芸術作品から見えてくる本質とコンテスト
人は作品を作る。
いわゆる芸術家の類が顕著な例だ。
何かを芸術作品として残すから、そう思えるのかもしれない。
しかし世の中にあるもので芸術作品だけが芸術ではない。
プロとしてある道に生きる人にとってみれば、究極的に生み出したものは、その道に携わる人から見ればすべからく芸術作品なのだ。
日常生活の風景にあるコップ、一見つまらないと思える授業に出てきた数学の数式、形として残らない刹那的な切られ役者の演技など。
例を挙げたらキリが無い。
芸術作品はなぜ賞賛されるのか。
それは作品を通じてその人の人間性、ひいてはその人がある道で築いてきた集大成、もしくは人生を垣間見ることが出来るからではないだろうか。
重厚な厚みを感じるものから、薄っぺらいものまで多種多様だ。
作ったものは、見る人から見れば、容赦なく全てが曝け出てしまうものである。
だから、隠そうと誤魔化そうとして、上辺を飾ったとしても見透かされてしまうのだ。
評価され、値踏みされることで、その人の価値は定まる。
今書いている文章も作品となりうるし、語彙のチョイスや文章構成、発想などの様々な観点から点数を付けることも可能なのだろう。
だからこそ文章を書く作家、ひいては人は、色んな経験を積まなければいけない。
誤魔化そうとして、曖昧な表現や中途半端な想像に任せて書いた文章は、薄っぺらいのだ。
いわゆる天才は若くしてその中でも、作品に実際の体験したほどのリアリティを感じさせれるか、実際に体験した者なのだろう。
そして価値を定められないモノ、底が知れない者をまた異才と呼ぶのかもしれない。
一方で、長い経験と努力で生み出す作品を作ろうとする者が秀才と言うのならば、僕らの大多数が秀才を目指しているのだろう。
ある意味で言えば、ほとんどの人間は確率の中に収束している。
秀才が生まれる可能性、天才が生まれる可能性、倍率からそれを計算することも出来る。
世の中にはコンテストというものがあり、人々は鎬を削って賞という、限られた枠に入ろうとする。
倍率は正直な数字だ。
コンテストで幾人の人の中から、秀才や天才が何人生まれるのかを如実に表される。
もっとも、コンテストの評価基準や合格基準が、緻密に設計されたものであるのが第一条件だ。
故にコンテスト自体も芸術作品になりうる。
綿密に設計され、厳密に評価出来る評価者、そして究極的な応募作品によって完結する、一つの作品だ。
僕達は出来る限りコンテストという名の芸術作品に応募して、評価を受ける権利があり、作品を完結させる義務があるのだ。
だからコンテストに応募しよう。
ええ、そうです
私がコンテストの回し者おじさんです