エピソード2 地下の影
RINA ― アクション小説 ―
第2話 地下の影
消毒液の匂いが、朝の光より先に廊下を満たしていた。
集中治療室の窓越しに、二つのベッド。白い管、脈を示す波。静かな電子音が、ひとつ、ふたつと息を数える。
「姉弟、容態は?」
低い声で訊いたのは、ベテラン刑事・南雲武――ナマさん。
担当医は白衣の裾を指でつまみながら答える。
「命は取り留めました。ただ、意識は……」
言葉が濁る。
南雲は頷き、ガラスに映る自分の顔に目を細めた。隣で多田修がメモ帳をめくる。
「配達員の供述、取れました。『ドアの奥に黒服が四人いた。十万渡され“忘れろ”と』」
「忘れられるもんかよ」
南雲は鼻で笑い、ICUの扉に視線を落とす。
――やり口が速い。仕事が“仕事”になっている。
そこへ、エレベーターの到着音がひとつ。
黒いスーツの男たちが三人、歩幅をまったく揃えて降りてきた。受付の女性は顔色を変え、何か言いかけて、飲み込む。
男たちは無言の会釈をひとつ。紙を一枚、見せる。
その紙に書かれた何かが、扉の鍵を簡単に外へ追いやった。
「おい、待て」
南雲が一歩踏み出した瞬間、廊下の奥からストレッチャーが二台、看護師に押されて現れた。緊急搬送。全身を覆うブランケット。
すれ違う刹那、ブランケットの隙間から覗いた薬指――テープの下で小さく赤い光が点滅した。
「ビーコン……?」
「ナマさん?」
多田の問いを、火災報知のテスト音がかき消す。ピッ、ピッ。
職員の視線が一瞬、天井へ上がる。
その隙に黒スーツの三人はICUの扉を開き、別のストレッチャーを押し出してきた。
扉の奥――ベッドは空。モニターのコードはすべて外され、警備員が二人、床で“眠って”いる。
南雲は舌打ちし、踵を返した。「非常階段だ」
赤いピクトが一度だけ強く点滅し、すぐに普通の赤に戻る。
*
地下駐車場。
搬入口に横付けされた大型ワゴン。別レーンには救急車。
看護師に扮した男女がストレッチャーを押す。ワゴンのスライドドアが音もなく開く。
中は、冷たい。銀のケースと薄青のLED。
リナの頬に小型ライトが当てられる。瞳孔反応、良好。
「時間押してる。Bルートで出る」
男は時計を見て短く告げる。
警備員が近づく――が、看護師の手首がほんの一寸、跳ねた。
親指の付け根からすべるように出た極細の針が、頸の根元へ。刺して、抜く。
警備員は小さな息を漏らし、膝から崩れる。
もう一人には肩越しの肘と、鳩尾への短い突き。音が消える。
「止まれ!」
南雲の声が、コンクリートの壁に跳ね返る。
黒スーツの一人が振り返り、目で笑った。
銀の小円盤が床に落ち、三度跳ね――白い煙。苦い臭い。
視界が乳白に滲む。
多田は咄嗟に膝を滑らせ、ワゴンの下へ身体をねじ込んだ。
タイヤが唸る。
救急車が先に動き出し、ワゴンがそれを追う。
「くそ……!」
白煙の中、南雲は走った。
出口で斜めに飛び出した二台へ――その前に、黒のセダンが横から滑り込み、彼らの車の横腹にぴたりと張り付く。
窓越し、若い顔が顎をしゃくる。笑い。
次の瞬間、幅寄せ。
縁石がタイヤを弾いた。シートベルトが悲鳴を上げる。
電柱がフロントの行き先を止めた。
エアバッグの白。粉っぽい匂い。
南雲は舌の裏でだけ、悪態をつく。「遊びが上手ぇな」
「大丈夫ですか、ナマさん!」
「所轄に連絡。――いい、追うのは俺たちの“仕事”だ」
*
救急車は堂々と車列を割り、首都高に乗る。
サイレンが短く一度鳴り、以後は沈黙。
後ろの荷台で、姉弟の呼吸音が規則的に重なる。
〔A完了。ドックに入る〕
〔Bもすぐ後ろにつく〕
無線の声は乾いている。
倉庫街の外れ、錆びた金網と赤いコンテナが三つ並ぶ。
救急車が前で止まり、ライトを二度短く、二度長く。
コンテナのひとつが、水平に――静かに――ずれた。
開いたのは、空洞。
暗闇の奥から冷たい空気が押し寄せる。
車体が飲み込まれ、外界の音が切断された。
*
地下へ。
床の赤ライン、無機質な白壁、等間隔のLED。
救急車とワゴンから降ろされた二つのストレッチャーに、白衣が近づく。
六十の男は瞳の奥に疲れと覚悟を宿し、四十八の男は現場の采配で空気を整える。
小野善和、藤田健吾。
善和は娘の額に手をかざした。微温。呼吸は浅いが波はある。
「――間に合った」
「装置、起動準備。将武、位置合わせろ」
インカムから若い声。「三番・四番、開放。受け付けます」
ガラスのカプセルが、口を開く。
透明な液が足元から立ち上がる前に、電極が皮膚へ吸い付く。
頭部の枠が静かに閉じ、白いLEDが薄青に変わる。
床下のポンプが唸った。
「糖補給は一次を点滴、二次は口腔から」
「飴は?」
藤田が横目で笑う。
「持った。――研究所の購買で飴を箱買いする博士なんて、あんたくらいだ」
「理に適う」
善和は短く答え、グラフを睨む。
リナの脳波に、谷の底から淡い光。
将武が息を飲んだ。「父さん、来る」
*
白の底で、瞼が震えた。
音が遠ざかって、別の音が近づく。
喉が砂漠で、胃が空洞の形に軋む。
「……お腹、空いた」
自分の声が、自分のものに戻っていた。
「分かってる」
善和が微笑む。
差し出されたバスケット――色とりどりの飴。
ひと粒、舌に載せる。
溶ける甘さが血に混じった瞬間、視界の輪郭が鮮明になる。
空調の風速、LEDの点滅間隔、ガラス越しの父の瞳の湿度――全部が数値のように理解できた。
「ここは……」
「家だよ、リナ」
その言葉は、科学と祈りの中間にあった。
「あなたは」
「小野善和。君の父だ」
言葉は頭上を滑り、胸のどこかに微かな温度だけ残した。
「私は……何?」
問いは空中で光り、答えを待った。
「人間だ。――私の娘だ」
善和は目を逸らさない。
「ただ、君の体は“少しだけ新しい”。骨格は微細チタンで補強、筋繊維は再配列、神経の許容量を広げ、糖代謝は三倍。脳には補助のAI。全部、君を“生かすため”だけに使った」
リナは黙って、もう一粒、飴を口に放り込む。
甘さが巡り、心拍が穏やかに整う。
彼女の視線がガラスの向こう、若い男に止まる。
「……将武?」
「リナ、――無事で、よかった」
兄の笑顔が、緊張を少し溶かした。
「コウキは?」
リナが問う。
別のカプセルの青が、静けさのまま鼓動を刻む。
「眠ってる。必ず起きる。――起こす」
善和の声は、約束の形をしていた。
*
制御室の外。
黒スーツの男が二人、搬入班のリーダーと短く言葉を交わす。
「引き渡し完了。障害なし」
「見られた顔は?」
「処理する。あなた方は、研究を」
言い置いて、彼らは影に消えた。
空調の音だけが、しばらく残る。
*
「ナマさん、車はレッカー。僕らは……」
「病院で聞けることは聞いた。次は“聞けない場所”に行く」
南雲はポケットから飴玉を取り出し、じっと見る。
包装紙の柄は、子どもの頃に駄菓子屋で見たものと同じだ。
「甘い匂いがした。――あの連中は、それを“鍵”に使ってた」
「鍵?」
「兵隊は指示で動く。プロは“合図”で動く。匂い、リズム、光。その全部が合図になる」
多田は小さく喉を鳴らした。「相手は……」
「俺たちじゃない奴らだ」
*
研究所の白は、病院の白と違っていた。
温度が一定に保たれ、音が計画通りに小さい。
将武が端末を操作しながら言う。
「姉貴。甘味は燃料。――無理に食べる必要はないけど、切らすな。切れると、鈍る」
「……機械みたいね」
「機械より、ずっと強い」
将武は笑い、コーラの缶を一本、父の前に滑らせた。
藤田が肩をすくめる。「医療区画でコーラを開ける研究者たち……ここ以外で見たら怒鳴るところだ」
缶のプルタブが軽い音を立て、炭酸の泡が白い照明に細かく弾ける。
リナは天井のLEDを見上げた。
一つだけ、規定よりほんのわずか早く点滅している。
背骨のどこかで、冷たい感覚が鳴った。
――外の闇は、まだ終わっていない。
善和が、静かに言う。
「休め。今は、休みも燃料だ」
リナは頷き、目を閉じる。
白の底に、土の匂いが薄く尾を引いた。
彼女の指先が、飴玉を一粒、確かめるように握る。
*
制御室の灯りが落ちる直前、善和はガラスに手を当てた。
呼吸は整っている。脳波も安定。
だが、それだけでは足りない。
「必ず蘇らせる」
小さく、誰にも向けない約束。
「娘を、――必ず」
地下の白はその言葉を飲み込んで、深く静まった。