秘密
理央と結婚して3年が経っている。
何も変わらないし、何も起こらない。
家庭にやすらぎも期待もない分、オレは仕事に没頭した。お陰で営業7課の課長から昇進して部長になっている。理央は相変わらず、ピアニストとして世界を飛び回り、帰国しても国内を演奏旅行しているので、オレと顔を合わせるのはごく僅かだった。たまに自宅にいても妻らしいことはしない。オレの身の回りの事はお手伝いさんがするから。豪華な家具、外国製のシャンデリアが目を引く「ガラスの城」もただ、滑稽なくらい広いだけの異物に思える。その家の真ん中にいると、孤独感が押し寄せて来る。そんなとき脳裏に浮かぶのは、大学生だった頃知り会った娘のことだ。両親はなく弟と二人で小さい花屋を営んでいた。花が大好きだった亡き母の為に、時々そこで少しだが花を買った。花の名前すらほとんど知らないオレに、いつも優しく名前を教えてくれたり、季節の花を選んでくれたりする、笑顔の可愛い人だった。貧乏学生のオレは彼女にいつも癒され、花を口実に彼女の顔を見るのが楽しみだった。今の会社を受験する事を話すと花と一緒に合格祈願のお守りが包まれてもいた。合格の報告とお守りのお礼を言いに行くと、はにかみながら嬉しそうに微笑んでいた、彼女が今も思い出される。オレも彼女が好きだったけれど、ちっぽけな花屋の娘ではオレの夢は叶えられない。後ろ髪をひかれながら何も言わないまま別れた。
良い人に出会って幸せになっていて欲しいと思っている。 秋も深まった11月のある日、ロンドンから帰った理央は珍しくキッチンに立っている。ブランドものの花柄のエプロンをして、なにやらごそごそしている。黙って見ていると「だめだわ。また、失敗した」独り言のように言う。しばらくして真っ白い、パリで買った皿に黄色い物体を乗せて来る。よく見るとオムレツみたいだが、崩れてぐにゃぐにゃになっている。
「美味しいとは思えないから、捨てて下さって結構です」としおらしいことを言う。こんな言葉が言える口もあるんじゃないか。折角作ってくれたからと一口食べるがやはり不味い。
でも、何の風の吹きまわしか知らないが、オレに食べさせようと作ったのだから
「そうだな。もう少し塩を入れたらいいと思う」
「そうね。私にはやっぱり、料理は無理だわ」
「そんなことない。でも、どうして作る気になったんだ?」
「さあ。どうしてかしら。ロンドンで頂いたオムレツが美味しかったから作りたかったのかな」そういう理央の顔は心なしか沈んでいる。
「でも作ってくれたのは嬉しいよ。有り難う」
少し微笑んだようだが、何も言わず理央は部屋を出て行った。妻らしいことはしないが、海外の演奏から帰る度に、オレへの土産を買って来る。ブランドもののネクタイ、ハンカチ
財布、腕時計など。どれも高級なものばかりだ。夫に安物は持たせられないという、妻のみえだろうが、そんなことでしか、愛情を表現出来ないとしたら哀れな気もする。
皿を片付けるためにお手伝いさんがやって来る。理央が子供の頃から世話をしている人だ。理央がオムレツを作ったと言うとお手伝いさんは驚いている。
「旦那さまは理央さまを誤解されています。本当は旦那さまの為に何か作ってさしあげたいと思われておいでなんですけど、美味しく作れる自信をお持ちではないのです。プライドの高い方ですから、上手く出来ないご自分が許せないのだと思います」
「たかが料理なのにどうして上手く作れないんですか?不器用とも思えないけど」
「それはお料理をされたご経験がおありでは無いからです」お手伝いさんの話では、理央の母親は自分が叶えられなかった、ピアニストになるという夢を理央に託した。その為に、異常なまでに指が傷付くことを怖れ、指を使うもの全てを禁じた。料理、裁縫、スポーツなど。
理央も母親の夢を自分が叶えることを使命のよう感じ、母親を悲しませたくない思いもあり、すべて母親の言う通りにしたと言う。
「大学生の時にお好きなかたがおられ、そのかたの為にお弁当を作りたいから、お料理を教えて欲しいと頼まれました。段取りをしておりますところに、奥様が来られて、何も出来なくなったのです。勝ち気で人前で泣かれることのない理央さまが、その時は大泣きされました。余程悲しく、悔しかったのでしょう」
オレは話を聞いて理央を少し理解した。ピアニストであるが為に女としてしたいことを我慢して来たし、今も続けているのだ。お手伝いさんの話はまだ続く。「理央さまにはコンプレックスがおありでして。私がお話すべきことではないのですが、ご自分では絶対に話されないと思います。この事は理央さまの旦那さまにこそ、理央さまの為にご理解頂きたいのです」
「なんですか?そのコンプレックスと言うのは」
「はい。実はお胸がお小さいことです。高校生の頃、クラスの男子生徒さんたちに、そのことをからかわれて以来、とてもお気にされて、恋愛も結婚もしたくないとおっしゃられたのです。お身体のことは関係ございませんと何度も申しましたが、やはりプライドのお高いかたなので、男性に弱味を見せるようでお嫌なのだと言われまして」
理央の胸が小さいことは勿論知っている。
しかし、その事でそんなに気を病んでいるとは及びも付かなかった。全く知らなかった理央の秘密。理央が妻らしいことをしないと不満に思っていたが、オレだって夫らしいことをして来なかった。
男として、もっと広い心で理央を包んでやらなければいけなかったと反省した。