壱
ここは何処だろう。ぼんやりとそう思った。何も見えない、何も聞こえない、何も触れていない。まるで五感を失ったかのように、何も分からなくなっていた。
どうして僕はこんなところにいるのだろう。早く帰らなければと思う反面、何処に帰ればいいのかが分からなかった。
何もない世界で漂っていると、暫くして何処からか声が聞こえてきた。五感を失ったわけじゃなかったのか、そう思いながら耳を澄ます。今にも泣きだしそうなその声は、叫んでいるようにも聞こえた。
少しずつ全ての感覚が戻り始めた頃には、少女の悲鳴のような声がはっきりと響いていた。
「……ん、きこ…る? 瀾! 返事して……っ」
少女が呼んでいたのは、僕の名前だった。だけど、その声が誰なのかまでは分からない。というよりも、頭がぼんやりしていて思い出せない。
——僕はこの子を知っている、筈なのに。もしかして、右手を握りしめているのもこの子だろうか。
それにしても、身体に力が入らない。目を開けようとしても開かないし、温かい手を握り返すことも出来ないのは何故だろう。起き上がろうと思ったのだが、不自然に震えが走っただけで、まともに動くことは出来なかった。
「待ってて、今助けるからっ」
右手が解放されたものの持ち上げることも出来ず、力無く地面に叩きつけられる。先ほどまで右手を握っていた手は、僕の脇腹に添えられた。そこで漸く自らの身体に意識を向け、やっと気付く。
(あれ……これ、血の匂い? もしかして、僕が……?)
添えられた手から温もりが伝わって、じんわりと痛みが広がる。恐らく傷が深すぎて脳が麻痺し、痛みを感じないようにしていたのだろう。少しずつ癒されていく中で、自分がもう手遅れであることをはっきりと自覚した。また、それと同時に彼女の存在もしっかりと認識する。
ずっと傍にいてくれたのは、後にも先にもこの子だけ。この少女は、僕の唯一で特別な存在だった。その彼女に無駄な力を使わせてはいけない、止めなくては。
「……無駄、だよ。もう、間に、合わない」
「駄目! そんなこと言わないで、絶対助けるから! お願い……!」
彼女が懸命に治療してくれたお陰で、かろうじて目を開けることは出来た。歪んだ視界に映ったのは、普段の冷静さなど微塵も感じられない彼女の姿だった。
着崩れた衣服、ぐしゃぐしゃの髪、頬に流れる雫。こんな姿は一度も見たことが無い。僕を助けるために必死な彼女の頭を、最期の力を振り絞って、撫でた。治療に集中していた彼女は、はっと目を見開いた。そして僕と目が合うと、大粒の涙を零す。
「瀾……」
「ありがとう、燐。僕は、幸せだったよ」
「そんな、待ってよ……嫌だ、私を一人にしないって、約束してくれたじゃない……」
「ごめんね。でも、仕方が無いんだ」
「嫌だ! いやだよ、瀾」
大丈夫、ずっと一緒だよ。なんて、言えたら良かったのに。せめて燐には笑顔でいて欲しくて、笑いかけた。
僕が笑うと見せてくれる笑顔が、その燐の明るさが、僕は大好きだった。だけど、真剣な表情で悩んでいる燐も、寂しそうに微笑む燐も、今僕のために泣いてくれている燐も。僕は、大好きなんだよ。
燐がまた何か言ってる。だけど、耳鳴りが酷くて聞こえない。最後までちゃんと聞いてあげられなくてごめんね。歪んでいた視界も戻ったのは一瞬だけで、あとは泣いている燐の顔が段々とぼやけていくだけ。
ゆっくりと薄れていく意識の中で、燐への想い、伝えられなかったもの、今までの燐との想い出が過り、僕も涙を流したと思う。もう会えないのだと思うと、無性に悲しかった。つらかった。泣いている燐を見るのが、とても苦しかった。
あぁ、最期に見るのは、燐の笑顔が良かったな――。