第29話 あのクソ王子が
帰ってから少し後、ミリネは応接室の前で紅茶を乗せたトレーを持って立っていた。ミアが作った紅茶の香ばしい匂いは人を笑顔にするに足りたけど、ヒシルの顔は全然そうじゃなかった。
「ミリネ嬢改めて言うけど、絶対にミスをしてはいけません」
「わかったって」
同じことを何度も聞いたため、ミリネは少しイライラした。
「これをあいつらに渡せばいいんだよね?」
「はい。礼儀正しく。わかりますか」
「はいはい、わかった」
ミリネは面倒臭そうに適当に答えた。これももう何度も聞いて耳にタコができそうだった。
「そんなに私を信頼できないの」
「もちろん。すごく不安なんです」
ヒシルの悩みもせず即答した。
「そんなに心配ならあんたがやればいいやろ」
「結構です。私はあまりテラムのやつと会いたくなくて」
テラムを言うヒシルの声がなぜか少し震えていた。
「あいつと何があったんか」
「それは・・・言えません。それよりもう中に入ってください」
テラムはドアを開けてくれた。ミリネは怪しいと思いつつ、中へと足を運んだ。
流石に応接室はこの屋敷で最も豪華な部屋だった。豪華な飾りと家具。美しい風景画が壁に飾っていた。そして応接室の真ん中の椅子には王子とテラムが座っていた。そしてテラムの後ろには前に宴会で見たマントを被った人が二人立っていた。
あのシンボル一体どこで見たっけ。
と思いながらミリネはゆっくりと歩いて彼らの間にあるテーブルにトレーを置いた。ミリネは紅茶の入ったコップをトレーから王子とテラムの前に置いた。そしてゆっくり立って王子の後ろに立った。
気持ちとしては今出たいけど。
ミリネはドアの方にそっと顔を向けた。そこにはヒシルが不安そうな顔をしてこっちを見ていた。
なんか悪い。
あの顔を見ていると、なぜか出られなかった。結局ミリネは大人しくここに立っていることにした。
少しあと、紅茶を口にしたロギアはテーブルにコップを置きながら言った。
「今日は何の用で来たんだ」
「まあ王子様の様子を見に来ただけですよ」
そう言いながらテラムは紅茶を口にした。
「紅茶が美味しいですね」
「そんなことより、ここに来た要件を話して」
「冷たいですね。わかりました。では」
テラムはある書類を取り出した。そしてロギアの前に差し出した。
「ここにサインして欲しいんです」
「この書類は」
「はい、前のあれです」
前のあれならミリネも知っていた。宴会で見た王権を放棄する誓約書だった。
「前にも言ったが、俺は王位を譲るつもりはないんだ」
「そうですか。それは残念ですね」
案外素直に下がるね。
今日こそあの誓約書にサインをしてもらうつもりで乗り込んできたと思ったが、王子にあんなこと言われても特に反応はなかった。むしろ余裕そうに紅茶を飲んだ。
「あ、そういえばあれ知ってますか。この近所の町が魔物に襲われたらしいです」
「なんだと!?」
ロギアは驚いて弾かれたように立った。
「魔物に襲われたって。本当か」
「はい。魔物に襲われて被害が大きいみたいですけど、大丈夫か心配ですね」
どうやらミリネが行ってきた町のことを話しているみたいだった。そのため、ミリネはあまり思い出したくない不快な記憶が思い出してしまった。
「そなたは何をしてた。俺が王位を継ぐまで国はそなたが管理するって約束したんじゃないか」
王子はすごく怒ったように声が高まった。しかしテラムは余裕そうに紅茶を飲むだけだった。
「はい。確かにそういう約束でした。でも私は軍を動かせる権力は持ってませんで、何もできませんでした。だって私は王様ではありませんから」
「・・・・・・・」
テラムの言葉に、ロギアは何も言い返せなかった。テラムは不気味な笑みを浮かべながら誓約書をさらに差し出した。
「でもここにサインすればそういう問題は全部なくなります。王子様の代わりに私が軍を動かせて民を守れます」
「・・・・・・」
「ですから早くここにサインを」
ロギアは黙って誓約書をじっと見つめた。
「お、俺は」
ロギアの声が少し震えていた。その声にテラムは勝機を掴んだと思ったのか、口角が吊り上がっていた。
「さあ、早くここにサインしてください」
テラムはロギアを催促した。前とは違ってロギアは心が揺れている様子だった。このままではサインしそうだが、ミリネは心配しなかった。
まあでもいいやろう。ロギアなら絶対にサインしない。
ミジャリとの約束があるから、ロギアは絶対にサインしない。とミリネは思ったが、ロギアの手はゆっくりと動くのが目に入った。
「た、民のためには」
ロギアは静かに呟きながらペンに向かって手を伸ばしていた。
いっ、一体どういうことだ。
ミリネはびっくりして思考が回らなかった。
ミジャリとの約束があるのに、サインするの?
変だった。ロギアならなんと言われても絶対にサインしないと思ったのに。
ちょっと。この気配は。
突然ミリネは異変を感じた。気持ち悪い魔力の気配だった。
この魔力は・・・精神操作魔法?! 一体どこでこの魔法を
ミリネは神経を尖らせて魔力を逆追跡した。テラムの方から呟き声が聞こえてきた。それはあまりにも小さすぎて聞き取りにくかった。
あいつらが犯人か。そういや、口の前に魔術式があるね。なんであいつらが・・・ちょっとあのシンボル思い出した。あの獅子と星は確かにカブリス帝国のものだ。
カブリス帝国。北に位置する大きい帝国。二十年前の戦争でクレノス王国がランディる王国と同盟国だったら、ガブリス帝国は敵国。最初に戦争を宣言した帝国だった。
なんであいつら今ここに。いや、そんなことよりあいつら今王子に魔法をかけてるわけ? イカれてる。一国の王子に魔法をかけるなんて。しかも精神操作魔法を。
彼らの勇気に拍手を送るべきか悩むくらいだった。もし魔法をかけようとしたことをバレたら、裁判を受けるまでもなく即座に処刑されるものだった。しかし今彼らの魔法に気づいたミリネしかいなかった。そのため、今彼らを処刑するのは無理だった。
仕方ないな。ちょっと面倒やけど、あいつらの魔法を解除しよう。
ミリネは自分の魔力をこっそり流し、ロギアに流れ込む魔力の流れを乱させた。すると、彼らがぎくっとするのが目に入った。
なんだこの雑な魔法は。手間をかけるまでもないやん。
ミリネの口角が少し吊り上がられた。
彼らは今ずいぶん戸惑っているはずだった。実際彼らがぎくっとするのが見えた。
まあどういうわけか理解できないやろう。
いきなりどこかで邪魔され魔法が解除されたし。犯人を特定したくも詠唱を唱える声が聞こえないから特定することもできない。そして何よりたかがメイドなんかが自分たちの魔法を解除するとは絶対考えられないはずだった。
ざまみろ。二度とメイドを無視するな。
別に彼らはミリネを無視したことはなかった。けど、そんなのはどうでもよかった。
「さあ王子様早くここにサインを」
「いや、ちょっと待ちたまえ」
ペンを持ったロギアの手が突然止まった。
「やっぱりここにサインできない」
「い、いきなりどういうことですか」
「言葉通りだ。俺は王位を継ぐ。それがたとえ今ではないけれど、必ず王位を継ぐんだ。ミジャリとの約束を守るために」
ロギアはペンをテーブルに置いて立ち上がった。
「今日はもう帰って。前も言ったけどこの話はなかったことにしよう」
そう言ってロギアはテラムから背を向けた。そして部屋を出ようと地面から足を離した瞬間、テラムが声を高まった。
「あの平民と一緒にいたくありませんか!」
怒鳴りに近い彼の声に、ロギアは立ち止まって振り返った。
「王位を継いだらあの平民とはもう一緒にいられません。王子様もそれは嫌ですよね? だから王族の責任は丸投げしてここでこうしてるんじゃありませんか!」
「そなた今何を」
「ほ、本当なの」
その中、透き通る声が部屋の中に聞こえてきた。それはミジャリの声だった。ミリネとロギア、しかもテラムまで同時に声がした方に顔を向けた。応接室のドアは開かれていて、そこにはミジャリが立っていた。
「本当に私のせいで王位を」
「ち、違うんだ。ミジャリは何もわ」
ミジャリは最後まで聞かずどこかに走っていってしまった。
「ミ、ミジャリィ!」
ロギアは彼女の後を追って走っていってしまった。っして応接室に残されたミリネは困り果てた。
これ、私がケリをつけるべき?
「・・・あのクソ王子がが」
気まずい空気の中、ミリネは小さく悪口を言った。




