かにここの人はみな恐ろしいが、真に恐ろしいのは───」

「センナノ様はよくご存じなのですね。お知り合いでしたか?」

 息を吐くように出てくる正解に、ごく自然な返しをすると彼はビクリと止まる。

 整合性の無い会話の展開は、静寂の後に浮き彫りになっていく。

 私は私の中で、彼の言葉を咀嚼した。

「……私は、自分の生まれた意味を知っています。これからどう生きていくのかも見えている。あなたは……それすらも知らないように見えます」

「人は誰しも死ぬ意味すら知らない。だから生きる意味も知らないよ」

「私は人ではないと?」

「人の指標はみなすべからく己だ」

「自分の生き方に理由も当てはめられなければ……」

「……失礼した。俺はただの余所者、馴れ馴れしかったんだ」

 彼は私に背を向けて、焦茶色のコートの内から銃を取り出す。

 横目に刃のような鋭い視線を送った後、光から逃れるようにフードを被る。

 彼と私の間には掴むことも触れることもできない透明な壁が出来ているに違いないと、臆病な私にはそう思い込む方法しか取れなかった。

「カマをかけられてまんまと乗る俺が悪いんだが、その間抜けな俺をそのまま見逃そうとするなぞお前の立場を危うくするぞ。ご想像通り俺はヘヴンスターからやってきた諜報員だ。さあ……かかってこい」

 彼の左手の袖から刃が妖しく煌めいた。隠し武器にしては、あまりに露骨な種明かし……私の行動はさらに誘導されていく。

 私はこのまま他人のままで、この瞬間を些細な事故として受け止めるべきなのだろうか。変わらない時代から抜け出して、新しい世界へ踏み出すわずかな希望を選ばずに生きつづけるしかないのだろうか。

 選択肢は用意されていない。殺意のない彼の刃が届く距離まで足を踏み出して、自分の素直な気持ちを吐き出してしまった方が良いとはわかっている。自由に怯え、嫌っていたはずの束縛に縋ることで安堵しようとする自分に悲しくなる。

 投げやりな気持ちで彼に手を近づけようとすると、彼は振り返って銃口を突き付けた。

「……俺はこれから全知の女神を頂いていく。初代全知の女神を攫ったように、俺がもう一度同じようにだ。そんなやつに何を求める? 善人を食い物にしてきた俺に何をさせたい?」

「あなたには全てが分かっているはずです。ここがあなたにとっての故郷なのかもしれないと……」

「うるさい! 女だけの星に俺の居場所などあるものか!」

「それは私達がスペア人だからで……!」

「人を越えた神などいるものか! 宇宙への移民すらままならない文化レベルの低い地球には、高度な文明を築いた別の地球人が自らを神と名乗り資源を奪っている! 天地揺るがす竜も、青い海を暗黒にせし死滅の巨大魚も、全て人の手で家具に変えられる! 俺達は地球戦争をやっているんだ! 絶対的強者であり戦争をする必要すらないお前達に、俺の心配などされたくはない!」

「神様はそんなこと望んではいません!」

「神というのは! 人間が人を家畜にするために作られた都合のいい道具でしかない。目先の安寧をチラつかせて、より大きな利益から目を逸らせ、自分たちだけ吸い上げた富を使ってのうのうと欲望の限りを尽くすクソッタレのゴミ人間がその正体なんだよぉ!」

 彼の手が私をぶった。怒りにまみれたその手は私を飛ばし、浅瀬の川の水が大きく跳ねる。

 切れた唇に触れた。水に濡れ、冷えた体にまだ暖かさが残っていることにおどろかされながら、太陽を背に影で表情が読み取れなくなった彼を見上げた。

「お望み通り、俺の腹のうちをぶちまけてやった。気が済んだか?」

「……」

「お前は……甘えている。この世界からはみ出して、今の自分を保ったままでいられる訳がない。俺に縋っても、この俺の素直な気持ちを受け入れられないのなら、そもそも生まれてきたことすら間違っていたのかもなぁ?」

 大袈裟なジェスチャーでことごとくを否定される。言葉には、まるで本当にそう考えているというような、皿にこびりついた油のようなしつこさのある重みを乗せていた。

 彼のことを知らない私が踏み込んでいい領域ではなかったのかもしれない。しかし、彼もまた私の状況や、気持ちを完全に理解しているはずがない。

 ただ一つ、これから先について分かっていることは、私が見える未来と彼の見える未来は全く違っていること。彼が知っていることは私よりも遥かに多いのだろう……そうだとしても、私がその差を想像力で補うことが出来れば対等になれるはずなのだ。

 泣けばいいか? 親も姉妹もいないことに寂しがれば構ってくれるか? 自分の存在を否定すれば肯定してくれるか? どれだけの私のプライドを折ればセンナノ様は好きになってくれる?

 そうだ。私は彼が好きだ。好きだということを隠すこともしていない。だから彼はその重みを振り払い、スペア人としての道へ押し返そうとしている。

 思考を省いても結果が分かるくらいには知能が高い私達。言葉の交わし合いなど、ただの飾りでしかなかった。

「なんだ、まだ飲み込めないか」

「……」

「いいだろう……。出たければ出ればいい。この森のどこかにヘヴンスターの宇宙戦闘機が残されている。準備が整ったのなら、好きな時に使えばいいさ」

「……前回襲撃した時のものが?」

「……俺は全知の女神と会った後に、パーペットと呼ばれるキルヘヴンスターの根城になっている地球へと向かう。一人で生きる自信が無ければ来い」

 彼は非常にゆっくりだった。亀でも追いつく遅さで私から離れていく。

 何故だろうか。私という、いや、惑星スペアの呪縛から逃れようとしているはずなのに、まるで構って欲しそうに見えるのは。

 人の思考は複雑なれど結果は一つに定まる。どんなに山程の悩みがあろうと行き着く先は一つ。彼の行動という名の結果に不便さを感じる。

 初めて見る男の姿にこれが女との決定的な違いであるのかと。そうではないのは理解していながらも、小娘な私にはそれしか受け止められるすべが無かった。

 やがて彼は居なくなり、風の吹き抜ける音と川の流れる音が帰ってくる。不幸なトートは結局の所、自らの脚に何ら期待していなかったのだ。

 臆病な私。いじめてくる同僚のことを殺したいくらいに憎んでいるはずなのに、私は結局あの場所へ戻ろうとしている。

 準備など覚悟の一つで終わるというのに、不安を完全に払拭しなければ後味が悪いからと卑しいことを考えているのだ。

 私の支配者様……私だけの支配者様。今、お迎えに参ります。

 私は立ち上がった。足に付いた砂利を川を蹴って落とし、座れそうな程の大きさの石の上に置いていたブーツを履く。

 これから先のことを憂う。いつもと違う空気の流れに一抹の不安を抱えながら、森の影へと紛れて行った……。





 森の中でくっきりと完全に草木を取り除けられた人の住む領域、私の暮らす三番棟。服が乾くほどの時間を掛け、歩いて戻ってきた。

 中央に建てられている建物は五階建ての大きな大きな木製の家であり、虫が寄り付かず腐らないように魔法が掛かっている。

 薬剤の類ではなく、不可能を可能にする本物の魔法の力。それだけさえあれば食べることも、寝ることも、歩くことさえ必要としないのは確かではある。

 しかし私達は魔法ではなく、人間という物質である。人間でなければならない理由がある。その為に人間の真似事をせざるを得ないのだ。

 レンガの道を歩くと、共同生活を送っている私よりも幼い子供達の笑い声が聞こえて来る。三番棟であるにも関わらず、三番棟だからこそか、目に映る子どもの特徴は均等にバラバラ。

 それもそうだろう。三番棟の支配者様は既に器をお決めになっている。極限の優しさをもって、三番型はもはや造られていない。今あるのは、どこかしらに自分を捨てられない欠陥品の集まりなのだから。

「おっそいわねぇ。あなた、自分が当番だという自覚は持てないのね」

 通り道の途中、白い噴水の縁に腰掛けた薄緑の髪の少女が待ち構えていた。一つ年上であり、私よりも背が高いというのに見下げるようにクイッと顔の角度を上げている。

 今日の昼食は私が作る日。時間の感覚はまるで分からないけれど、鈍感な私にはセンナノ様から受けた罵声のショックと、日々溜まっていく神様への不満の蓄積によって、調理に取り掛かるいつもの時間を過ぎてしまったようだ。

「ごめんなさい、少し悩み事があったものですから……」

「散々施しを受けていながら一丁前に悩んで迷惑掛けて、偉いご身分ですこと」

「……ニレトさん」

 足を組み、腕を組みながら人差し指を向けられる。

「あなたがこのコミュニティで一番のドベなのよ。努力も才能も誰にも勝てないことに甘えて、いつまでも特別扱いされようなんて考えないことね」

「……私達は得意分野に特化して造られています。それ以外が劣っているのなら、特別扱いでもなんでも助け合うべきで、それ以上に支配者様の恩寵を受けた私への罵倒は支配者様への罵倒になりますが」

「格が違うわ。いいこと? 私は四型の支配者様のスペア。あなたは十七型よ。年も立場も私が上なの。言っている内容がどうであれ、私の言葉をあなたが否定することなんて出来ないの」

 ……ニレトの口角が上がっている。こうなった彼女は話が長い。

 私が当番だと分かっていながら、やめる気配のない罵り。これに悪意が込められていないとはだれが思えようか。

 都合が良いのだ。私が出来損ないだから良いのではない、誰かが彼女に言い返せない程の無能へと作り変えられたら誰でも良いのだ。

 平等や公平などは、個性がある限り訪れないと、運命の支配者様は暗に知らしめておられるのだろうか。私は.....逃げることを正当化しようとしているのだろうか。

 私に姉が居たとしたならば……。父と母が居てくれさえすれば、未来へ進むための目標とすべき軸があったであろうし、どんなに外道に落ちたところで這い上がるための道標となったはずだ。

 ただ黙って聞いて、殴り殺しもしない私は優しいと言えようか。こんなものが優しさならば、私にだって『優しい女の子』など無限に造り出せる。

 相手を思いやり、苛立ちを受け止め、正しい言葉を吐いてお礼に嬲られる。その生き方しかできないように教育してあげれば良いのだから。

 自身の欲望を削り落とし、欠片ほどの食べ物で満足し、後は他人のために動くだけ。無欲でありさえすれば問題はない。

 死よりも実に有意義なことだ。まさに機械。人であることすら必要としない。

 ……支配者様はこんな私でもお求めになられるのであろうか。であれば、こんな、とんだ人形女なんかの体を得て、それを愛してくれる相手がいるということになる。

 自分の好きなように動かせるだけの人形を……しかもスペア人だというのに、飽きられず長い年月を共にできるのか。支配者様関係無しにしても永遠の愛を信じる愚かな私には、根本的に恋など続いていくはずがない。

 ……結果、ぐだぐだと考えてしまうのは、諦めようとするガワに希望という心が抵抗しているからだ。

 私はこの期に及んでまだ、まだまだ純潔に絶対のこだわりがある。それだけはこの世の誰よりも気高いと信じている。

 なるものか、たまるものか。こんな下衆に私を犯す資格はない。私の信じる私の形を命果てるまで張り続けてやる。

 あんな小さなプライドでほくそ笑むニレトなどに、私を操ることなど許さない。

 そんな、ただ胸の内で荒ぶることしか出来ない無力な私の後ろから草の根を踏む音が近づいてきた。私のおどけたような顔でゆっくりと背後を見ると、そこには私より四つ下で、私なんかを慕う、私が一番信頼している女の子がニレトをにらんでいた。

「──先輩がそうやって足止めをしているあいだは、先輩の言う迷惑というのは解決出来ませんよ」

「……なに?」

「それにトート先輩は決まりごとを破ったわけではなく、ましてや遅刻ですらありません。昼食が無かったとしても、そもそも私達には食事さえ必要がないはずです」

 庇われた私に対して、彼女はもはや何も言えることが無くなったのだろう。確かに私のことが多少なりとも憎いだろうが、それとは関係がない可愛い後輩にまでとやかく言えるほど人間性は腐っていないということだ。

 この沈黙の間に、私はこの地を離れることに更なる不安が膨れ上がる。

 私が居なくなってからこの子……リリーがどうなってしまうのか。

 何かに特化していない分、極めて均等に能力を振られている。支配、魔法、生命……確かにこの三つのうち最低限一つは絶対に有利が取れるが、だからといって決定的な差が出来るほどかと問われればそうとは言えない。

 今は年下だから甘やかされているだけで、いつかは多くの人から嫌われる。そんな超平均的能力の支配者の器ゆえの苦悩が待ち受けているとわかっている私が、置いていかなければならないとは。

 彼女のまっすぐな視線に、やがてニレトは目を逸らした。

「……そうね、人は誰しも悪い所ばかりある訳じゃないのかもね」

 優しげな声色の中にいじけた気持ちを込めて、ニレトは家に向かって消えていった。

 私とリリーの二人の空間になると、薄青紫の涼しさを感じるような柔らかな髪がふぁっと浮き上がり、ひかえめな笑みで私を見つめた。

「先輩は優しいんですよね」

「そんなことないよ」

「先輩ならどんな相手にでも勝てたり、言い負かしたり出来るのに、すごく優しそうな顔で平和的に解決するところに私は憧れているんです」

「……」

 こんなんじゃダメだ。

 彼女はきっと私を見習うだろう。思想も性格もまるで違うのに、私のこのギリギリで精一杯の仮面を被る羽目になる。

 彼女の柔らかで、荒々しくなりそうな心を落ち着かせてくれる良い笑顔を……私みたいな……。

「お前は……間違っている」

「先輩……?」

「……くだらない」

 ───グリクリア。私も大概おかしな名前ではあるが、彼女はそれでも最上位の存在だ。

 一体なぜ生きて、ここに居るのか。その意味を掴むすべは……名前なのだ。

 全てにおいて普通以上の力を持ち、穏やかで、献身的で、それでいて我欲が弱く騙されやすい。綺麗な水でしか生きられない魚のような繊細な子。なぜこうなったのか、名前、環境、遺伝子、数多の要素が混ざって出来上がったにしては妙に優秀だ。

 ここで腐るには惜しい女。私に出来る最大限の手は……私の軌跡を見せることくらいか……。

「今の俺達は支配者様のための器に過ぎない。支配者っていう俺達の創造主が、貧弱である生物という枠に収まるために俺達を造った。しかし、俺はこの世界のルールを否定する! 俺は支配者と同等の位置へとのぼり、俺だけの心を張り続けてやるんだ!」

「……それが、トート先輩」

 ……まだ、自分の言葉では話せない。未来の不安を多重にも抱えた状態で、他人の未来を想いやり続ける自信はない。

 だから私はあの人の背中を追い続ける。リリー……いや、グリクリアが私を追い越せるように、私が進む道を教えよう……。

「お前は……甘えている。この世界に留まって、今の自分を保ったままでいられる訳がない。俺に憧れていても、この俺の信念を受け入れられないのなら、もはやお前は生命の証明すら出来ない」

「私はまだ六歳ですよ……。体が成熟するまでまだ十二年あります。それでも飛び出すべきだと説くのですか?」

「全知の女神。奴は齢六歳にして自ら旅立った。ヘヴンスターとかいう星々の中でも上澄みの文明を持つ連中が攫ったとは言われているが、そうじゃない。奴はヘヴンスターを利用してこの惑星スペアから抜け出したんだ。お前と同じ歳にして、同じ貧弱な体で、スペアの同胞と支配者に逆らって、ここではない場所で自分の心を貫いている。俺は……私は……遅過ぎたくらいなんだ」

 喉が震える。私は決定的な勘違いをしていたのだ。ある事実が、いや違和感に心が潰されようとしている。

 ……私、トートは運命に操られている、と。

 トートというのは一体どんな存在なのか。それは自分という存在を生み出してくれた何かの目的に従うべく作られた超次元に位置する支配者の器である。その何かに恩返しという形でこの世に生み出された対価を早々に返却し、自由を得ようと考えている。

 しかし、スペア人とは自由を捧げ、自分の心を殺して空っぽの器になり、支配者様がそれの心となるのが本来の存在意義。私の考えていることは支配者様にとって不必要なものなのだ。

 私以外のスペア人はほぼ全員が何の支配者様の器であるかを悟っている。全知の女神、そう彼女であれば三型の知の支配者。知の支配者様が適応出来るような体に造られている。ニレトは四型の道の支配者で、グリクリアは十八型の物の支配者。支配者様があって初めてスペア人が出来る。

 ……私は自分の支配者様が分からない。魔法とも、生命とも決定的に違う支配の力を私は得ていない。

 私の備えている能力から逆算しても馬鹿な私では結論さえ出せない。つまりは……私がセンナノ様と出会ったことや、この星から出ようとすることは単なる予定調和に過ぎないということなのだ。

 明らかな裏切り行為に対して何の措置も施されないのは、むしろその行為をするように誘導されていると考えられる。それは支配者様でなくともよく、もっと高次元のもの、支配者様を越えた存在……。

 そうだ……作者だ。

 私が作者だとしたなら、最初から支配者様の力を主人公には与えない。それを使ってしまえばどんな相手にも勝ててしまい、お話の可能性を潰して物語が続かなくなってしまう。

 作者及び支配者として退屈しのぎにお話を作るとしたなら……まず私はセンナノ様を主人公にし、センナノ様に少しでも生きる活力を持ってもらうために真実を伏せて少しずつ人生の壁を用意する。何言ってるの私、何か変な方向へ話が進んでいないかな。何でこんな変な例え話を考えているんだろう。

「俺はだから、俺……俺じゃなくて! わ、わた、わた! 私は! センナノ様が好きなの! センナノ様じゃなきゃ嫌なんです! 分かってリリー!?」

「……え? 急にどうしました?」

「私がおかしいんじゃない、私達は自分自身を大切にするために生み出されたんです! 私達は支配者の器として生まれたのではない!」

「その、センナノ様というのが分かりません。一体何者なんですか?」

「あなたの一番大切な人ですよッ!!」

 何か確信めいたものを感じて言葉があれやこれやと出てくるものの、頭の中はまったく整理がつかない。やってることと考えていることが別なことがあるように、今考えていることとは別の思考の二つがあって、私の意識が届かないその別の思考を元にして言葉を発しているのだろう。

 なんとかそれと合流しようにも、常識というものが足枷となって中々辿り着けないのだ。しかし、私の無茶苦茶な発言にリリーは必死に理解しようとしてくれている。裏切り者として処分するのではなく、寄り添おうとしてくれている。これが私と彼女の間の答えか……。

「……分かりました」

 リリーは自分の胸の前で自分の左手を右手で強く握る。飲み込めない何かを形だけでも納得させようとするかのように。自らの使命を意志で封じ込むように、だ。

「トート先輩が一体何を伝えたかったのか、はっきりと分かりました。私達は他の同胞とは明らかに違う。他者を大切にすること、それが出来るように作られたんです。それが巡り巡って自分のためになる、そんな打算を考えることもなく、ひたすらにお互いがお互いに利益を与え合うコミュニケーション重視の思考をしているはずです」

「……それか!」

 彼女の視野が広くて助かった。そうだ、私は神様とコミュニケーションを図ろうとしたのだ。一方的な益がどうしても受け付けられないために、それを返して対等の立場になろうとする。そのために全てが敵となっても自分の我を貫こうとしていたのか。

 ……それだけじゃない。私がリリーを放っておけないのは、センナノ様は絶対に彼女を好きになるからだ。

 ふんわりとした妄想ではある。しかし、私がセンナノ様と結ばれるためには、センナノ様が愛する女性達を全て揃えなければならない気がする。

 だから彼女を惑星スペアから追い出したいのだ。

「私は……全知の女神と呼ばれるあのヨカ先輩に比べれば格下なのかもしれません。けど、その人と肩を並べられるトート先輩が私を引っ張り上げようとしてくれている今、もはや怖気付く暇なんてないですよね」

「分からない」

「え?」

 リリーの右手がだらりと落ちた。

「……センナノ様に出会っていなければ、リリーの言うことに素直に頷いて納得していたと思う。私はそういう優しさの極限のような存在なのだと。でもそれはリリーにとっての優しさ、リリーだけの優しさなんです。他の誰にも真似が出来ない優しさ……」

「トート先輩は間違っていません。私にこんな危険を犯してまで本当のことを話してくれたのは、私を思ってのことではないですか! そこにどんな自己利益があると言うんです!」

「リリー……。あなたはあなたが思っている以上に、あなたは強い。それに比べれば私なんて弱者です」

「違うんですよ! トート先輩は遥か高みにいる強者です! そして私のような落ちかけの他者を自分の足場のところへ引っ張っていく、そんな支配とは無縁の対等な優しさに私は憧れたんです!」

「リリー……」

「どうか自分自身を責めないで……。一度進んだ道、まだ光すら見えないというのに、遥か後ろの私のところまで戻る必要なんてありません。どうかまっすぐ行ってください。そういうことでしょう? トート……」

 ……。

「大丈夫。その、センナノ君というお方がどんな人なのかまだ分からないけれど、トートの言うことに間違いはないもの。もしもこの星で生涯を終えることになっても言い訳なんてしない。だから一人で突っ走れ、トート!」

 リリーが私の背中に手を回し、強く押し出した。優柔不断で不器用な私をいつも正しい道へと押し出してくれる、そんなリリーだったことを今更思い出しながら振り返ると、まるで幻だったように彼女は消えていた。

 ……迷っていられる時間はとっくに過ぎている。そうだ、走るしかないではないか。

 支配者なんて知ったこっちゃない。私は私の信じる自分の心に従う。

 ───駆ける。

 大きな魔法の家に入るやいなや自分の部屋まで走る。昼食に遅れていたことが幸いし、廊下には同胞が一人もいない。全員食堂にいるに違いない。

 部屋に入った後、自分の寝る場所である三段ベッドを片手で音も気にせず放り投げ、その下に隠してあったホームハッチを開いた。

「お迎えに参りました。私の支配者様」

 厳密には……支配者ではない。私が生み出されると同時に私の一部として作られた特殊な機械。しかし、支配者の力を一切持たない私にはこれが私の支配者としての力だと勘違いしていた。

 床から上がってくるのは赤い霧……。血飛沫のようなその霧は私の体を覆い、その一部が私の体へ繋がれる。

 その名はソーレイカ。それにどんな意味が込められているのか私には大体の予想がつくが、名付け親は一番目の支配者様。本来私は十七型のスペア人であるため、一番適合しやすい十七番目の支配者様に名付けていただくのが自然ではあるが、何故か私を含めて全てのスペア人がその十七番目を見たことがない。

 一番目の支配者の『ミーザ』様は気まぐれなお方だ。支配者の中で最上位の立場であられるも、他と比べて頻繁に来訪なさる。何をしているお方なのかさっぱり分からない。

 ……と、そんな悠長に考えている暇はない。時間はないのだ。私が出ていく決心をした瞬間から、この惑星スペアの同胞は私の心を読み取れる者が山のようにいる。必ず処分をしにくるはずだ。

「ソーレイカ! ベッドの脚を切断して!」

 赤い霧のソーレイカは私のお願いに耳を貸し、ベッドの四隅の一つの脚に纏わりついたあと、すぐに切断して私の手元に持ってきてくれる。

 私の小さな背丈と同じ長さの鉄パイプ。誰に見られても顔がわからないようにマントのフードを深く被り、その鉄パイプを両手でしっかり握りしめて再び走った。

 しかしやはり気づく者はいる。外へは目と鼻の先、玄関外には二百歳を迎えている十二型のミハビエ先輩が大きな白い鎌を得物にして私の道を阻んでいた。

「トート。やはりこうなるわけか……」

「先輩、私は誰が相手でも自分の意思を貫きます」

「いや分からなくもない。己の信じる神とやらを崇めているが、実際は他人を見下していることの裏返し。たかだか同胞程度なんの障壁にもならないと勘違いしてしまったのね」

 ……鎌を持っている逆の手、左手からぱらりぱらりと銀の粉が落ちている。これは魔法ではないのだろう、それよりももっと恐ろしい支配の力……。

「たとえ……先輩には傷一つさえ与えることができず、私が消滅したとしても、心の存在を実感出来る今を人間として誇りに思います」

「違う」

 ミハビエ先輩の左の手のひらが私へ向けられる。

「私達は人であり、器であり、支配者である。人は神を越え、器は神を否定し、支配者は神を消す。トート、あなたは神を信じることによって人という偉大なる存在を畜生に変えている。スペアであるならば、支配者としての自覚を持ちなさい」

「違います! 私がここを嫌っているのは神様とは関係ありません! 私は私の存在意義を守るために戦うんですよ!」

 足を一歩前に突き出し、鉄パイプを振り上げた瞬間、ミハビエは鎌をその場で超回転させて粉を私に浴びせた。あまりの強風で、粉が細々と私の内側にめり込みながら壁に激突した。

「うっ、ぐ……」

 頭痛、吐き気、さらには体が痺れてうまく立ち上がれない。鉄パイプを杖代わりとして威勢だけは張る。

「水銀だよ」

 ミハビエは余裕たっぷりにゆっくりと玄関をくぐると、扉を閉める必要もなく出入り口に鈍い鋼鉄の壁を出現させた。

 これでは走れない。倒そうにも力の差は歴然。それでも……!

「ソーレイカ! 早く私を治して!」

 赤い霧のソーレイカは私の声に答え、多少血が混じりながらも水銀を吸って吐き出してくれる。

 自分の体の深刻なダメージなど意に介さず、再び鉄パイプでミハビエに打ち付けるも鎌の柄で防がれた。

「私はあなたの全てを上回っているのよ、小娘」

 鎌に触れたパイプの先の側面がどろっと形を崩している。

「うわっ」

 それは溶けたのではない。鉄で出来ていたはずのそれは水となっていたのだ。

 咄嗟にしゃがみながら、後方に大きく離れる。ミハビエはそれに追い打ちをかけることはなく、ただゆっくりと近づいている。

「どうした? 何を逃げている? その場で停滞していては、やがて私と同等か、それ以上の同胞が百人単位で集まってくるよ」

「……ふ、ふふ。ソーレイカ、防御を」

 私の願いにソーレイカは律儀に応じてくれる。赤い霧は私の前方で濃くなった。

 余裕などかけらも残っていない。ミハビエは私を確実に処分するだろう。支配者に献上するはずの肉体を持ち出すことは禁忌であり、私の今の心はありえないはずの異物。支配者のためのスペア人であれば、私を潰してしまうのは何もおかしくない。

「ほう、ソーレイカね。見れば……ナノマシンと言えるか、それらが生命力魔法力を吸収し、細菌よりも小さくありながら万物の力を振るう。まさに……いや、惜しむべからず」

 ジュゥゥ……。

 嫌な匂いがする。ミハビエの鎌から液体が発生し、刃から床に落ちて煙をあげている。

「──ソーレイカ! 私を覆って!」

 鎌は再び超回転した。豪風と共に液体──酸がミハビエの前方の全てに撒き散らされる。

 ソーレイカの魔力盾で辛うじて直撃は免れているものの、この風が霧を徐々に後退させていく。

 私の後ろの壁は木製だが特別な魔法が施された強固の壁。壊して逃げることは私の力では不可能。

 思い切って接近戦を挑もうにも嫌な予感しかしない。あのどこから出ているか理解できない水銀や酸の問題ではなく、ミハビエの鎌に触れた鉄パイプが水になったのが厄介だからだ。

「どうした、その程度なのかな。この程度で死ぬか?」

「何か、何か突破口があるはず……。何かが……!」

 ……支配者だ。

 支配者とは、力の分配者である。

 あの人の力がどんなものであろうと、それは一つの支配者の力に過ぎない。たとえその一つの分配者であろうとも、別の支配者を圧倒出来るわけではない。

 私には私だけの支配の力はない。しかし、支配の力を使えない訳ではない。

 魔法は……『虚』の支配者様が広く分配してくださった大変にありがたいものだと言いたいのだ。

「ガグッ! ンゥウウウウウウウ!」

 自らの腕にかぶりつき、無理矢理血を吸い出す。その血の魔力を受け入れる限界まで自分の魔力を注ぎ、生命の力を最大限纏わせる。

 するとどうなるか。そもそも魔法とはなんなのか。生命とはどういうものなのか。これで全てが分かる。

 生命は魔法を否定し、魔法は生命から『反発』する──。


 ぺっ。


 生命力に包まれた魔力の血は音速を越えて放たれ、ミハビエの顔面向かって飛ぶ。

 彼女は即座に反応し、回していた鎌を止めて血の射線上に鎌を振り下ろす。

 ……残念ながら、ミハビエに風穴を開けることは叶わないようだ。しかし、私のちっぽけな脳味噌の中で閃いた作戦はこれではない。

 彼女は決して無の空間から物質を生み出しているのではなく、そもそもそこにある物質を変換していたはずだ。

 空気にあるあらゆる原子、分子を別のものへと変える。それがあの人の力の正体……。

 だったら……!

「ソーレイカァアアアア!」

 私の呼びかけにソーレイカは察してくれる。親指を耳に、四本指を目に、体を出来る限り丸めて縮こまる私をより一層濃い霧が覆った。

 私が放った魔力の血は……ミハビエに近づいたことにより水へと変換される。

 私の血だからこそ抑えることのできた莫大な魔力はそれによって解放され、赤金色の魔法の力が──爆発する。

「なっ──」

 属性が火でも水でも風でも土でもない私の純粋な全魔力は、ミハビエが両断したことによって彼女を挟む形で膨張し、全身をくまなく弾き飛ばした。

 その爆発範囲に入っている私も巻き込まれ、今まで味わったことのない圧力に胃の中身が全て吐き出されそうになり、しかしそれは一瞬で終わる。

 魔法の家は傷一つ付いていないが、玄関を防いでいた鋼鉄の壁は跡形もなく消し飛んでいる。

 ミハビエは……肉片と化していた。彼女の歯、骨、肉はこの廊下の壁一面に打ち付けられており、ソーレイカにも少しだけ刺さっている。

「は、はは……ミハビエ先輩。おうぇ……」

 人の形をしていたものが、肌の色のはずのそれが、真っ赤な物体に変わってしまった事実と、酸と臓物の混ざった匂いにたまらず吐いてしまう。

 こんなことをしている暇はないというのに、恐怖というのは無駄に慎重にさせられる。

 幸いにも彼女が使っていた鎌はボコボコながらも原型をとどめていた。これを武器として使わせてもらう。

 こんなに騒がしいのだ、すぐに人が集まってくるに違いない。体の感覚が鈍くよろよろと動きながらでも、必死に外へ出た。

「……あ、ああ……」

 血を流させ、涙さえも溢れさせる地獄の星のスペア。私の目に映るのは希望だった。

 空が歪にうねり、ちぎれるように裂かれると鉄で出来た大きな部屋が出現する。中には多種多様の人間が数多くおり、みな、なにかしらの武器を大量に装備していた。

 数年に一度、酷い時は数ヶ月に一度やってくるヘヴンスターの侵略。何千年と続けても今までで全知の女神一人しか攫うことができなかったというのに、よくも懲りずに続けられるものだ。

 しかし彼らの出現によって私は助かる。私を追うことよりも迎撃することの方が優先であるため、僅かにも逃げる時間が出来た。

 今の私に戦う力は残されていない。もしもあの侵略者の一人にでも遭遇した場合、確実に負けるだろう。それにソーレイカへ渡せる力は生命力のみ……。

 森の中を進む道中、木々から消費され排出される生命のカスみたいな粉を集めながら、自身の怪我とソーレイカへの供給に回す。

「ソーレイカ……戦闘機を探して……」

 聴くに耐えない絞り出した声にソーレイカは聞き入れてくれる。赤い霧は私の元を離れ、どこかに隠された戦闘機を探し始めた。

 ……私から少し離れたところで霧が固まっている。

「早いね……ソーレイカは……」

 私だけの支配者様。私にとっての支配者様。私にこんなにも優しいのはあなたくらい……。

 私がそこへ向かうと、固まった霧はゆっくりと移動し始める。徐々に回復していく私は目標の場所へ着く頃には傷が癒えていた。

 魔力が無いのが懸念ではあるが、このまま回復を待っていてはやがてより多くの同胞と戦うことになるだろう。それは避けたい。

 ソーレイカが止まった場所には木と草しかなかった。辺りにはそれ以が見えなければ、透明な何かを触れもしない。

 しかし、ソーレイカが固まって地面に接触しているのを見て、鈍い私でも気付けた。

 鎌を構え、生命力を加える。鎌を構成する原子の中に存在する無限の魂はそれに反応し、支配の力の歯止めを破る。

 地面に一振り──地は裂かれた。

 土の中に埋められていた戦闘機は綺麗にその姿を現し、既に限界を迎えようとしていた鎌はボロボロと朽ちる。

「ちょっと大きいかな」

 予想よりもかなり大きな機械は、これでもかというほどの大量の武器をつけられており、それを取り除いたとしても百メートルほどの大きさであった。

 どこから入ればいいのか悩みながらも、戦闘機の上に乗ると上の装甲が三枚横に収納され、機体に取り付けられた人差し指ほどしか無いライトが空中で光の文字を描いた。

『ようこそ』

 戦うための機械がようこそ、だなんておかしなものだ。しかし怪しくとも選り好みをする余裕などないため、私は潔く中へ飛び降りた。

 その瞬間灯りがついた。中は私の住んでいた共同部屋の三倍は広く、これから空を飛ぶというのにテーブルや椅子、冷蔵庫や浴槽まで備え付けられていた。

 不思議なものだ。一応操縦席らしき場所があったのでそこに座る。

『はじめまして、わたくしはアブソルート。どのようになさいますか?』

 なんとも似つかわしくない可愛らしい声が中で響く。スピーカーとやらがどこかにあるのだろうが、私にはさっぱり分からない。

 こちらの要望を言えば、操作をしなくともなんとかしてくれるのだろうか。逆にそうでなければ中々に困るのだが。

「私はトート。パーペットに向かってください」

『申し訳ございません。それは一体どのような物でしょうか? パペットであればどこのパペットに向かえば良いのでしょうか?』

「いえ……物ではなく、恐らくは星の名前がパーペットなんです」

『申し訳ございません。パーペットと呼ばれる星の情報が無いため、そちらへ発進することが出来ません』

「あ、いえ、もしかするとパーペットと呼ばれる国があるのでしょう。それでパーペットと関係がありそうなキルヘヴンスターの根城になっている星は知りませんか?」

『申し訳ございません。キルヘヴンスターというものの情報がありません』

「……ヘヴンスターに仇なす組織が居そうな、最も有力な星へ向かってください」

『了解。アブソルート発進します』

 操縦席に座る私の目の前のモニターが外を映し出す。中央は中央、左右の二つのモニターは左右を、天井のモニターは空を。アブソルートは低音の駆動音をほんの少し鳴らしながら上昇し、深いため息を吐く頃には世界は小さな光の粒が輝く闇の世界へ変わっていた。

 上昇をやめ、前へ進み始めると元居た惑星スペアはすぐに豆粒のように小さくなっていく。あまりの速さと、星々を渡ることの条件を考慮しての納得感が新鮮さに拍車をかける。

 何故、大いなる存在は人というものにこれほど熱心になれるのだろうか。この世界にとって、粒のような星のさらに粒である私達人間は、何か世界を変えるきっかけにでもなるのだろうか。

 ……戦いの後の疲労感が重くのしかかる。苦境を乗り越えたという合図だとでも言いたいのだろうか、私の体は安らかに眠りに落ちた。


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