舐めやがって
そういえば今、何時なんだろう。
手の中に収まっている懐中時計の竜頭を開こうと右手を動かす。
すると、後方から誰かが勢い良く先方に迫っているのを足音で感じた。ふと振り返ろうとしたとき、勢い良く私の肩にぶつかってきた。
「うわっ!」
咄嗟のことだったので受身を取ることができず、地べたに強く尻餅をついた。
「レイ、大丈夫?」
「怜、平気?」
頭上から心配そうにリーゼロッテとうさぎが同時に声をかけてきた。
大丈夫なわけないだろ。石畳の上に勢い良く手をついたため、手も尻もかなり痛い。辛うじて後ろに倒れた場所は水溜りではなかったが、まだ乾いていない湿った石畳だったためスカートが濡れてしまった。
一体なんなんだよ。
後ろ姿だけだったが、私にぶつかってきた人間は少し妙な格好だった。黒いコートに黒い革パンツを履いた全身黒ずくめだった。そして目元まで隠れるほどの大きなつばのついた黒いキャップを被っていた。
「レイ、立てる?」
リーゼロッテは紙袋を片手に抱えながら屈み込み、手を伸ばしてきた。
「なんだよ、急いでいたとしても普通謝るだ………ろ、あれ?」
毒づきながら差し出された手を取ろうと右手を出したとき、違和感に気づいた。
右手に持っていたはずの懐中時計がない。後ろに倒れた拍子に落としたのか。
「ねぇ、懐中時計そこら辺にない?落としたみたい」
「落とした?懐中時計を?」
リーゼロッテと共に辺りを捜し始めた。円形のものだが、球体ではないためそれほど離れた場所に転がってはいないはずだ。
「ない」
しかし、どこにも懐中時計は見当たらなかった。小さいものだが金色の光沢があるため見つけやすいはずなのに、懐中時計どころか金色のものもなかった。そもそも、見通しのいい街道なので何回も見回す必要はない。尻に濡れた感触を感じながらゆっくりと立ち上がり、もう一度辺りを見回す。
「あった?」
「ううん。ない」
もしかして誰かに拾われてしまったのか?いや、それはないか。私の見た限り誰も何かを拾った仕草をしていなかった。
「怜、怜」
うさぎが切羽詰ったような声をしながら私の名を呼んだ。
見つかったのか。やっぱり誰かに拾われ、そのまま持っていかれようとしているのか。
私は視線だけ動かし、頭上にいるうさぎを見た。
「あっちあっち」
うさぎが指差した方向を見た。
「なっ?」
私は驚愕した。
懐中時計をさきほどぶつかって来た黒服が持っていたのだ。
黒服は私の懐中時計をこれ見よがしに見せつけ、にやりと口角を上げた。どうやら、私が気づくのを待っていたらしい。それと同時にあの黒服は偶然私にぶつかったのではなく、わざとぶつかり懐中時計を盗んだこともわかった。
「あの、その時計………」
リーゼロッテもあの黒服に気づいたらしく先に声を上げた。黒服はリーゼロッテが声をかけると一目散に走り出した。
「ちょ!」
私はわけがわからなかったが、頭より先に身体が動いた。スカートが濡れたことなど気にする暇がなかった。
「はぁ、はぁ、ちょっとそれっ」
地面に連なっている水たまりや通行人を避けながら走っているので思うようにスピードが出ないせいか追いつけない。時折、人や街灯にもぶつかりそうになり変に身体にブレーキがかかり、体力が徐々に削られ、減速していくのがわかる。元々、体力も走力も人並み以下の私にとって誰かを追従することが思った以上にきつかった。
しかし、私は走っている最中妙なことに気づく。あの黒服との距離は縮まってはいないが、離れることがないことを。足が遅い私から本気で逃げようと思えば逃げられ、すでに姿だって見えなくなっても可笑しくなかった。まるで私の様子を見ながら加速や減速をしているみたいだ。
あいつ、一体何が狙いだ。いや、追っているとき薄々感づいていた。
あいつの目的は懐中時計を盗むことではなく、私に自分を追従させることだった。だから、懐中時計を持っていることを私が気づくまで待っていたのだ。
私を誘い出す目的はなんだ?ていうかだれだ?男なのか?女なのか?
疑問が頭に浮かぶ中一つの仮説を立てた。もしかして、昨日からのあの嫌な視線の正体はあいつか。このタイミングで私を誘い出そうとする犯人の心当たりはそれしかなかった。
「上等だ」
その挑発乗ってやる。絶対、あの犯人に追いついてやる。
こんなもやもやとした気持ちは今日中で終わらせてやる。
「待てっ、それを返せ!」
声を張って引きとめようとするが当然黒服は私の声を無視し走り続けた。
完全に追いかけっこ状態だ。向こうが右折すると私も右折し、直進すると私も直進する。私と黒服との間の距離は10メートルほど離れたままだったがなんとか見失わないでいる。
いや、向こうがわざと付かず離れずの距離を保っている。走りながら私の様子をちらちら見ながら可笑しそうに笑っているのが見えた。
完全にバカにされている。私が追いつけないことを面白おかしく走りながら眺めている。
舐めやがって。しかし、どんなにかんばっても追いつけるほど私のスピードは上がらなかった。
「怜、もう少し走力上がらない?」
「無茶言うな」
お前は良いよな。ただ、ぷかぷか宙に浮いてるだけなんだから。
私は走りながら犯人の正体を考えた。やっぱり、昨日の収集癖男か?いや、昨日の男よりも背は明らかに低いし体型も違って見える。
どちらにしても用心しないといけない。あの黒服は懐中時計を餌に私をどこかに誘い込もうとしている。どうにかひと気のある往来で捕まえられないものか。
追いかけてはいるが黒服のノアの正体がわからないうちはあまり近づきすぎないほうがいいかもしれない。最初のうちはあの黒服に追いつけないものか躍起になっていたが、黒服に対しての警戒を強めるという意味ではこの距離が皮肉にもちょうどいいと思い始めていた。速くひと気のある往来で捕まえたいのに近づきすぎてはいけないという矛盾に気づきながらも足を動かすのをやめなかった。
「………………あ、忘れてた」
懐中時計を取り戻すだけなら別にこんなに必死に走る必要なんてなかった。
脈絡なく懐中時計を奪われ、ずっと走り続けていたからそこまで頭が回らなかった。
気づいた途端、奮起していた思考が冷静になってくる。
早く気づけばよかった。
その場に留まり、いまだに余裕をかましている黒服に向かって右手を掲げ、力を入れた。同時に黒服が持っていた懐中時計の鎖がわずかに動いた。
「!」
黒服は懐中時計が引っ張られる感覚に驚き、足を止めた。ぐぐぐっと鎖が私の方に引っ張られるのに対し、黒服も負けじと持っていかれないように踏ん張っている。私はチカラを強めるため右手を掲げたままゆっくりと前進していく。前進することで引っ張る力が徐々に強くなっていった。黒服も懐中時計を持っていかれないようにぎちぎちっと強く掌で握り締めていた。私はぎちぎちと今にも壊れそうな懐中時計を見て焦り、苛立った。
おい、そんなに強く握り締めたら壊れるだろうが。
私は渾身のチカラを込めた。
「!」
ぐぐぐっと引っ張られていた懐中時計は思いっきりチカラを込めたと同時に黒服の手から離れ、びゅんの風を切るような速さで私に向かってきた。
私はそれをうまいことキャッチした。
私は素早く懐中時計の中身を開き、壊れていないかを確認する。
ヒビが入っているわけでも針が止まってもいなかった。懐中時計の針は通常通り規則正しく動いている。
ほっと息をついたすぐ後に黒服をギッと睨み付ける。
黒服は私の睨みに怯み、一目散にその場から逃げ出した。懐中時計を取り戻されたことが予想外で焦っているのか走り方がぎこちない。
さっきまでの余裕はどこへやら、今度は私が鼻で笑う番だ。
「はぁ、やっと追いついた」
リーゼロッテの息を急いた声が後ろから聞こえる。荷物を抱えながらなので私よりも動作がどうしても遅れてしまっていた。
「あんた一体誰?言いたいことがあるんならはっきり言えよ。ていうか、昨日からの視線ってあんた?」
黒服は私の声を無視し、裏路地に入っていった。
私たちはその後を追う。
絶対今日中にあいつを捕まえて、夜ぐっすり眠ってやる。




