その1 さよなら、婚約者様
「別れて欲しい。もう堪えられないんだ」
そう言って、彼トーモリンが出ていった。
私ルアンは一筋だけ、涙が頬を伝ったのを感じた。
そして暫く寝込んでしまった。
トーモリンは、美しい人だった。
幼い頃から天使のようで、ちやほやされて育ったそうだ。
私は彼の婚約者になった時、嬉しくて嬉しくて跳び跳ねた。
だって皆の憧れだった人だから。
涼やかな知的な切れ長の目、高い鼻梁、風にそよぐ細くて絹のような長い髪の、美しい人が夫になるのだもの。
でも彼はビックリする程、女ったらしだった。
彼は私に優しいけれど同じくらい自分にも優しく、好き勝手に自由を謳歌していた。
家うちの商会に婿入りする予定なので、今までの仕事を辞めて家で見習いを始めた。でも、すぐに中抜けしてさぼっているようだ。
私が彼のことを好きなのも知られていたから、文句も言えなかった。
地頭は良い人だから、何もかも計算ずくだったのだろう。
私は、結婚前に彼に操を奪われた。
「結婚するから良いだろう?」と言って。
私が思い描いていたものと違い、ムードもへったくれもない普段の夕食後に。既に家に住んでいた彼は、酒に酔ったと言って寝室に入ってきて私を抱いた。
教会で式を挙げ、みんなに祝福されてからの暖かな初夜を期待していたのに…………
私は次の日も仕事だから、睡眠を取る為に別室に移動した。何故なら彼が大の字でベッドで眠り、私が眠る場所がなかったからだ。
廊下に出ると母に出くわし、何があったか悟られた。
「大丈夫? 体辛くない?」と、やんわりと抱きしめられる。
みんなが起きないよう、泣き声は抑えていたのに涙が滲み、そのまま食堂まで母と移動し声を出して泣いた。
彼のことは嫌いではない、好きだった。
でも、僅かずつ熱が冷め、平熱まで落ちていた。
………そして今日、嫌いに傾いた。
私は彼に価値を見出だそうとした。
腐っても商人の娘だもの。
丁度、ある試作品がここにある。
私の体で、一応実験済みの商品だ。
きっと害はない筈はずだ。
だから彼にも、実験台になって貰おう。
《《もし》》彼が、僅かでも私を大切に思っていたなら、酔った勢いで部屋に来なかっただろう。
《《もし》》彼が、僅かでも私を好きだと思っていたなら、部屋に来ても抵抗した私を抱いたりしなかっただろう。
《《もし》》彼が、こんなことしなければ、実験台にはしなかっただろう。
案の定、翌朝になっても彼は謝らない。
覚えてもいないのだろうか?
でも昼を過ぎた頃、彼が悪びれずに声をかけてきた。
「昨日はごめんな。俺、酔っててさぁ。でも痛くはなかっただろ」と。
にやけ顔が癪に触り、つい言い返してしまった。
「母に叱られたわ。声が外にも漏れていたみたい。父も怒っていたので、結婚するまではもうやめてね」
彼はやや顔を青くして、ああっと言って離れて行った。
父には内緒にしていたから、まだ・・怒ってはいない。
私はもう触れられるのも嫌で、部屋の内側に鍵を付けた。
なんだかもう、信じられない。
そして淡々と実験していく日々。
最初は目立たないけれど、徐々に目に見えて成果がでてきた。
彼もずいぶん気にしているのか、雰囲気も変わっていた。
そしてとうとう、実験のことがばれてしまった。
異変に気づいた彼が、医者にかかったからだ。
「なあ、お前俺に何かしたか? 医者は薬害だって、毛根死んでるって言うんだよ。俺の家系にハゲ・・・なんていないのに!」
焦るような、怒るような、真剣な顔で私の両腕を掴み揺する彼。
「する訳ないでしょ? 嫌だなぁ、私、疑われちゃったのね」
そう言って、微笑み返した。
『そう、彼に使ったわ。シャンプーに脱毛剤を入れてね』
(証拠もないのに勘が良いわね、トーモリン)
そう思い、そっと彼のシャンプーをすり替えた。
本物の混じりっけなしのものに。
私の家族と、一部の従業員が知っていた真実。
体には害がないのは実証済み、だからそっち方面は安心して欲しい。
でも一度抜け始めた毛根は、加速度がついて止まらない。
あの後彼は、持ち物を医者に分析して貰い、原因を探って貰っていたようだ。
だけど、もう証拠のシャンプーブツなんてない。
混じったものは回収済みだもの。
だから当然、医者に原因は解らない。
それでも彼は、私を疑っていた。
そしてある日、別れを切り出して去っていった。
彼からの婚約解消なので、慰謝料も発生する筈だった。私の操も奪ったし、家はやり手だしね。
彼の両親も戦々恐々だった。
けれど全ての権利を破棄するならば、慰謝料はいらないと言うと喜ぶ彼ら。きちんと書面に認したためて、お互いで確認した。
彼は「済まなかった」と言って、笑って去っていく。
この時既に、ロン毛から短髪にしていた彼。
海原は◯か師匠みたいになっちゃうからね。
まあ、そんなハゲ方だったのよ(笑)。
周囲からは、損をしたと言われただけの婚約だったわ。心は比較的穏やかだったけどね。
その数か月後、商会から毛はえ薬を発売した。
それと同時に、裏ルートで頭部用の脱毛剤も発売した。
元々は体用の脱毛剤だった。
それが従業員の夫達への愚痴から、作ってしまった新商品。
「あんな奴、禿はげれば良いのに!!」
従業員主婦の協力で、内緒の治験が始まった。
開始前には確認した。だって毛根を根絶やしにしかねないから。でも良いって言われた。
「禿げれば浮気もしないでしょ? 良いわよ」
「あいつの理不尽も、頭部見れば許せそう」
「家の旦那薄いけど、役立ちます?」
すぐに10名程の(内緒の)治験者が集まった。
夫への恨み具合で濃度が分散された。
20%3人、30%3人、40%4人で、シャンプーに入れて使用して貰った。
毎日の観察と、変化のあった時の絵日記をお願いした。大体が同じ職場(家の従業員)だったので、協力者達も暇があれば確認していた。
(ほおほお。◯◯さんの旦那さん、けっこうキテるわね)
(◯◯さんちは、効果薄ね。あ、20%だからか)
(◯◯さんち、いいのかしら? もう末期よ、大丈夫?)
なんて具合に、知らずにストレス解消にも繋がっていた。健康診断時で肝臓や腎臓の影響も調べたが、影響はない。
元々全身脱毛用の薬で、私ルアンも効果は実証済みなのだ。さらに薄めているのだから、影響は少ない筈。普段使わない部分に使う、用途違いなだけで。
過激な妻で(体用のを)勢いまかせに、過去やった人もいるかもしれない。
………でも、それだとすぐばれちゃうからね、抜けすぎて。
これで特許は取らない。
男どもから逆襲される可能性もあるからね。
なので、闇ルートでの販売なのだ。
闇って言っても、主婦ルートだけどね。
勿論口の軽い人には内緒で。
そして使用者でレポートを書いてくれた人には、何割かキャッシュバックしている。
続々とレポートが届き、代わりにキャッシュバックするんだけれど、最近は喜びの声も多く届いている。
たまにキャッシュバックはいらないから、この手の商品開発をして欲しいとの希望もある。
元々の体用脱毛剤を薄めているだけなので、商品単価は高くない。けれどみんなの購入量が多い。各%の物を購入してくれる。
きっと色々な楽しみ方があるのだろう。
そして旦那は毛はえ薬を購入していくサイクル。
「儲けさせて貰ってすいません」
「いえいえ、おかまいなく」なノリです。
そうそう、私ルアンはこの度出産いたしました。
間違いなしにトーモリンの子。
冒頭で暫く寝込んだのは、悪阻つわりが酷かったから。涙も悪阻つわりが苦しくて出たの。
別れの涙じゃなかったのよ、紛らわしくてごめんなさいね。
まだ、毛はえ薬を使う前の子。
あえて言うのは、薬害が子に影響を及ぼさないかと心配だからだ。
脱毛剤は体に普通に使うのだから、あくまでも気分の問題なんだけど、なんかねぇ。
後で産まれた子のことを知っても、トーモリンには何の権利もないのよ。
夫なしで美形の遺伝子をゲットしたので、家の父母は喜んでいたわ。父は最初複雑な顔したけどね。
トーモリンも、彼の両親も悔しがってたわ。
トーモリンは、頭部が寂しくなってからモテなくなったらしいの。だから余計に子供に執着が出たのかしらね。
女性の中には、頭部の髪がない方が好きな人や髪を重要視しない人もいる。内面重視の人がね。
ズル賢いトーモリンには大変かもしれないけど、是非内面を磨いて早くお嫁さんを貰って欲しいわ。
私達のことは忘れて生きて欲しい。
もう私の婿候補いるしね。
同じ商会の経理の子よ、5歳年下なのよ、テヘッ♪
因みにトーモリンに使った薬は30%よ。
40%じゃないだけ良かったと思ってね。
私は彼と偶然会っても、わりと平気だった。
「子供元気か?」
「とっても元気よ。お気遣いありがとう」
なんて返せば、複雑な顔をしていたわ。
ただ頭部の確認をしたいけれど、最近帽子を被っていて確認できないの。同士に報告できず、残念。
そして息子には薬を使われないように、健全に育てようと思う今日この頃だった。
7/24 19時 日間ヒューマンドラマ(完結済)19位でした。ありがとうございます(*^^*)
7/25 9時 日間ヒューマンドラマ(完結済)5位、13時4位でした。ありがとうございます(*^^*)♪♪