新着任の小隊長
とある日の事、優子が、命令作成の調整で訓練事務室に。運幹に泣きつかれ、すでに簡単な命令作成は恒常業務と化している。立ってるものは親でも使え、ましてや使い勝手のよさそうな若い陸曹であればね…。直属の上司である班長は、やらなくていい仕事が増えたことを心配してくれている。確かに少しばかり残業は増えたが、運幹が馴染みの蕎麦屋にボトルを入れてくれるおかげで、このところ酒代が実質上タダ。そう思えば、妥協できる範囲だ。
少し空いたドアの隙間から、お偉いさんがいないかどうか、訓練事務室内の様子を探る。訓練事務室というところは、業務全般のプランニングをするところなので、しばしばお偉いさんが出没するところでもある。お偉いさんは若い女の子に絡みたがるんです。でも、できることなら、お偉いさんの相手なんかしたくないですからね。え、30歳が若いのかって?お偉いさんはみんな五十代ですから、相対的にね……コホコホ。
「……ん?」
部屋の中には、いつもの運幹と訓練陸曹、だけではなく百合子と見慣れない若い3尉が運幹の前に立っている。
「……と言う事で、とりあえず、駐屯地内の施設配置、日課などを掌握。あと無線機の使い方とか野外で必要な技術も、習っておくように。分からないことが有ったら、城3曹に聞いてくれ。彼女の言うことを聞いておけばたいてい間違いないから」
何やら運幹が偉そうに言っている。おそらく、以前言っていた新着任の幹部だろう。ここでの勤務について説明しているのに相違ない。ついでにお目付け役となる百合子との面通しもかねて。
説明に一区切りついたところで、ドアの隙間から覗いている優子と運幹の目が合った。
「あ、三上、いいところに来た。山本3尉、彼女は三上3曹、給養係をやっている。メシの話なら、三上に言えば大抵なんとかしてくれるから。」
ふーん、山本3尉と言うのか、この小隊長さんは…、と思いながら、優子がにこやかに付け足す。
「食事だけではなく、命令の作成も。」
「まあそうだな。SOSを出したらたいていの事はなんとかしてくれる。」
毎度毎度余計な仕事を頼んでいる運幹は、少し申し訳なさそうに頭を掻いた。
「という事なので、何か困ったことがあったら言ってください。」
と、百合子がぺこりと頭を下げた。
「あ、そうだ、嫁さん貰う予定はあるか?」
と、思い出したように運幹が尋ねた。山本3尉に女性関係を尋ねたのは、セクハラまがいの興味があったというわけではなく、家族ができると官舎の手配やら、お昼ご飯の給食数やら税金やら手当てやらが色々変わるので、早めの掌握が必要なのです。
「残念ながら、彼女もいません。」
「可哀想に。あ、そうそう、この二人も独身だけど、”憧れの城に癒しの三上”と言って駐屯地の人気者だからちょっかい出すとみんなに恨まれるぞ。」
と、笑いながら言う運幹。
「そんなこと言うから、私に彼氏ができないんですよ!」
笑顔のままで抗議する優子。
「運幹、それセクハラですからね。」
丁重さは崩さないが、目で脅しを入れる百合子。
そんなやりとりの合間に、優子はさりげなく、山本3尉の様子をうかがう。悪ふざけを言っている中でも、山本3尉は真面目な顔をしている。おそらく初めての場所で緊張しているのだろう。幹部(士官のこと)だといっても、まだ20代前半の男の子だ。しかたがないことだろう。ぱっと見、人柄は良さそうだし見栄えもそれほど悪くない、が、特別いい男というわけではない。まあ、和孝のほうがイケメンだ。新着任の小隊長がいい男で、百合子がほれ込んでしまったらまずいと思ったが、それほどでもない。
「よろしくお願いします。」
山本が優子と百合子に頭を下げた。兵隊さんでいえば、少尉が伍長に頭を下げるというのは違和感があるかもしれませんが、候補生学校出たての幹部なんて階級の感覚がありませんからね。仕事をしていくうちに幹部らしくなっていく、まあ立場が人を育てるということでしょう。
頭を上げた山本は百合子を少しまぶしそうな表情で見た。まあ、そうだろうと優子は思う。たいていの男の子はそんな目で百合子を見る。百合子は女の目から見ても愛らしい非の打ち所がない美少女だ、私に対する態度を除けば。このチビはもう、アラサーなんですよーと教えてあげたい。
当の百合子のほうは、まるで女神様か観音様のようなほほえみを浮かべている。
”ということは……”優子はホッとした。これなら心配いらない、いつもの営業用の笑顔だ。山本3尉を男としてみている様子はない。和孝の恋路の邪魔をする存在にはならないだろう。百合子が気に入っている人を見るときのだらしない顔と言ったら……それが笑点の司会者、というのもいかがなものかと思うのだが。
新しい小隊長の品定めは程々にして、運幹と命令作成の調整をしたいところだが、新着任幹部の教育はまだ続きそうだ。
「運幹、また出直してきます。」
優子は部屋を出て行った。
新着任の小隊長の顔を拝んだ夜のこと、残業している優子のもとへ和孝が息せき切って訪ねてきた。改めて思う、先ほどの小隊長より和孝の方がイケメンだ。
「優子さん、一次試験通りました!!」
「やったわね!しっかり頑張ってたものね。」
胸元で小さく拍手をしながら笑顔を浮かべ、和孝をねぎらった。
「この勢いで、2次試験も頑張りましょう!」
「はい、優子さんのおかげです。」
「礼を言うのはまだ早いわよ、合格したわけじゃないんだから。」
陸曹候補生の試験は、1次試験と2次試験に分かれています。1次試験は学科、2次試験は、体力検定、面接、基本教練というのがオーソドックスなパターンです。ちなみに基本教練とは、簡単な訓練指導のようなことをします。
優子は引き出しの中から、びっしりと書き込まれたA4の紙を5枚ほど取り出した。
「一応基本教練と面接を受ける時の基本的な注意事項をまとめておいたから、目を通しておいて。でも、部隊によって、採点の癖があるから自分の部隊の指導をしっかり受けるのよ。」
「はい。」
候補生試験というのは、小さな部隊を除き、各部隊ごと行われます。なので学科試験、体力検定はともかく、その他の科目は部隊ごと採点にかなり癖があります。優子の部隊ではウケがいい回答も、和孝の部隊では今ひとつ、なんていう事は珍しくありません。そんなことでは困るのですが…
「あとは、体力錬成か…。明日土曜日だし、近くの運動公園で一緒に走らない?」
和孝がビミョーな顔をした。
「走るのは、そこそこ自信がありますけど。中学・高校でサッカー部でしたし、3000mなら11分ぐらいで行けますし…」
女子と一緒のスピードで走ったんじゃ大した練習にならないよ、と言いたげな顔だ。
それを見た優子がにこりと笑う。
「じゃあ、和孝のちょっと良いとこ見せてもらおうかな?」
「任せてください。」
と、自信ありげな顔をした。あーあ、フラグ立てちゃいましたね……
そして、翌日…
「スタミナは、結構あるみたいだけど、スピードが今ひとつねえ。」
「そ、そうですか…」
涼しい顔をしている優子の前で、芝生に倒れ込んでいる和孝が、かろうじて返事を返す。
「そんなに速いんなら、先に言っといてくださいよ。」
優子のスパートについて行くことができず、トラックで周回差をつけられた和孝が、差し出されたスポーツ飲料のペットボトルに口をつけながら、怨みがましい目で優子を見た。
「だって、自信ありそうだったから、お手並み拝見と思ったのよ。」
「なんで、そんなに速いんですか?陸上部だったとか?」
「うん、中学から始めて…実業団にもちょっとだけ所属してた。」
高校時代の監督のコネで実業団に入ったのだが、生憎この不景気、すぐにリストラの憂き目に会いやむなく、部隊に務め直した。
「だからそんなに速いんですか…」
「でも、マネージャーしかやらせてもらえなかったけどね。選手たちはこんなもんじゃないわよ。」
「そうなんですか…」
和孝と話しながら、優子はメモ帳に何か書き込んでいる。
「じゃあ、これ明日からの練習メニューね。駐屯地で、よその部隊の隊員を付きっきりで指導するのもなんだからね、自分でしっかりやるのよ。」
そう言うと、ペリッとメモ帳を破り和孝に手渡した。そりゃあそうでしょう、城三曹に気に入られる人間を作るために仕込んでます、って言うわけにいかないですからねえ。
メモを見た和孝の顔が暗くなる。
「毎日、体幹トレーニングの後、400のインターバル10本、心拍数を180まで上げるスピード。最後に10キロ一本。休日は、これを午前午後…。陸曹候補生になるのってこんな大変でしたっけ?」
持続走競技会の合宿ならともかく、候補生の試験のためにここまでやっている人を見たことがない。
「試験のためならここまでしなくても良いけど…。百合子に気に入られたいんでしょ?これくらいこなせなきゃ、百合子に体力で勝てないわよ。」
「城三曹に勝つためか…」
和孝は、少し憂鬱そうな顔をした…。