第2章〜白山千鳥〜
山口陽菜乃が皐遼介と出逢ったのは二十四の時だった。看護師と消防士、五対五の、いわゆる合コンだ。陽菜乃のこれまでの人生は男に困るものではなかった。ただ、今まで付き合ってきた男はみな、長続きしない、つまらないのばかりだったのだ。二十四年間ずっと、真面目に過ごしてきた陽菜乃にとって、この時必要としていたのはスリルかもしれない。
一方男−遼介−の方はつい二ヶ月前まで五年間付き合っていた彼女がいた。美容師の卵で、どの男も羨むようなモデルのような完璧美女だったが、遼介は家庭の価値観が違うからと、あっさり別れてしまっていた。今日は価値観の合う女を探す目的と暇つぶしを兼ねて参加していた。
神戸の呑み屋で一通り盛り上がった後、ドライブとやらに行こうと決まった。女性五人は男達が回してきた車二台どちらかに乗ることになる。五人中四人は真面目な万人ウケするキャラの男が回したデリカに乗り込む……一人だけ、遼介が回した小さな−ダッシュボードを黒いシートで覆った−車を選んだ。陽菜乃だった。公務員といっても元ヤンで高卒の遼介の車はやたら暴力団員を彷彿とさせる仕様だった。でも一目惚れしていた陽菜乃は盲目にもその車を選んでいた。呑み屋で価値観の話で意気投合したことを心なしか嬉しく思っていた遼介も、女が特別好きではないながらに、嫌とは思わなかった。他愛のない話をしながら遼介が選んだドライブ先は、夕日の良く見える砂浜だった。
「あの…」
「はい。」
「突然でなんですが、俺、貴方との会話が楽しくて。もっと知りたいです。」
「はい。私も…」
「ですから、結婚を前提に、お付き合いして欲しいです。突然で申し訳ないんですけど。」
「はい。よろしくお願い致します。」
こんな真面目な会話が出来る相手なのだからと信じ込んでいたら、実は相手が二個も歳下だったことに、陽菜乃はとても驚いていた。
それから二人の仲が深まるのは遅くはなかった。忙しいながらも会い、会話をし、身体の関係も持った。その『身体の関係』が間違いだった。お互い初めての相手では無かったが[結婚前提]という意識があったからか、遠慮の気持ちはどちらもなかった。そのせいで出逢って二ヶ月で身籠もるという有り得ない展開になった。これには陽菜乃もびっくりしてしまった。結婚の挨拶も、婚姻届も何もしていない状態の時の妊娠だった。二人にとって最初の子なのだから、予想外の展開ながらも若い男女はとても喜んだ。
しかし、問題が一つあった。この子の父方の祖父母である遼介の両親は結婚を快く了解した。それに対し、母方の祖父母−陽菜乃の両親−は結婚をなかなか認めなかった。先ずは娘が嫁ぐ遼介の実家があまり良い家柄では無かったことが原因だった。綺麗とは言い難い住まいと陽菜乃の実家とは正反対の賑やかなご近所。それから、遼介自身の見た目もあった。真面目な服装をしているが、厄介な雰囲気が滲み出ていた。これでは妊娠のことを打ち明けられないと戸惑っていた矢先、陽菜乃の父が、とんでもないことを口にした。
「そんな不真面目な親のいる男などのところには嫁ぐ意味がなかろう。」
遼介はここで全てを受け入れた。それは、結婚を諦めるという意味ではなく、目の前にいる年上の男を見損なうという意味だった。自分の親を罵倒された屈辱と自分の苦手な考えの固い人間との会話の疲労でヤケになった遼介は、陽菜乃とともに、駆け落ちすることを決心した。
駆け落ちの実行日は晴れた冬の日だった。飛ばして回してきた遼介の車に親の目を盗んで飛び出してきた陽菜乃が乗り込む。決して安定期に入ったわけではない陽菜乃にとって、この時の短距離走が一番苦しかった。駆け落ち後の二人は遼介の実家に落ち着き、その年の二月に入籍。夏に元気な女の子を授かった。瑠夏と名付けられた子は良く笑い、周りの人間を癒す存在となっていた。
瑠夏が生まれて二ヶ月、遼介の母親が陽菜乃の実家にも顔を見せた方がいいのではと提案した。外堀が冷めた時期だったために一度行っておこうと、陽菜乃は母親に電話をかけた。
実家に帰ると何事もなかったかのように温かく母が迎えてくれた。父は仕事に出ているから夕方まで帰らないと聞いて、少しホッとした。実家暮らしの弟が瑠夏と見つめ合っているのを可笑しく思いながら、初孫に目を細める母を複雑な気持ちで見ていた。遅めの出産祝いのご馳走を並べながら父の帰りを待っていると、いつもより明らかに急いでいる足音がドアを開けた。母によると、初孫を一番心待ちにしていたのは父だったと聞いた。ベビーベットに寝かせられた小さな女の子を見た途端、いつもしかめっ面の父が少し穏やかな目をした。あれだけ反対していた父も、子供には敵わない。ましてや女の子ともなると可愛くて仕方がないのは陽菜乃も同じだった。こうして無事に初孫は受け入れられたのだった。